昨日は、知多の常滑市への引越し。帰り道に大野海岸にて一服。子供のころ親に連れられて海水浴に来たところです。当時とは様変わり。変らぬのは伊勢湾、航行する船と、三重の御在所嶽。風力発電の風車などは思いも及びませんね。撮影した自分が一番変化してます・・・60年もたってるんですから。
沖縄でヘリパット建設反対の住民に、大阪機動隊員の若者が「どこつかんどんじゃぼけ、土人が」というような発言。これは隊員の戒告処分で幕ヒキとなる。
隊員は「土人」が侮蔑的な意をもつことを知らなかった・・・という。我ら日本人は「土人」という言葉にとにかく鈍感でした。
アイヌの民話を読んだことあり。その折に「北海道旧土人保護法」という法律が、明治32年施行され、平成9年まで廃止されることなく存続してたということを知る。旧土人とはアイヌ人のことです。
ほぼ百年間、とんでもない法律が生きていたことに驚きました。その内容はアイヌのなりわいである漁労・狩猟の禁止。アイヌの習慣・習俗の禁止。日本語を使用し、名前も日本のものにせよ・・・というような、民族性の否定でした。
政府・立法府とわれら国民は「ドンカン」でした。戦前までなら已む無しですが、この法律が一世紀ものあいだ、平成時代まで有効であったことの怠慢と無知を愧じます。
機動隊員の無知を哂えません。
先週土曜日は、長浜市からの引越しでした。早めにでかけ、長浜市東の石田町東にある観音寺に寄る。ここは秀吉と石田三成の出会いの地といわれる。
秀吉が城持ち大名になったのはこの長浜でした。大いに賑わう町となった。そのころに鷹狩帰りの秀吉が、この観音寺に寄り茶を所望した。その寺にあった三成が献じた。その献じ方がたいへんに気がきいてた。一献はぬるめの茶を多めに、二度目の所望には少し熱めものを茶碗半分に、そして三服目には熱い茶を小さな茶碗にて献じた。喉の渇いてる時には一気に潤おせるように温めのものを大服に、落ち着いた時には熱い茶を少なくと・・・
秀吉はこの気遣いのできる三成を小姓にした。三成は有能でした。歴史上の人物評価はどうしても勝者に記述となり、敵将のものはマイナス記述となる。しかし残ったエピソードなぞは三成の冷静・直截な能力はわかる。彼の出生地のこの村は、いかにも三成びいきが見て取れる。よき殿様だったんでしょう。
205件の「投げ込み」宅配仕事、本日、残り百件余回って終了。結局2日間でした。本日もコロ仕事一つ挟んでいるので効率よし。
明日は午後1時に滋賀県・長浜市にて引取り、名古屋までの仕事。土日割り増しでこれもありがたし。ノンビリやります。
宅配仕事です。年に3度位あります。投げ込みで「判取り」なしですからノンキ。自分の住んでる名東区内の営業所2百件ほどです。よく知ったエリアです。納期は一週間以上かかってもヨシという条件ですから暇な時にやってます。
単価は165です。物が2つある時は210でやってます。あれれこれで今回は3万6千円位の仕事です。今朝9時スタートで夕方4時までに80件放り込みました。その間にコロ仕事1つを挟んでます。
明日は早朝3時半起きですから、この宅配は早仕舞にしました。本日の走行60キロ、7時間ほどで水揚げ1万9千ほどですから効率はヨイ。
仕事は一皿だけですと、それがコケルとおしまいです。アレコレ小鉢にあるほうがよい。
本日、朝夕に催事ものの搬入・搬出仕事。朝の搬入を済まし、昼の仕事までの時間東別院の法話を聞きにいく。
法話の「まくら」に死刑の話あり。東本願寺は死刑が執行されるたび、死刑執行・死刑制度に反対の声明をだしている。その趣旨は以下です。
仏教は釈迦の教えです。「すべての生きものにとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」 ・・・と語っています。
死刑は国による殺人であることにかわりない。罪を犯した人を排除しただけであり、問題解決にはならない。加害者の悔悟や反省の機会を奪うし、被害者遺族の悲しみ怒りが癒されるものでもない。
私たち人間は、だれでも理由や条件によって罪を犯すかもしれない存在という・・・・等です。
以上が前置きです。ここからが本題が続くんですがこまでです・・・オアトは昼の仕事へ。
一日ムダなしでした。
暇・只・近く・・・の三拍子で、長久手市の「名都美術館」へ。芸術に無縁のオッサンですが、時間あり、チケットは頂きものでタダ。なをかつ、定期仕事の近く・・・ときては行くしかない。
「小倉遊亀」・・・それだァ~れの白紙状態で入館する。
彼女の履歴を見る。明治生まれで、大正・昭和・平成12年没。105歳まで日本画の現役!文化勲章を受章しているんだって。105歳だけでスゴイ!
時代を追って展示されていた。抽象絵画や主張をこめた難しいものでなく、子供、静物、花、陶磁器、舞妓・・・牧歌的で美的です。なによりも線と色が美しい。晩年まで現役ということに脱帽。女性だからこその画風は、トウシロウの自分にも堪能できました。
かび臭い歴史ものならよろこんででしゃばる者ですが、美術館へいくなんぞは芸術の秋ですね。
昨日夕方に引き取り、本日朝一に金沢まで。1月ぶりの朝付け仕事でした。未明に家を発つ。順調でした。6時、日の出直前に北陸道南条SAで一服しました。松尾芭蕉・奥の細道の句碑あり。
あすの月 雨占なは(わ)ん ひなが嶽 とありました。
あすの名月 雨か晴れかをこの「ひなが嶽」のたたずまいで占ってみよう・・・という意でしょうか。ひなが嶽は碑の後方、朝霧に立ち上がった日野山です。
すがすがしさに目が醒めました。あとはこの日野山のトンネルを抜け金沢へ一目散。8時過ぎに終わりました。寄りたい所あまたですが、昼に仕事ありでスットビカエルとなりました。
豊田市の「松平の郷」に寄る。松平ー徳川の発祥の地です。東海環状自動車道の豊田松平ICの東にある。雨上がりでした。徳川の菩提寺、高月院へ続く道には中世を模した土塀が続きます。湿った空気も秋めいて気持ちよい。
松平の始祖は「親氏(ちかうじ)」、その9代目が家康です。その始祖の「願文」が残っている(写真右)。これは「大無量寿経」の経文一節です。
(仏の教えがゆきわたるところは)天下が平和となり・・・国が富み、兵火を交えることなく、人は徳を高め、思いやりの心をもち、礼節や謙譲の道を守る・・・
・・・とありました。
家康は曲りなりにも戦国の時代を終焉させたといえるでしょう。17世紀始めの元和の時代には「元和偃武」(げんなえんぶ*元和以後は武器をおさめる)の時代といれた。
なれば始祖、松平親氏の願いをかなえたのかもしれない。以後、島原の乱を除いて太平の世が四半世紀続いた。
昨日にTEL。本日の引越しを6日にしてください・・・と。延期には問題ないが、猛烈台風18号が丁度!の頃です。相談の結果、本日朝6時半からならば可能でしたので早朝仕事となる。
ミニ引越しそのものは超順調に終了。家に帰ったのが8時。朝食も食えました。
文字通り アサメシ前の仕事となりました。
赤帽車、走行中に異音。前輪左からです。突然「シャリシャリ」と割れた鈴のような音。信号で止って走るとやんだりする・・・・・多分ブレーキパットかベアリングかと・・・
修理工場へ。結果パットの交換で解決。
赤帽「タケフジ」号は、かれこれ9年目となる。以下その「カルテ」です。
- 現在走行距離は36万7千キロ。開業以来5代目の赤帽車です。もっとも優秀な車となりました。長生きのもとは、多分飛ばさないからでしょう。高速時は90キロ前後。百キロ以上の走行はほとんどなし。
- オイルは5千ごと、タイミングベルト、ウオーターポンプは10万ごとで普通のことです。他に指摘されて交換したのは、アブソーバー・アクスルシャフトブーツ・プラグコードです。
- プーリー故障で立ち往生がありました。
- 金のかからぬ赤帽車です。しかし経年劣化はけっこう来てます。オイル漏れは1年ほど前からポツポツです。マフラーの腐食もしかり、エアコンのコンプレッサーはすでに壊れて2年目となる。ことしの炎暑もクーラーなしでやってきました。
- 燃費は、通常走行は14~15キロ/L。高速時は17キロ/Lです。
- ダイナモは交換してから20万キロ経過するのでボチボチでしょうか。
- フロントウインドが飛び石でパッチ!樹脂挿入の修理もあった。
総じて丈夫な古女房ですが、来年車検です。自分の体と相談して・・・・です。どうなることやら。