善徳女王の時のように、「太王四神記」でもオーマイニュースで面白い記事はないかと探してみました。
韓国で放送が始まったのが2007年9月ですが、この記事は10月に入ってからのものです。
私が見たのはまだ1話・2話だけなので、この記事で扱われている話までは到達していないのですが、先に読んでみました。
比較的短い。このころは、オーマイニュースの記事はわりと短かったのです。
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<태왕사신기(太王四神記)> 「大陸百済」扱って24日放映分で「東百済」「西百済」に言及
出処:オーマイニュース 07年10月25日
24日放映された<太王四神記>で‘大陸百済’が扱われた。タンドク(ペ・ヨンジュン)がヨン・ホゲ(ユン・テヨン)の百済出征をやむを得ず許諾した後、戦争を勝利に導くための戦略を立てる部分で「東百済」と「西百済」が言及されたのだ。
ここで話す「東百済」と「西百済」は何だろうか? 言葉どおりならば東側にある百済と西側にある百済なのに私たちの国史教科書には百済が地図に一つで表示されているだけなので即座に理解が出来ない。 しかし中国の記録を見れば話が変わる。
中国の史書である宋書の百済条によれば「百済は遼西(腰下川西側)を競落したが、百済が治める所は晉平郡、チンビョンヒョンだった」という記事があって梁書の百済条には「百済は遼西と晉平2郡の土地を占めたが、自ら百済郡を置いた」と書かれている。 また南斉書によれば百済は498~490年の間にその境界に攻め込んだ北魏の騎兵数十万を壊滅させただけでなく海上戦でも大勝をおさめた。
前の二つの記録はそれとしても、南齊書での記録は百済の中国大陸領土を確かに立証している記録だ。 北魏をたてた鮮卑族は遊牧民族で海を知らない民族だ。 そのような北魏が海を渡って韓半島に位置した百済を攻撃するということは不可能なことだ。 それでも当時東北アジアの強国だった高句麗を通過して百済を侵攻するということも話にならない説だ。
したがって北魏は中国大陸に位置していた、また他の百済領土を攻略したのだ。それが一部学者が主張する「大陸百済」であり<太王四神記>で言及された「西百済」だ。
中国はいわゆる「春秋筆法」を通じて自国中心に歴史を記述するから中国の歴史であのように出ているならば百済の実体は記録より増えることはあっても増えないはずがない。
私たちの司書でも百済の中国大陸領土を見せる例がある。 新羅末のチェ・チウォンが作った上大師侍中状で高句麗と百済の全盛時代には強い兵士が百万人もなって南に五月を侵攻したし、
北では魏、燕と齊、魯を困らせて中国の大きな厄介者になったと言い、海上を通った中国進出を言及している。
もちろん「百済の遼西侵略説」「大陸百済説」等は現在の私たち史学界で定説として受け入れられないでいる。しかし前の色々な記録で知ることが出来るように全くでたらめな話ではないから、いつかは私たちが必ず再証明しなければならない部分だ。そのような側面で見る自国内の史劇の最初に「大陸百済」を扱った<太王四神記>は高く評価するに値する。
韓国で放送が始まったのが2007年9月ですが、この記事は10月に入ってからのものです。
私が見たのはまだ1話・2話だけなので、この記事で扱われている話までは到達していないのですが、先に読んでみました。
比較的短い。このころは、オーマイニュースの記事はわりと短かったのです。
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<태왕사신기(太王四神記)> 「大陸百済」扱って24日放映分で「東百済」「西百済」に言及
出処:オーマイニュース 07年10月25日
24日放映された<太王四神記>で‘大陸百済’が扱われた。タンドク(ペ・ヨンジュン)がヨン・ホゲ(ユン・テヨン)の百済出征をやむを得ず許諾した後、戦争を勝利に導くための戦略を立てる部分で「東百済」と「西百済」が言及されたのだ。
ここで話す「東百済」と「西百済」は何だろうか? 言葉どおりならば東側にある百済と西側にある百済なのに私たちの国史教科書には百済が地図に一つで表示されているだけなので即座に理解が出来ない。 しかし中国の記録を見れば話が変わる。
中国の史書である宋書の百済条によれば「百済は遼西(腰下川西側)を競落したが、百済が治める所は晉平郡、チンビョンヒョンだった」という記事があって梁書の百済条には「百済は遼西と晉平2郡の土地を占めたが、自ら百済郡を置いた」と書かれている。 また南斉書によれば百済は498~490年の間にその境界に攻め込んだ北魏の騎兵数十万を壊滅させただけでなく海上戦でも大勝をおさめた。
前の二つの記録はそれとしても、南齊書での記録は百済の中国大陸領土を確かに立証している記録だ。 北魏をたてた鮮卑族は遊牧民族で海を知らない民族だ。 そのような北魏が海を渡って韓半島に位置した百済を攻撃するということは不可能なことだ。 それでも当時東北アジアの強国だった高句麗を通過して百済を侵攻するということも話にならない説だ。
したがって北魏は中国大陸に位置していた、また他の百済領土を攻略したのだ。それが一部学者が主張する「大陸百済」であり<太王四神記>で言及された「西百済」だ。
中国はいわゆる「春秋筆法」を通じて自国中心に歴史を記述するから中国の歴史であのように出ているならば百済の実体は記録より増えることはあっても増えないはずがない。
私たちの司書でも百済の中国大陸領土を見せる例がある。 新羅末のチェ・チウォンが作った上大師侍中状で高句麗と百済の全盛時代には強い兵士が百万人もなって南に五月を侵攻したし、
北では魏、燕と齊、魯を困らせて中国の大きな厄介者になったと言い、海上を通った中国進出を言及している。
もちろん「百済の遼西侵略説」「大陸百済説」等は現在の私たち史学界で定説として受け入れられないでいる。しかし前の色々な記録で知ることが出来るように全くでたらめな話ではないから、いつかは私たちが必ず再証明しなければならない部分だ。そのような側面で見る自国内の史劇の最初に「大陸百済」を扱った<太王四神記>は高く評価するに値する。
朱蒙のころになってやっとオープンになり、歴史家たちもこの周辺に言及したりできるようになったらしいです。