今、テレビで見ている、漫画家・作家・画家の、ヤマザキマリさんの番組では、ヤマザキさんは、昆虫が大好きであり、意思疎通が出来ない所がそもそも良い、と判断を下している。
そういう私は、あんまり、というか、意思疎通が出来ない動物は、生き物としては、嫌いと言って良い。
けれども、鳥はどうなんだ、というと、鳥なんて、やはり、意思疎通が出来ない生き物の、最たるものではないのか、との疑念も沸く。
私なども、鳥は、子供時代から、うちの両親が小鳥屋をやる前から、大好きだったが、鳥と、コンタクト、心が通っていたのかなあ、と思うと、心許(こころもと)ない。
けれども、最近、というか、半年以上前の去年、こんな事があった。
私が、日蓮正宗の、勤行唱題に励んでいた時、つがいの、雌雄ペア、多分、親子ではないとは思うのだが、この鳩の二羽が、私が唱題で盛り上がっている時に、アルミサッシの戸を境に、お題目を唱える私の身辺そばまで、その鳩たちが、家の境まで向かって近づいてきたのだ、正に。
この時ほど、鳥ですら、鳩ですら、法華経、妙法蓮華経を求めているんだ、との深い念慮を懐いた事など、なかった。その時の、鳥と言えども、それら鳩たちが、可愛らしい、なかなかやるな、と思えた事はなかった。
鳩も、仏法、法華経を求めている。畜生界の、あの鳩が…。ほとんど、それらが起こった事実を鑑みて、何故か、キリスト教の、カトリックの、フランシスコ(確か)を思い出した。
たしか、フランシスコだとは思うんだが、彼が、キリストの説法を垂れると、身辺に、鳥たちが沢山寄って来た、という。そういった伝承が、キリスト教カトリックにはある。
私が今、真剣に信仰している、世界に冠たる日蓮正宗でも、おんなじ様な事が起こった。
これは、鳩だけではない。スズメや、小さな野鳥なども、私がお経を唱えていると、必ずと言って良い程、小鳥が盛んに声をさえずったり、私のお経を聞きつけて、私のもとに、小鳥が近づいてくる。元々、人間の、お経やお題目の唱える声と、小鳥などの、さえずりの声が、相性が良いのだ。鳥たちは、私のお経の声に、全然、驚かない。お鈴(りん)の音さえ、鳥たちには心地よいようだ。
これら、森羅万象の、大自然の冥利、摂理、妙法の大自然との相性を考えてみると、鳥は言うまでもなく、昆虫類の、意思疎通の叶わない、動物、というか、生き物たちまでも、大自然との共存共栄も可能なのではないのか、との感覚に捉われた、今日の一日である。誠に、大仏法仏教とは、大自然と一体、大自然と合一した存在なのだと、その不思議な妙法の功徳力を、かーるく、思わせられた。
畜生界ですら、こちらに合わせて感応する。それならば、天界の、朝の初座で最初にお経をあげる時の、天の神々や、それこそ、二乗や、菩薩界、仏界などが涌現したとしたら、これは、大変な事になる。信仰者にとっては、そういった小さな事共が、うれしいのである。それら福徳を満たす為、その素地を養う為にこそ、一仏乗の御教えをかしらに頂き、日頃から自分を磨いてゆきたい。
※編集後記
我がお寺では、最近、鳥のカルガモ親子が住み着き、皆で見守っていた。先日来、お寺からは居なくなったので、巣立ったものと思われる。昔、と言っても、私が入信した年まで、お寺では愛犬のコロという、血統書の、何て種類だか忘れたが、亡くなってしまったが、とにかく、犬がいた。
うちのお寺でも、動物愛護の精神に満ち満ちている。
動物は何と言っても、かわいい。どんな動物でも、それなりに、愛嬌がある。動物を、これからも慈悲の精神で、慈しんでゆきたい。
以上。よしなに。wainai