新聞広告を見てこの本を買いました。何よりその刺激的な書名に惹かれたわけです。筆者は1903年生まれです。このことで分かるように、長らく絶版になっていた本が復刊された、と言うことです。
この本には書名にもなっている、「食えなんだら食うな」や、「病なんて死ねば治る」、「若者に未来などあるものか」、「地震ぐらいで驚くな」など12編の文章がおさめられています。
刺激的なことばがならんでいますが、著者の関大徹師は禅宗の高僧で、もちろん大真面目な本です。250ページくらいの本で、その気になればすぐに読了できますが、内容が深い本ですから座右に置いて、何度も何度も読む本だと思います。
買って間もない本ですが、タカ長も同じページを何度も読みました。その中のひとつ、「ガキは大いに叩いてやれ」を読んで感じたことを紹介します。少し長文になりますが、最後まで読んで頂けると幸いです。
著者が富山の光厳寺の幼稚園をあずかっていた時のことです。子どもたちが遊んでいるところへスズメの子が降ってきました。それを拾った園児がどうするか見ていると、あろうことかその子はスズメの子をひねり潰そうとしたのです。
それを見た筆者は咄嗟に飛んで行き、園児の首根っこをつまみ上げました。
「どうだ、痛いか」 「痛い」。
著者は手をゆるめて「おまえが痛いように、スズメも痛いのだ。わかったか」「わかった、わかった」
著者がそのようなことをいちいち覚えているわけではありません。その日のことを思い出させてくれたのは、40年後その園児が著者を訪ねてきて、その時のことを語ってくれたからです。
「五十年の人生で、あれほど怖かったことはありません」
それはそうだろう。怖い目にあわそうとして、私はそうしたのであり、幼な心に、怖かったという印象をあたえにような体罰なんぞ、屁のようなものだからである。
人間の頭脳がもっとも発達する幼稚園の時代に、子どもを人間として鍛えておかないといけない、と言う思いからの体罰でした。著者は「体罰万能」といっているのではありません。
そして「大事なのは、体罰とは、断じて『報復』ではない」と言っています。
大人を困らせたと言ってカッとなり、思わず手を出すのは「報復」で、これほど理不尽なことはないと言っています。体力的に劣っている幼児を相手に大人が対等に応酬することはあってはならないことだと言っています。
そこのところを混同するから、幼児教育における体罰の是非論が本気で議論されることになるのです。
あくまでもタカ長の独断ですが、人が人として成長するために必要なことを叩きこまなければならないときもあるはずです。特に幼児期においては体罰が容認されるような場面はあるはずです。しかし、体罰と報復の区別が出来なくて、親も教師も腰が引けているように思われます。
その結果、必要な時に叩くこともできず、その反面「しつけ」と称して幼児の手足を縛ったり、食事も与えないようなことが報道されるようになっています。
報復はあってはならないことですが、人が人として成長するためには体罰が必要なこともあります。タカ長は体罰推進論者ではありませんが、体罰を避けるために、親も幼稚園も地域社会も腰が引けて、甘やかせながら子育てすることは親として、大人として無責任だと思います。
ガキを大いに叩いてやることが必要な時もあるはずです。
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