私は今年、六月が七月、或いは八月ごろ、自分の作業所で、「お早うございます」、若しくは「こんにちは」と言おうとした刹那、何故か、「南無妙法蓮華経」という、御題目が自然と出る(出て)しまいそう(実際にそうなった)になり、困ってしまった事があった。
それを、うちのお寺の、日蓮正宗無量山寿海寺に悩みのご相談に、お電話をすると、奥様が出られて、御住職様はご不在であられた。
でも、そして、奥様は、仰られた。「『○○君(私の事)』は、きっと、毎日のようにお寺の唱題会に通い、一時間もずっとお題目をあげてるから、それが功徳、御利益、癖になって、挨拶の言葉が、南無妙法蓮華経って自然と出て来るんだよ。
一生懸命やってる証拠だよ。頑張って!」と仰る。
元副講頭の、前回記事にも出て来た、Kさんなども、仰られるのは、「凄いじゃない。○○さん。それだけ信心が深まり、高まってる証拠だよ。挨拶で、南無妙法蓮華経。いいじゃない。どんどんやって、そのままでいいんだから、ずっと、おやんなさい。○○さんの信心が凄い高度に高まってんだよきっと」と、どの方も、皆、異口同音にそう、南無妙法蓮華経の、御題目の効用、自然の発露を、素晴らしい功徳だ、御利益だ、凄いと仰り、ついでに、私を、褒める。
これには、私は正直、迷い、戸惑い、困ってしまう。恥をかくのは、私自身である。皆、その場の、私が当然、挨拶で、「お早うございます」と言うに決まっている所を、私は、「南無妙法蓮華経」とやる訳だから、ちょっとどうかしている。
それが、お寺の、皆の、講中の中では別の価値観、御題目が素晴らしいと説き、○○君(私の事)の信心のレベルがひたぶるに上がり、向上している、と、これが、一心に私を捉えられている。
これも、私は失笑・苦笑するしかない。今では、余程気を付けていて、そういった事、失敗をしないように心掛けてはいるのだが、これ又、誰にも、私のそういった勘違い間違い、誰に対してその、「南無妙法蓮華経」が出てしまうかは、全く、確率論から言っても、保証のしようが全然なく、未知数であり、判らない訳だ。
まあ、私も、若しも又、仮に、もうそうなってしまったら、ケツをまくってでも、もう諦め抜いて、実際に、それを言い繕うにせよ、誤魔化すにせよ、である。
寧ろ、潔く、それらの御事を、私が、最後まで言い切り、その、御題目の大事の極意極説というものを、その場で、相手に説き伏せ、語り出してまでも、改めて日蓮正宗の御教えの御事の素晴らしさ、折伏行の、破権門理の、大仏教哲学の御話を私自身が天に、神々に、大聖人様に、大御本尊様に、畏れ多くも成り代わり、邪宗邪教共をその場で徹底的にバッタバッタと御成敗し、それに邁進するにしてでも、それは、その場に於ける、形成次第、その時はその時だと思っている。
もうどうにでもなれ、なったらなったで、しょうがない、と言う心地・心境・境地であり、もう、そんな細かい事は、話の成り行き上、こだわったって、どうしようもない。
そんな事は、小さな事は、今の自分にとって、どうでも良くなりつつある。
以上。よしなに。wainai.