名古屋市名東区 赤帽タケフジ運送の「ふ箱」

赤帽タケフジの車窓から見える光景

名古屋市名東区の赤帽運送はタケフジへご用命下さい
052-772-5880

去年の晦日のおもいは・・・?

2009年12月31日 | 私のなりわい・運送のこと

  30日 組合の仕事、大手電気製品販売店の配達。十数年前には毎年、年末の数日チャーターで入った。あの頃は配達さきで、紅白を横目で見ながらの納品もありました。しかし今回は暇、待機の時間がつらい。

 31日 予定なし、朝食してたら、TEL。スーパー配達3件周り。2時間で終了。なんだか町が静かでした。昼過ぎ家族で買い物にいったらそこそこ人出あり。今年はこれにて終了です。

 景気は惨憺、世情は暗澹、でしたが、これも思いようですね。ぼやきを入れる前に、違った方向から事態を見るようにしてます。…何やら分からんことこいてますね。

 去年の暮れに記したことば・・・

 「雨の日には、雨の中を、風の日には風の中を」と相田みつおのことばをひいたが・・・・。一年そのように歩んできたなと・・それなりにやったよな~と、自分につぶやく大晦日です。

 


引越しあとの楽しみ

2009年12月28日 | 私のなりわい・運送のこと

Img_1182  年末の引越し、昼の定期をはさんで二本立てでした。すべて順調でした。午後の引越しは、名古屋近郊の町から岡崎まで。雇用促進住宅の住人です。この住宅は失業した人々が、次の仕事が見つかるまで(期限6ヶ月です)住むことができる。岡崎に仕事がみつかり、その宿舎までの引越しでした。

 赤帽引越しも過去のものと比べると、内容が大きくかわりました。自分が始めた頃は、学生さんの移動、正社員の転勤等がけっこうあり、またそれがロングのものも多かった。いろんな地方へいかさせてもらいました。いまでは、派遣の移動や、生活保護を受けている人の移動もずいぶん増加しました。

 2007年のGDPは、19位だそうです。1996年は、3位でした。

 赤帽の仕事からも、日本の現状が確実にわかります。

 岡崎の帰りに、徳川家の菩提寺の大樹寺へいきました。ここの多宝塔はほんとうに美しいです。この塔は、家康の祖父松平清康がつくりました。こういうとこにいると実に気持ちいいです。

 大樹寺には、面白い仕掛けがあります。本堂ー山門ー総門を一直線にみると3キロ先に岡崎城の天守閣がみえるのです。今日も夕日の岡崎城が見えました。

 この仕組みは、3代将軍家光が、家康の17回忌に構築したそうです。家光はセンスがある人とみえます。彼の母「おごう」の伯父は信長であり、その血を受け継いでいれば、さもありなんでしょう。

 


信長のDNAは、天下人となる・・・

2009年12月27日 | いにしえから学ぶ

先日三日続いたセントレア空港行きの最終日、終了後、国道沿いの丘にある「大野城址」へ寄りました。

 ここには佐治氏の城のあったところです。丘の上には、城を模した展望台がありました。大野水軍といって伊勢湾を拠点として活躍した。ここの城主へ織田信長の妹「「於犬(おいぬ)」が嫁いでいる。信長にとっては、伊勢湾に勢力をもつ大野水軍は味方にしておく必要があった。しかし佐治信方(おいぬの主人)は、若くして一向宗の長島の闘いで戦死する。子も儲けて名を「一成」という。主なき「おいぬ」はその後、子を残し、山城国の細川昭元へ嫁ぐ。コロコロと嫁がされる?わけだ。・・・以上解説より。

 子の佐治一成はその後、これまた信長の妹である「おいち」のむすめ(父は浅井長政)「おごう」をめとる。いとこどうしですね。ここらの相関関係は複雑です。

 後にこの夫婦関係も秀吉によって離縁させられて、結局「おごう」は家康の子秀忠に嫁ぐ。そしてImg_1178_2おごう」は三代将軍の家光を生む

 徳川家三代目には、信長の血がはいる。彼は天下取りを目前に倒れるが、織田一族のDNAは、おいち~おごうを通し天下人となったわけだ。

 写真は大野城からの伊勢湾。佐治水軍に嫁いだ「おいぬ」はこの海を眺めたことでしょう。


日の出は常滑、昼滋賀県、夕日は岡崎

2009年12月24日 | 私のなりわい・運送のこと

 本日の仕事件数四件。年末ドンジリにて、やっと師走の思いです。

  •  朝一、ケーキをセントレアまで。常滑市を走行中に「日の出」を見る。
  •  次9時半に名古屋から福井県の武生まで。おにぎり食べながら積み地まで走る。その道中、一宮市から岡崎市までの運送依頼あり。赤帽仲間に頼む。武生は昼に終了。帰路滋賀県の賤ヶ岳SAでニシン蕎麦の昼食。

 走行中に、午後4~5時積みの、田原行が入る。ラッキ-!まにあう!

  • 4時に積み、田原へ・・・、東名岡崎あたりで、茜色の「日暮れ」を眺めながら・・・。終了は午後6時。

   本日は、早朝5時半に出発、帰宅午後8時半。 走行距離630k。・・・赤帽やったな~という感です。休憩は昼食の15分だけ。最近ではあまりなかった忙しさでした。 

   


ちょびっと・・年末ぽいです

2009年12月22日 | 私のなりわい・運送のこと

 年末らしく一日四件の仕事が入る。

10時よりカメラの展示販売会でデパートまで3台口。次いで昼の定期便をこなしたら、組合から建築現場までの仕事ができないか?との打診、急ぎ済ます。今夜7時から、書籍の運搬がある、少々重いかも・・・。あすは早朝6時よりクリスマスケーキの配達です。

 自分とこは例年12月といっても特別バタバタするほど仕事はない。二十年あまり売り上げは、激しく上下はなく、わりと平均していた。また爆発的な売り上げなんぞにも縁はなかった。

 しかしそれも一昨年まででした。昨年秋から売り上げは乱高下。それもうんとレベルの低いところでのこと・・。税金も赤になることなく納めてきたが本年度はあきませんね。毎年正月は、帳面の集計です。自営業はこんなもんですね。


連日の法要・・抹香臭いですが・・

2009年12月20日 | 仏法

 今日も法要。妻の父の一周忌。連日抹香臭い話ですがご容赦を・・。

 本日の法要は、昨日のように坊さんが流感でドタキャンもなくすみました。妻のお手次寺(旦那寺)は、自分とこと同様の真宗です。たまたまその寺の先代住職が、東別院の輪番であることを知りました。「輪番」とは、四年の任期で勤めるいわば別院の「かしら」です。それに抜擢されるのは、やはり品格、力量が備わっていたのでしょうね。その息子の新住職が今回の法要をしてくれました。

 昨年の暮れに義父がなくなり、その葬儀式はその息子住職が執り行いました。そして、その後の三十五日の法事は、現在輪番である、元住職がおこないました。その時お話です。

 九十を過ぎて亡くなった人を遺族の皆さんは勝手に大往生と言いますが、それはなりませんと・・・。亡くなった父の生きてきた「苦」の発見がなくてはならないという話でした。意味合いは、忘れましたが、法要に集うことの意味であったでしょうか。追善供養をする・・ということではない。・・・・でしたか?

 さてジュニアの法話は?というと。昨年の葬儀式のときは、正直、ことばに落ち着きがなく、ご自分のことばで語っていないように思いました。しかし、本日の話は、結構いけてましたよ。法をかたることで自らも知らされていくのでしょうね・・・。えらそうなこといってごめんなさい。


法事の坊さん、インフルで欠・・どうしよう!

2009年12月19日 | 朝な夕なのこと

 親族の法事。妻子三人で訪れたら、坊さんが、新型インフルエンザで欠席という。さてどうしようかと相談。まあここは内輪で形式にとらわれずやろうということになる。しかし、お経は欠かせない。誰が導師を勤めるのか・・となる。白羽の矢が私に当たる。自分が称えることができるのは、「正信偈」(しょうしんげ)だけ。それでよしということで執り行う。無事すんで故人をしのび、あれこれワイワイガヤガヤ・・・。

 法事、仏事は元来こんなものであったかと思う。亡くなった人の縁者が集い、ひとのいのちのはかなさをわが身にてらす。おい、お前はこのまま「朝(あした)の紅顔、夕べの白骨」で、おわってしまっていいのか!という思いを語り合う場であったように思います。

 以前法事の法話で聞きかじったことですが、「僧」という意味について・・・。

 釈迦の生まれたインドの言葉です。「サンガ」というそうです。本来の意味は、「釈迦の教えを奉ずる集団」ということばだそうです。きっとワイワガヤガヤの集いだったんでしょうね。・・・今日の法事のように。・・・ああよかった。


ふゆ

2009年12月17日 | 私のなりわい・運送のこと

 この寒気で、タイヤを冬用にせねばと早起きして交換しました。・・・それを待っていたように金沢行が入る。お客さんはJRでも車でも一刻も早くという。多分車でよかろうと北陸道経由で行く。福井県にはいると雪でしたが、順調に2時40分終了。車で正解でした。JRだと金沢到着が4時でしたから。

 東海北陸道で帰る。なんとなく、五箇山ICまでR304で走るが、峠で後悔する。凄い雪。急勾配の峠越えで、肩がカチカチにこりました。山の日暮れは早く、車もすくなくとてもうら淋しくなった。北国の冬は、海も山も水墨画のようでした。色彩のない世界を走り抜けた一日でした。Img_1176 Img_1175_16 写真の海は、金沢南の徳光PA。山は城端の町で。


報恩講へ行きました

2009年12月16日 | 仏法

Img_1169_2  仕事の終了が中川区でしたので、東別院の報恩講に行く。報恩講とは真宗の法要です。宗祖親鸞のなくなった、11月28日の前後、各地の真宗の寺でとりこなわれます。

 今日は、佐々木正 氏の講演でした。内容の要約のまたその一点だけを記します。

 親鸞は鎌倉時代の人です。古来の仏教の修行を通じて悟り、救われる教えから、念仏さえ称えればどんな悪人でも救われるという、法然上人の浄土教を広め深めたひとです。

その彼は、仏教史上はじめて、妻帯公言し、その故に断罪され流刑になった人です。当時の人々にとっては僧の妻帯などは、仰天のことです。もちろん、実際には比叡の僧たちは山を下りた琵琶湖畔の坂本あたりに女性を囲っていたのは周知のことでした。しかし「僧である私は、妻をもちます」とは決して言いませんでした。その意味で妻帯を表明したのは革命的でした。その妻は時の権力者、九条兼実の娘玉日でした。

 九条兼実は、篤く法然を敬慕するものでした。しかし、どんな罪を犯しても念仏さえ称えれば救われるという法然に、僧が女犯、妻帯してもかと、法然に問い、弟子の一人に私の娘を妻にせよとせまったという。そして法然は親鸞に妻帯せよと・・・。

 仏教の大反逆者、革命者に望まずして?なってしまつた親鸞です。その後の彼の人生は、ワクワクものですよ!一度足跡を追ってみてください、きっと自分の生きかたをグラグラゆすぶってくれるんじゃないかと思います。


新撰組近藤勇の首塚は愛知県に?

2009年12月15日 | いにしえから学ぶ

Img_1168 昼より豊橋の引き取り仕事。3時の約束で時間があるので調節。本宿(もとじゅく)の法蔵寺に寄る。旧東海道沿いにある。藤川~本宿~御油と松並木、旅籠やがあり、当時をしのぶことができる。

 ここには新撰組の近藤勇の首塚がある。薩長の志士に恐れられた勇猛無比の男。戊辰戦争に敗れ、慶応四年、江戸の板橋で処刑された。 遺体は三鷹の菩提寺に葬られる。首は塩漬けにされ京都三条川原にて晒される。近藤の同士がその首を奪い、近藤の敬慕していた、新京極の、称空義天大和尚に弔いを依頼する。しかしその時には彼は三河の法蔵寺の管主になっていた。そしてこの地に葬られることになった。それも無縁仏として草むすなかで・・・忘れられてしまった。・・・解説書より。

 九十年余の時が流れ、昭和33年に再び、近藤勇は掘り返された。今では幕末の怨讐をこえ、訪れる人が絶えない。彼の節操を貫く愚直なまでの生き方は、今の時代にはまぶしいくらいです。

首塚を訪れたら、とたんに仕事が二件入った。仲間に依頼する。強い近藤のご利益か?

 


美濃市 うだつを上げない暮らし

2009年12月13日 | 私のなりわい・運送のこと

Img_0763  昨日は美濃市までの運送。ホロ棒を外し目いっぱい積む。一昨日のように雨だと荷が濡れた可能性もあるが、天気でよかった。着地のお客さんは、新築マンションへの設備関係の会社だ。景気悪く動きがなく、大変きびしいとのこと。積み地、着地ともにこんな話ばかり。

 美濃市は「うだつ」のある町で有名だ。「うだつが上がらぬ」とは、立身ができぬ、ぱっとしない人生のことか?昨今は格差社会になり、うだつの上がらぬひとが固定化されつつあるように思える。成長期では、普通に働き、普通に暮らせば「うだつ」をなんとか上げることもできた。今はそんな時代ではなくなった。

 「うだつ」なんぞ上げなくてもいいわ・・と思うがよいかもしれん。低成長の時代にはそれに見合う暮らしかた、考えかたがあると思う。それは自分でさぐっていくしかない。


赤帽に頼んでほっとした人、赤帽で良かった人

2009年12月10日 | 私のなりわい・運送のこと

「赤帽さんに頼んで、ほんとにほっとしました。」とお客さん。本日の同乗のお客さんは2度目です。以前と同じ仕事です。絵画を先生のところへ持って行き、評価をしてもらい、持ち帰るとうものです。F100号が3枚です。

 その女性は、赤帽なるものを知らず、友人に運搬を依頼していたそうです。その場合、日時、時間等色々気を遣い、くたびれてしまったということです。その点赤帽だとビジネスライクに依頼できるので、気がスッキリということなんだそうです。そういってもらうとこちらも赤帽冥利につきます。はりきってやりました。

 待ち時間に同様の仕事で他の赤帽さんも着ました。あれこれダベリングしました。景気の話、昔の「どえりゃー」いそがしかった話等々。彼はメチャクチャ働き家を建て、今とは桁の違う売り上げを達成もしたという。その代わり体をこわしてしまったこともあると・・・。バブル期を猛烈に走り抜けた先輩の話はまだまだありますが、もう昔語りです。


11月~12月上旬

2009年12月08日 | 私のなりわい・運送のこと

Img_1147_2 先月は田原行きが13回あり、なんとかなりました。12月になっても2度でました。先週は、5日津市への納品、翌日その引取りがあり。日曜日の引き取りは夕方でしたので、昼間は白子の海岸を一時間以上歩きました。砂浜がきれいで、凪の波音を存分に聞きました。

 まだ時間があったので、一身田高田専修寺に行きました。御影堂の大修理が終わり、来年5月の落慶法要を待つばかりです。この寺内町は古く町が、環濠で囲まれている。現存しているのはめずらしいそうだ。

 十数年前にも来ましたが、寺内町の古屋がどんどん今風の新築になっていました。山門前の床屋さんの建物も昭和初期?ぐらいのもので、とてもいいなと思っていましたが、廃業してました。傾いて倒れかけた塀が淋しげでした。

 昨日はじつに久しぶりの千葉市川行きでした。夕方済んだんですが、今日の朝が早いのでスットビ帰る。

 本日は京都の引き取り。10月にギヤラリーに納め、その帰りだ。昼には定期仕事があったので朝イチに取った次第です。急ぎ持ち帰り昼には終わりました。F1000001

 久しぶりの自分にとっては長距離でしたので疲れぎみです。散々暇でしたのでこれぐらいはがんばらねばならんと思う。以前はオイル交換を月に一度以上してましたが、今年はちっとも距離がのびなくて、一ヵ月半はもってしまいます。ここ11月よりやっと月一度のペースになりました。


吉田藩、前芝の灯台

2009年12月04日 | いにしえから学ぶ

Img_1125  田原の帰り。前芝海岸にある、灯明台に寄ってみました。江戸時代初期の灯台が再現されてます。

 17世紀半ばに、蒲郡三谷沖で当吉田藩の御用船が嵐で沈没した。藩主が後そのようなことがないようにと、この地に灯台を構築した。

 高さ7メイターの立派なものだ。当地豊川河口の前芝は、江戸への年貢米の回送、またお伊勢さんへの御参りでにぎやっていました。

 しかしこの灯明台の修理、管理は当地前芝村に任ぜられました。そのかかりまえは大変なものでしたでしょう。しかし、その明かりは、蒲郡の西浦、南は田原の地でも見えたといいます。想像してみました。当時の三河湾を。あかりは月のみ、真っ暗な三河湾に菜種油の灯明がぽっりと・・・。まさに闇夜のともし火です。船を操る人にとってはありがたいともし火であったことでしょう。


赤帽廃業

2009年12月04日 | 私のなりわい・運送のこと

 仲間の赤帽に12月下旬の仕事の依頼をTELした。そうしたら「今年いっぱいで廃業する」という。ことばがつまる。

彼とは十数年来相棒としてやってきた。二年前に、あと三年もしたらやめようかともらしていたが・・。突然聞かされると答えに窮し、とっさにお疲れさんでしたというのが精一杯で・・・。TELの後、彼とあんな仕事をしたな・・、あの時も一緒だったな・・と、思い出が駆け巡った。

 彼と二人で, レンタカーの二トントで西伊豆まで引越しに行った。もう十年以上前だ。その運賃十数万円が払ってもらえず、沈痛な雰囲気で帰ったことがあった。帰路ことばも出ない私に、安直な慰めなどは一切なかったけれど、十分に気遣ってくれたことを思い出しました。

 色々仕事のことを教えてくれた先輩の一人でした。機会あれば二十数年の赤帽生活を話し合いたいと思っている。自分も「その時」は、計画的に?、突然に?、強引に?やってくるんだろうな・・・ということを噛みしめる。

 今夜はなんだか淋しい気分で酒を呑む。