このシリーズは、本当に勉強になります。
歴史的な用語が多く、正しく訳せていない部分も多いとは思いますが、お許しください。間違いをご指摘くださると嬉しいです。
なぜ、ユシンはミシルに従ったのか、またミシルはなぜユシンを抱き込まざるを得なかったのかについて、詳しく解説されています。
******************************
ミシルの前にひざまずいたユシン、本当だったのだろうか
[史劇で歴史読み取る] MBCドラマ <선덕여왕>
出処: -オーマイニュース
迂余曲折と多くの辛酸と苦難の末第15世風月主競争で最多勝をおさめたキム・ユシン(オム・テウン)。さて、数日ゆっくり休んだ後に風月主追認を受けに会議場に入ったところ、ソルウォン(チョン・ノミン)が突然にユシンの不正疑惑を提起したせいで「追認式」は「承認聴聞会」に変わってしまった。 そのためにユシンの風月主追認はひとまず保留されてしまった。
普段礼儀正しくて素朴に見えるだけでなく国民指向的な経世学を熱心にするので「あんな人ならば格別問題ないだろう」といって良いように見えたが、なんと実際に蓋を開けて見るとそのようなユシンからも道理にはずれることが出てくるのではないか。
伽耶の復興を試みる福夜会と連携して伽耶の遊民たちに無償で土地を渡した事実がばれてしまったので、ユシンは反逆罪で処断されても話す言葉がない境遇になった。 彼はミシル(コ・ヒョンジョン)に完全に足かせをかけられてしまった。
そうしなかったふりをして、その程度の罪を犯すほどの人物ならば、もう少しはたいてみれば商人たちから賄賂を受けた情況とか、あるいは高句麗・百済・新羅「3重国籍」を持った情況がひょっとして出てくるかも知れないのに、どうしたことかミシルは捜査を中断させてユシンに手を差し出す。 私の側になれば助けるぞと。ミシルはユシンを自分の懐に引き入れたかったのだ。
まっすぐで意志の強いことで噂になったユシン。そのようなユシンが『私が入れば伽耶の遊民たちを生かすことができる』としてミシルにひざまずいて降参を宣言する。
『もうセジュ様の懐に入ろうとしています! 』そのようなユシン(当時18才)にミシル(当時64~67才)は答える。
『私が年老いて、直接抱くことができないから私の孫娘のヨンモと婚姻をしなさい! 』
チョンミョン・トンマンの側に立ってミシルと対立したユシンが「ミシルの男」になる瞬間だった。
21日と22日のドラマ<善徳女王>第35話および第36話で放映された上の内容は実際歴史とは関係がないフィクションに過ぎない。だが、一つだけは本物だ。ユシンとミシルが一つになったという話だけは明確に記録上の根拠を持っている。筆写本<花郎世記>によれば、ユシンはミシルの助けを受けて、花郎徒の副代(第二人者)および風月主に上がったし、またミシルの孫娘のヨンモと婚姻をした。
このようなユシンとミシルの政治的提携は新聞紙面のゴシップの種に過ぎない程度の話では決してない。これは6世紀後半以来の世界的危機に直面した新羅が伽耶勢力を積極的に包容して、国内の政治的力量を総結集した後にこれを基盤に百済と高句麗を滅亡させて大同江(テドンガン)の南を確保していく過程で発生した重大連結の輪であった。
キム・ユシンは新羅の大同江(テドンガン)南の確保に決定的役割をした人物という点で、そのようなキム・ユシンに出世の道をパッと開いてくれたユシンとミシルの提携は「歴史的コネクション」だったという意味を付与しても少しも行き過ぎでないだろう。
それでは、こうしたコネクションがどんな背景によって、どんな過程を経て展開し、またそれはどんな影響を算出したのだろうか?
<三国史記>や筆写本<花郎世記>はもちろん、当時の世界情勢を総合して、ユシン-ミシルコネクションの全貌を暴くことにする。
本論に入るのに先立ち、読者たちがひょっとして持っているかも知れない疑問を先に確かめて行くことにする。 「ユシンが風月主となる時だけでもユシン家の政治的代表者はユシンのお父さんのキム・ソヒョンであったのに,ソヒョン-ミシルコネクションといわないでユシン-ミシルコネクションという理由は何か?」という点の話だ。 その理由は簡単だ。 息子よりさらに有名になることが出来ないお父さんは歴史の中で「誰それのお父さん」で記憶されなければならない「悲運」(実際には光栄)に耐えなければならないためだ。
<1>ユシン-ミシルコネクションの背景
最初に、巨視的背景。西暦6世紀後半から7世紀中盤まで東アジア世界にはひとしきりうず巻きが大きく吹き荒れた。およそ4百年の間混乱状態にあった中国を隋が統一(589年)し、この隋が漢武帝の時の光栄すなわちパックス シニカ(中国中心の世界秩序)を再現するために対外膨張を試みて、そのような隋を大帝(618年)をして、唐同様にパックス シニカ再建に出ることによって東アジア全体が一大暴風に包まれてしまったのだ。 かなりの国々はその時、明日を約束できないほどであった。
こういう「サバイバルゲーム」で生き残るために新羅が選択したカードの中の一つは伽耶勢力同様、非主流のものを積極的に包容して、国の力量を増大させるということだった。
新羅政府は花郎徒という官営組織を通じて、制度圏の外の人材を制度圏中に吸収したし、その結果としてムンノやユシンをはじめとする伽耶勢力が花郎徒内部で位置づけを確保してこれを土台に政治的成長を繰り返すことができたのだ。
ミシルの後援下にユシンが風月主となってまたミシルの孫娘の婿にまでなったことは伽耶勢力に向かった新羅支配層の積極的な「ラブコール」を見せてくれると同時に「新しい血」の輸血を通じて、新しい環境に適応しようと思ったミシルの政治的苦悩を見せてくれた。こうしたことは基本的に当時の世の中が急変していたので可能になることだった。
二番目、ミクロ的背景。ユシンのお母さんは真骨正統(王妃族)として真平王のお母さんのマンホ太后の娘だった。
この点は、真骨正統のライバルの代願新統(また他の王妃族)に属するミシルがマンホ太后の孫のユシンに関心を持つようになる要因だった。
真興王・真智王の時だけでもミシルと同じ側のサド太后(代願新統、真興王の夫人)が王室の主導権を握っていたので、ミシルとしては真骨正統にあえて惜しい話をする必要がなかった。ところで、真平王の即位以後真骨正統のマンホ太后が王室の大人になることによりミシルとしてはマンホ太后の歓心を買うためにもユシンの出世を積極的に助けないわけにはいかなかったのだ。
<2>ユシン-ミシルコネクションの過程
第1段階。609年の花郎徒の副代推薦。マンノ宮でソラボルに今しがた上がってきた15才のユシンにミシルは大きい贈り物をさっさと抱かせてくれた。 花郎徒副代の自分の息子ボジュンを押し出してその場にユシンを積極的に推薦したのだ。 副代にされれば特別な異変がない限り風月主に就任できたので、ユシンを副代に座らせるということは彼に風月主を約束したのと同じだった。
第2段階。612年の風月主任命および政略結婚。副代に上がって3年たった18才の時にユシンは風月主ホリムの譲歩を受けて、難なく風月主に上がる一方、ミシルの孫のヨンモとの婚姻にも成功した。 金官伽耶王室の後えいの18才少年が金官伽耶を吸収した「敵の国」新羅の最大官営組織を掌握する瞬間だった。
上のように「突然に」副代に上がった後にまた風月主に上がってまた政略結婚をする過程でユシンはミシルの惜しまない支援を受けたし、これで権力の核心部に近寄ることができる政治的踏み台を用意することになった。
<3>ユシン-ミシルコネクションの影響
最初に、新羅政界に及ぼした影響。ユシン-ミシルコネクションは新羅政界の非主流の伽耶勢力が政治的位置づけを強化することができるようにすることと同時に、新羅支配層が伽耶勢力の協力を土台に高句麗・百済に対する対抗力を強化することができるようにするところに寄与した。以前には三国中最弱体であった新羅が、仮にナ党同盟(?)に力づけられたのだが、高句麗・百済を凌駕できたことはこのように内部的力量を結集するところに成功したためだと見ることができる。
二番目,花郎徒組織に及ぼした影響。ユシン-ミシルコネクションは花郎徒組織内部で伽耶勢力の位置づけを強化するところに大きく寄与した。第8才風月主のムンノ以後で花郎徒内部で基盤を捉えた伽耶勢力が第15世風月主キム・ユシン時代に勢力をはるかに大きく膨らませたという点は、ユシンが風月主から退いてからいくらも経たない620年代から伽耶勢力が花郎徒の主導権を握ってミシル系統の代願新統派を弱化させるところに成功した事実でもよくあらわれている。
ユシン-ミシルコネクションがこのように新羅政界や花郎徒内部で伽耶勢力の位置づけを育てる一方花郎徒の中でミシル系統の代願新統派を弱化させるところに寄与した点を見る時に、このコネクションの真の勝者はユシンであったという結論を下しても特別な無理がないだろう。
ドラマの中のユシンはミシルにひざまずいて『セジュ様の懐に入ろうとしています!』といって降参を宣言したが、結果的にはユシンが爆弾を抱いてミシルのふところに飛び込んだしそれによってミシル側だけ損傷を受けた模様になってしまったのだ。 こういう点を見るならば、キム・ユシンがミシルを殺す「四柱」(運命)を持って生まれたと解釈しても特別な無理はないのではないだろうか?
歴史的な用語が多く、正しく訳せていない部分も多いとは思いますが、お許しください。間違いをご指摘くださると嬉しいです。
なぜ、ユシンはミシルに従ったのか、またミシルはなぜユシンを抱き込まざるを得なかったのかについて、詳しく解説されています。
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ミシルの前にひざまずいたユシン、本当だったのだろうか
[史劇で歴史読み取る] MBCドラマ <선덕여왕>
出処: -オーマイニュース
迂余曲折と多くの辛酸と苦難の末第15世風月主競争で最多勝をおさめたキム・ユシン(オム・テウン)。さて、数日ゆっくり休んだ後に風月主追認を受けに会議場に入ったところ、ソルウォン(チョン・ノミン)が突然にユシンの不正疑惑を提起したせいで「追認式」は「承認聴聞会」に変わってしまった。 そのためにユシンの風月主追認はひとまず保留されてしまった。
普段礼儀正しくて素朴に見えるだけでなく国民指向的な経世学を熱心にするので「あんな人ならば格別問題ないだろう」といって良いように見えたが、なんと実際に蓋を開けて見るとそのようなユシンからも道理にはずれることが出てくるのではないか。
伽耶の復興を試みる福夜会と連携して伽耶の遊民たちに無償で土地を渡した事実がばれてしまったので、ユシンは反逆罪で処断されても話す言葉がない境遇になった。 彼はミシル(コ・ヒョンジョン)に完全に足かせをかけられてしまった。
そうしなかったふりをして、その程度の罪を犯すほどの人物ならば、もう少しはたいてみれば商人たちから賄賂を受けた情況とか、あるいは高句麗・百済・新羅「3重国籍」を持った情況がひょっとして出てくるかも知れないのに、どうしたことかミシルは捜査を中断させてユシンに手を差し出す。 私の側になれば助けるぞと。ミシルはユシンを自分の懐に引き入れたかったのだ。
まっすぐで意志の強いことで噂になったユシン。そのようなユシンが『私が入れば伽耶の遊民たちを生かすことができる』としてミシルにひざまずいて降参を宣言する。
『もうセジュ様の懐に入ろうとしています! 』そのようなユシン(当時18才)にミシル(当時64~67才)は答える。
『私が年老いて、直接抱くことができないから私の孫娘のヨンモと婚姻をしなさい! 』
チョンミョン・トンマンの側に立ってミシルと対立したユシンが「ミシルの男」になる瞬間だった。
21日と22日のドラマ<善徳女王>第35話および第36話で放映された上の内容は実際歴史とは関係がないフィクションに過ぎない。だが、一つだけは本物だ。ユシンとミシルが一つになったという話だけは明確に記録上の根拠を持っている。筆写本<花郎世記>によれば、ユシンはミシルの助けを受けて、花郎徒の副代(第二人者)および風月主に上がったし、またミシルの孫娘のヨンモと婚姻をした。
このようなユシンとミシルの政治的提携は新聞紙面のゴシップの種に過ぎない程度の話では決してない。これは6世紀後半以来の世界的危機に直面した新羅が伽耶勢力を積極的に包容して、国内の政治的力量を総結集した後にこれを基盤に百済と高句麗を滅亡させて大同江(テドンガン)の南を確保していく過程で発生した重大連結の輪であった。
キム・ユシンは新羅の大同江(テドンガン)南の確保に決定的役割をした人物という点で、そのようなキム・ユシンに出世の道をパッと開いてくれたユシンとミシルの提携は「歴史的コネクション」だったという意味を付与しても少しも行き過ぎでないだろう。
それでは、こうしたコネクションがどんな背景によって、どんな過程を経て展開し、またそれはどんな影響を算出したのだろうか?
<三国史記>や筆写本<花郎世記>はもちろん、当時の世界情勢を総合して、ユシン-ミシルコネクションの全貌を暴くことにする。
本論に入るのに先立ち、読者たちがひょっとして持っているかも知れない疑問を先に確かめて行くことにする。 「ユシンが風月主となる時だけでもユシン家の政治的代表者はユシンのお父さんのキム・ソヒョンであったのに,ソヒョン-ミシルコネクションといわないでユシン-ミシルコネクションという理由は何か?」という点の話だ。 その理由は簡単だ。 息子よりさらに有名になることが出来ないお父さんは歴史の中で「誰それのお父さん」で記憶されなければならない「悲運」(実際には光栄)に耐えなければならないためだ。
<1>ユシン-ミシルコネクションの背景
最初に、巨視的背景。西暦6世紀後半から7世紀中盤まで東アジア世界にはひとしきりうず巻きが大きく吹き荒れた。およそ4百年の間混乱状態にあった中国を隋が統一(589年)し、この隋が漢武帝の時の光栄すなわちパックス シニカ(中国中心の世界秩序)を再現するために対外膨張を試みて、そのような隋を大帝(618年)をして、唐同様にパックス シニカ再建に出ることによって東アジア全体が一大暴風に包まれてしまったのだ。 かなりの国々はその時、明日を約束できないほどであった。
こういう「サバイバルゲーム」で生き残るために新羅が選択したカードの中の一つは伽耶勢力同様、非主流のものを積極的に包容して、国の力量を増大させるということだった。
新羅政府は花郎徒という官営組織を通じて、制度圏の外の人材を制度圏中に吸収したし、その結果としてムンノやユシンをはじめとする伽耶勢力が花郎徒内部で位置づけを確保してこれを土台に政治的成長を繰り返すことができたのだ。
ミシルの後援下にユシンが風月主となってまたミシルの孫娘の婿にまでなったことは伽耶勢力に向かった新羅支配層の積極的な「ラブコール」を見せてくれると同時に「新しい血」の輸血を通じて、新しい環境に適応しようと思ったミシルの政治的苦悩を見せてくれた。こうしたことは基本的に当時の世の中が急変していたので可能になることだった。
二番目、ミクロ的背景。ユシンのお母さんは真骨正統(王妃族)として真平王のお母さんのマンホ太后の娘だった。
この点は、真骨正統のライバルの代願新統(また他の王妃族)に属するミシルがマンホ太后の孫のユシンに関心を持つようになる要因だった。
真興王・真智王の時だけでもミシルと同じ側のサド太后(代願新統、真興王の夫人)が王室の主導権を握っていたので、ミシルとしては真骨正統にあえて惜しい話をする必要がなかった。ところで、真平王の即位以後真骨正統のマンホ太后が王室の大人になることによりミシルとしてはマンホ太后の歓心を買うためにもユシンの出世を積極的に助けないわけにはいかなかったのだ。
<2>ユシン-ミシルコネクションの過程
第1段階。609年の花郎徒の副代推薦。マンノ宮でソラボルに今しがた上がってきた15才のユシンにミシルは大きい贈り物をさっさと抱かせてくれた。 花郎徒副代の自分の息子ボジュンを押し出してその場にユシンを積極的に推薦したのだ。 副代にされれば特別な異変がない限り風月主に就任できたので、ユシンを副代に座らせるということは彼に風月主を約束したのと同じだった。
第2段階。612年の風月主任命および政略結婚。副代に上がって3年たった18才の時にユシンは風月主ホリムの譲歩を受けて、難なく風月主に上がる一方、ミシルの孫のヨンモとの婚姻にも成功した。 金官伽耶王室の後えいの18才少年が金官伽耶を吸収した「敵の国」新羅の最大官営組織を掌握する瞬間だった。
上のように「突然に」副代に上がった後にまた風月主に上がってまた政略結婚をする過程でユシンはミシルの惜しまない支援を受けたし、これで権力の核心部に近寄ることができる政治的踏み台を用意することになった。
<3>ユシン-ミシルコネクションの影響
最初に、新羅政界に及ぼした影響。ユシン-ミシルコネクションは新羅政界の非主流の伽耶勢力が政治的位置づけを強化することができるようにすることと同時に、新羅支配層が伽耶勢力の協力を土台に高句麗・百済に対する対抗力を強化することができるようにするところに寄与した。以前には三国中最弱体であった新羅が、仮にナ党同盟(?)に力づけられたのだが、高句麗・百済を凌駕できたことはこのように内部的力量を結集するところに成功したためだと見ることができる。
二番目,花郎徒組織に及ぼした影響。ユシン-ミシルコネクションは花郎徒組織内部で伽耶勢力の位置づけを強化するところに大きく寄与した。第8才風月主のムンノ以後で花郎徒内部で基盤を捉えた伽耶勢力が第15世風月主キム・ユシン時代に勢力をはるかに大きく膨らませたという点は、ユシンが風月主から退いてからいくらも経たない620年代から伽耶勢力が花郎徒の主導権を握ってミシル系統の代願新統派を弱化させるところに成功した事実でもよくあらわれている。
ユシン-ミシルコネクションがこのように新羅政界や花郎徒内部で伽耶勢力の位置づけを育てる一方花郎徒の中でミシル系統の代願新統派を弱化させるところに寄与した点を見る時に、このコネクションの真の勝者はユシンであったという結論を下しても特別な無理がないだろう。
ドラマの中のユシンはミシルにひざまずいて『セジュ様の懐に入ろうとしています!』といって降参を宣言したが、結果的にはユシンが爆弾を抱いてミシルのふところに飛び込んだしそれによってミシル側だけ損傷を受けた模様になってしまったのだ。 こういう点を見るならば、キム・ユシンがミシルを殺す「四柱」(運命)を持って生まれたと解釈しても特別な無理はないのではないだろうか?
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