私のおばあちゃんの実家が浄土真宗で、おばあちゃんは日蓮正宗創価学会だった。
その家系なので、当然、私も浄土真宗の罪障が横たわる。
私の幼い頃、虫を良く殺した。中でも、足を無くしたりした身体障碍のカブトムシを見るのが無惨で痛々しく嫌で、私はわざと命を奪ったりした(正確には、その虫を外に捨てて来た)。酷い無慈悲の、人の風上にも置けぬ私である。
一生懸命に生きている虫。そのもがくように苦しむ姿が苦々しく、ちょうど浄土真宗の傾向性が日蓮正宗の樋田昌志さんのホームページの片隅に、各宗派の傾向性のページがあるが、そこの浄土真宗のところには、衝動的破滅的な行動に走りやすい、何事にも悲観的、といった項目が列挙されていた。
私も御多分に漏れず、これらの項目にピタリと符合する。うちにはラッキーと言うシェルティー犬がいた。
私は犬の彼女が死の間際、苦しむ姿を見たくないばかりに、お風呂場の仕切りに犬を隠し、苦しむ声も姿も見えないようにした。
しかし、母は一人、それではラッキーが可哀想だと、犬を人の面前に連れ出し、皆に見えるように犬を置いた。
ラッキーも安心したのか、苦しいが、そんなに前よりも痛がっている風には見えなくなった。
その日、ラッキーは家族に見守られ、眠るように亡くなった。母も私も、悲しむよりも、その日一日をいたわり合った。
私は、実に無慈悲な人間だと思う。これらの一件を思い出す度に、そう思う。それを、一概に邪宗教のせいばかりにしてもいけないが、ピタリと当たるそれら教えに、日蓮正宗の正統、真の確実なみ教えに、戦慄と共に、安心安堵の大確信を抱くのである。