ところでKBSドラマ <ファン・ジニ>にはただ色だけがある。 1億ウォンの値をつける五色韓服をはじめとして、考証を経なかったあらゆる踊り、琴を弾く姿と、緩むひもに込められた「合体」場面等等、視聴者が妓生を思い出させる時想像するすべてのビジュアルをみな整えた。 HD画質のために全国の秘境を写した古いカメラまでそれこそ目の保養になるものはみな集まった。
今の展開では「誰が彼女と寝たのだろうか?」だけが劇の焦点だ。 ファン・ジニがどんな男とからまるかにだけ関心を持った末梢的なプロットは扇情性を越えて、「韓服口は <動物の王国>」になってしまった。 男女はただ「自分」のためにだけ会って別れる。
<ファン・ジニ>は妓女に対する通念すぐにそれ自体に寄り添ったドラマだ。 妓女というのはただ「からだ」の存在ということしか見せられずにいる。 16回の間製作スタッフが精魂を込めたことはただ妓女たちのきらびやかな服と踊りだった。 ファン・ジニの光る詩と時調(定型詩)はただ男女の結合のため「色目」に過ぎない。 選んで選んだ男と難しく雲雨の情(性交の楽しみ)を分けるために、その愛を始めたり維持するためにだけ詩を作るドラマの中「その娘」ジニはただ高級売春婦の姿というだけだ。
「解語花」という単語もまた、当代最高の詩人のファン・ジニには真に侮辱的な別称なのに、ドラマの中でまるで月桂冠のように使っている。 その「語」というのは徹底的に男性の専有物であり、妓女が作る詩は文学性と関係なくただ話の理解もわかる「微笑み」水準に釘をさす単語であることを見過ごしたのだ。
ファン・ジニの母ヒョングム(チョン・ミソン)の役割はもう娘の恋の成就を防いだり助けることだけだ。 キム・ウンホ(チャン・グンソク)と離そうとする周辺の陰謀でその父親と「初夜」をおくるところだったことは、倫理と道徳の根幹を揺るがしただけファン・ジニの魅力度、妓女の自由昏倒を見せることができなかった。 21世紀の女性視聴者たちのために「女でない妓女で生きる」として歯ぎしりする女戦士のような表情をしばらく作っただけだ。
その「復讐」がいわゆる肉布施だけを意味してただ扇情的な姿で両班(ヤンバン)の男たちの腸を煮えくりかえすだけが目的ならば、21世紀の映像産業がそろってファン・ジニを呼び出したことはその魂に対する冒とくではなくて何だろうか。
「からだ」だけ残ったドラマの中のファン・ジニが「妓女のからだは万人のもの」としながら自身を喜んで投げる出す瞬間は、ただ視聴者の観淫症とインターネット演芸新聞のための餌としてとても重要に使われるだけだ。
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