「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

本の紹介 ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門

2020-10-10 18:57:38 | 本の紹介
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門
著者ウィリアム・ハート

SNゴエンカは、インド系のミャンマー人。
サヤジ・ウ・バ・キンという人に師事し、瞑想を習った。
後にインドに移住し、瞑想を極める。
著者のウィリアム・ハートはゴエンカに師事した。
この本は、ゴエンカ氏の講話、Q&Aをベースに、ヴィパッサナー瞑想を著者がまとめた本。
ヴィパッサナー瞑想は、ブッダの説く瞑想法と合致する。

瞑想は読むものでなく、実践するもの。この本はヴィパッサナー瞑想の独習書ではない。
実践するには、例えば日本ヴィパッサナー協会が主催するヴィパッサナー瞑想10日間コースをおすすめする。質問のとき以外は私語禁止、スマホは使用禁止。瞑想はきついが、コースの終わりには、精神的に健康になる。

1章 真理の探究
賢者の考えを自分でも理解して実践する。正しい、幸福になると判断したら、それを実践し続ければいい。(ブッダ)

真理=自然の法則=ダンマ(パーリ語)

ブッダの教えを修行するためには、仏教徒にならなくてもよい。呼び名などどうでもよい。 ダンマは実践して初めて結果が出る。瞑想を重ねるに従って、毎日の暮らしがより幸福で、おだやかで、平和になる。

2章 出発点
現在の科学者たちは、物質世界の究極の真理を追究した。精密な機器により理論を実証したのと対照的に、ブッダは苦から自由になる道を求めて真理を追究した。ブッダが発見した真理は、頭でしたものだけではなく、自分自身が直接体験したもの。

ブッダは心の観察をした。4つのプロセスを発見した。
心:意識→知覚→感覚→反応。
意識:無差別に感じ取り気づく。価値判断はない。
知覚:意識がとらえたものを読み取り、好き嫌いの判断をする。
感覚:データが識別され、価値判断が下されると、快・不快が生まれる。
反応:快なら、それが気に入り、不快ならそれを止めようとする。

これら4つのプロセスは、スピードが速く、これを次々に繰り返していく。これが、誰もが関心を持っている「自分」というものの現実。

Q&Aより、
・心は脳の働きではないのですか?→西洋では、心は頭の中にだけあると考えられている。それは間違い。全身に心があります。からだ全体にです。
・何かを感じとる「わたし」という存在があるはずだと思われるかもしれません。けれども
・瞑想を続けていくと、自我の溶解を体験するときがきます。
・あなたを苦しめているのは、他の誰でももありません。自分で自分を苦しめているのです。
・ブッダは決して宗教を説かなかった。ダンマを説いたのです。

3章 苦の直接原因
人生で遭遇するものは、すべて自分の行為の結果(因果の法則)。苦をもたらすような行為をした自分に責任がある。

行為には三種類あります。からだによるもの、言葉によるもの、心によるもの。
悪意があってもからだを使って人を傷つけなければよい、言葉を使って人を傷つけなければよい、というものではない。(心の行為(思い)が悪いと、因果の法則で結局自分が苦しむ)
純粋な心で話したり行動すれば、幸福がついて離れない。(ブッダ)

心の反応の時点で能動的になり、欲望、反発、好き嫌いという思いが生じる。この反応が因果の連鎖を引き起こす。あらゆる苦は反応より生じる。反応が止滅すれば、苦も止滅する。
ほんとうの苦の原因、それは心の反応である。(ブッダ)

好き嫌いの反応を繰り返していくうちに、反応はさらに強くなり、渇望や嫌悪に成長する(渇き=タンハー)。
ないものをどこまでも欲しがる心のクセが人にはある。欲求や不満が強くなればなるほど、多くの苦をもたらす。

Q&Aより、
・苦しみに執着しているうちは、苦しみから解放されることはない。
怒りという感情を客観的に観察できれば、怒りから解放される。
・必要な時に自分を冷静に観察できるように、心を鍛えるのです。瞑想は心を鍛えます。
冷静に自分を観察することができるようになれば、困難な状況でも心はぐらつかなくなります。

4章 問題の根
苦の原因は執着である。
執着の種類、
・官能的な満足を求めるくせへの執着
例えば麻薬。渇望することが中毒となりやめられなくなる。
・自分の意見や信念
・宗教の形態や儀式
・「わたしのもの」
・「わたし」

執着の原因は、好き嫌いという一瞬の心の反応。好き嫌いの心の反応が繰り返されるうちに、次第に執着は強くなってくる。
苦は無知から始まる。苦の原因になる心の反応。何にでも反応してしまう心のくせである。では、なぜ反応するのか。それは自分のほんとうの姿に無知だからだ。
ブッダはどうしたら苦を止めることができるかと考えた。因果の連鎖を見て、苦が生じるプロセスを分析した。(詳細は割愛)
無知がなくなれば盲目的な反応が止まり、それを発端とした苦は止滅する。
反応は、苦をもたらすが、反応するのは自分の責任である。そのことがわかれば、苦を取り除く方法も自然にわかってくるだろう。

5章 道徳の訓練
ブッダは八正道を説いた。(八正道と聞けばあいまいな説明を聞いたことがあるが、実はブッダが説いたのはヴィパッサナー瞑想に至るまでの各段階での教えを説いていたという記述になっている)
八正道は、次の三段階に分類される。
シーラと呼ばれる段階、道徳(悪い行為をつつしむ)の訓練…5章
サマーディと呼ばれる段階、精神集中の訓練(自分の心のコントロール)…6章
パンニャーと呼ばれる段階、知恵の訓練(自己の本質を見抜く力をつける)…7章

(この章では道徳の訓練について)
悪い行為、言葉は、人を傷つけるだけでなく、自分も傷つき、不幸が自分にも跳ね返ってくる。ひとのためだけではなく、自分のためにも悪い行為、言葉はつつしむ。苦からの解放というゴールに向かうのに、悪い行為、言葉に伴って生まれる渇望、嫌悪、無知を引き起こしてしまうのは、ゴールからとおざかってしまう。
八正道のうち、シーラでは、正しい言葉、正しい行為、正しい生活が該当する。
(この3つの説明は、道徳を習っている日本人にはあらためて書く必要はないので割愛)

6章 精神集中の訓練
問題は心の中にある。心の次元で対処しなければならない。平たく言えば、瞑想で対処する。瞑想には、精神集中(サマーディ)の訓練と知恵(パンニャー)の訓練の2つの意味がある。
精神集中では、八正道のうち、正しい努力、正しい気づき、正しい精神集中の3つが該当する。
正しい努力:
瞑想では、まず楽な姿勢で座り、背中を伸ばし、目を閉じる。自分の呼吸に意識をおく。鼻の穴から入ってくる息、出てゆく息、そこに神経を集中させる。瞑想がどれだけ難しいかはやってみるとすぐわかる。呼吸に意識をおこうとしても、過去の記憶、将来の計画、願望、不安などがでてくる。そのどれかに注意を奪われ、かなり長い間呼吸のことを完全に忘れてしまう。また、瞑想に入る。だが、心は知らないうちにどこかにさまよう。呼吸に意識をおく瞑想を始めたとたん、こころというものが、いかに気ままで手に負えないか、いやというほど思い知らされる。これが心にしみついたクセなのである。私たちはなんとかして、心のクセを取り除き、現実の世界を生きていかなければならない。心がどこかにさまよったら、何度も何度も心を呼吸に引き戻してやる。にっこり笑って、力まないで、落ち込まないで、この訓練を繰り返していく。これが正しい努力である。

正しい気づき:
呼吸を観察することは、正しい気づきの修行にもなる。苦は無知から生じる。過去の不快な体験を思い出し、未来への願望や不安をいだいている。「いま」という瞬間が一番大切なのに。瞑想によりいまこの瞬間の自分の現実に意識を執着させることが必要になる。呼吸へ意識をおけば、いまこの瞬間に気づいていることができる。
例えば精神集中しやすいように、意識的に強めの呼吸をする。確実に呼吸に意識できるようになったら、今度は自然な呼吸に戻すと良い。呼吸に集中できている間は、心は、渇望、嫌悪、無知から解放されている。

正しい精神集中:
呼吸に集中することにより、いまこの瞬間に気づく。この気づきを一瞬、一瞬長く持ちこたえること。それが正しい精神集中である。

実際に瞑想してみると、呼吸に意識をおくことが、いかに難しいかがわかる。知らないうちに心はどこかへ行ってしまう。困難にぶつかっても落ち込んだり、弱気になってはいけない。長年かかってしみついた心のクセだ。それを取るには時間がかかる。何度も瞑想しているうちに、雑念がわいても、すばやく呼吸に意識をもどすことができるようになる。呼吸を忘れている時間が少しづつ短くなっていく。

Q&Aより、
呼吸に意識をおく修行をするとき、息を数えたり、息を吐くとき「出る」、息を吸うとき「入る」などと言っても構いませんか?
→言葉を繰り返すのはよくありません。呼吸のたびに言葉を繰り返していると、そのうち言葉だけが一人歩きをはじめ、呼吸のことなどすっかり忘れてしまうでしょう?ただ、呼吸だけに意識をおくようにします。

7章 知恵の訓練
シーラ(道徳の訓練)、サマーディ(精神集中の訓練)はブッダが悟りを開く前からあり、どの宗教でもある。一つの言葉やマントラを唱えて精神集中を行うと、それなりに効果はある。心は安らぐ。しかし、このシーラ、サマーディだけでは表面意識にしか作用しない。
無意識の領域に心のクセがある限り、苦は生じる。精神集中の修行を行ってもブッダは解脱したとは考えなかった。問題の根を取り除くためには、心の深層に入り込み、不純物をその発生時点で処理する必要がある。ブッダは、その方法を発見し、悟りを開いた。それが知恵の訓練(パンニャー)である。これは、ヴィパッサナーバーヴァナーとも呼ばれ、自己の本質を見抜く力をつけることである。苦の原因を知って苦を取り除く、これがブッダが発見した瞑想法なのだ。知恵をはぐくむ修行を行い、自分の内なる現実を見極め、無知と執着から自由になる。八正道のうち、正しい考えと正しい理解である。

正しい考え:
ヴィパッサナー瞑想の前に雑念が消えていなければならないということはない。雑念がわいてきても、気づきを一瞬一瞬持ちこたえていけば十分である。雑念が浮かんでも徐々に思考のパターンの質が変化する。呼吸に意識をおくことにより、憎悪や渇望がだんだん弱くなる。少なくとも表面意識のレベルでは心が安らぐ。次の段階(正しい理解)に進む準備が整う。

正しい理解:
正しい理解、これが真の知恵である。真理は頭で考えればいいというものではない。自分自身で体験し、理解しなければならない。
知恵には三種類ある。
一つ目の知恵は、借りた知恵。本を読んだり、話を聞いたりして、人から借りた知恵である。例えば指導者から信ずるものは必ず天国に行けると言われ、無知、渇望、恐怖心から、その理念を受け入れる。
二つ目の知恵は、人から学んだことを自分の頭で理解した知恵。自分の頭で理解したにすぎない。
三つ目の知恵は、自分が実際に体験し、直接体得した知恵。これこそが生きた知恵であり、心の本質をゆさぶり、人生を転換させる真の知恵にほかならない。自ら真理を直接体験することにより、心が解放されるのである。真理を直接悟る道、体験的な知恵を得る方法、ヴィパッサナーバーヴァナーの瞑想法にほかならない。ヴィパッサナーバーヴァナーは、広く
ヴィパッサナー瞑想法と呼ばれる。この瞑想法は、自分のからだの感覚に注意を向けその感覚を順を追って客観的に観察していくものである。

からだの感覚は心とよく結びついており、呼吸と同様、現在の心の状態をそのまま反映する。(例えば、恐怖を感じているときはブルブル震えるだろうし、興奮しているときは心臓がバクバクなるだろうし、緊張しているときはからだが固くなるだろうし、、、)
普段はほとんど感じ取れないような微細な感覚にまで気づく必要がある。

呼吸に意識をおく瞑想のときは、自然な呼吸を観察し、呼吸をコントロールしない。それと同じで、ヴィパッサナー瞑想でも自然なからだの感覚を観察する。足元から頭まで、左の手足から右の手足へと順序よく、からだに意識を巡らせていく。そのとき、強い特別な感覚だけを追いかけたりしてはいけない。何か変わった感覚を探し求めることはしてはならない。
たんたんと、ふつうのからだの感覚を観察していく。
はじめは感覚を感じる部分と感じない部分がでてくる。気づきの力が足りないので、強い感覚しか感じ取れない。何度も何度もからだのすみずみまで順序よく巡らせていく。ある感覚のところに長時間留まったり、ある感覚のところを避けようとしてはいけない。瞑想を続けていくと、やがて順序全身の感覚をくまなく感じ取れるようになる。ヴィパッサナー瞑想を続けていき、いろんな考えが浮かんできて、心やからだに不快な感覚が生じ、続けられなくなったら、もう一度呼吸瞑想にもどり、心を静め意識をとぎすます。辛抱強く、落胆せず、もう一度精神を集中させる。心地悪い感覚がどれほど耐え難くても、心地よい感覚がどれほど甘美であっても、修行を止めてはいけない。
根気よく瞑想を続けていくと、やがて感覚が絶えず変化することに気づく。精神と物質は絶えず変化していることがわかる(無常)。そして無常の現実を自分のからだでありのまま体験することができる。それから、わたしとわたしのものと呼べる不変のものなど実在しない、わたしの正体は、たえず変化するプロセスの集合体にしかすぎない、と気ずく。(無我)
ただ現象はたんたんと起こり、たえず変化していく。自分の力ではどうにもならない。そこで、これがわたしである。これがわたしのものであるなどと言って、何かにしがみつくと、必ず不幸になるという事実が明らかになる。無常なもの、幻のようなもの、自分の力ではどうにもならないもの、そんなものに執着したらそれこそが苦である。このことがはっきり理解できる。それも誰かに教えてもらうのではなく、自分のからだでその事実を体験し、理屈抜きに理解できるのである。

それでは、どうしたら不幸にならずに済むのだろう。どうしたら苦のない人生を送れるのだろう。ただ観察し、反応しなければいいのである。これはいいが、あれはダメなどと言わず、心の平静さ、心のバランスを保ち、すべての現象を、ただ淡々と見つめていけば良い。

からだの痛みを感じているとき、瞑想により、痛みそのものが変化するのがわかるに違いない。どんな痛みも一瞬一瞬変化し、消え去り、また生まれ、また変化していく。この事実を自分のからだで体験的に理解したら、もう痛みに圧倒されたり、振りまわされることはなくなる。

苦は無知(自己の真実に対する無知)からはじまる。わたしたちの心は、すべての感覚にやみくもに反応してしまう。好きや嫌い、渇望や嫌悪の思いで反応する。反応することによって、現在も将来も、もっぱら苦しむことになる。すべての感覚が好き嫌いを生じる。感覚が生じた瞬間、無意識に好き嫌いの反応が起こり、それが繰り返されて強くなり、渇望や嫌悪になる。さらにそれが執着となり、いま、そして将来、不幸をまねく。この反応が無意識のクセとなり、ただ、もう機械的に繰り返される。
ところが、ヴィパッサナー瞑想の修行を行うと、からだの感覚すべてに気づくことができる。心の静けさが深まり、むやみに反応しなくなる。たんたんと感覚を見つめ、好き嫌いも、渇望も、嫌悪も、執着もなくなる。もう新たに反応することがなくなる。反応が止まれば、苦の原因がなくなる。

ブッダは、すべて作られたものは無常であるという。心もからだも宇宙にあるもの全てが無常であるというのだ。ヴィパッサナー瞑想を行い、この真理をありのまま見つめ、体験的に理解したとき、苦は消えて無くなる。

ヴィパッサナー瞑想の最大の目標は、いかに反応しないでいるかを学ぶことである。反応しないでいるという能力には、たいへんな価値がある。からだの感覚に気づき、同時に心の平静さを保つことができれば、心は自由になる。
瞑想の最初の頃は、そういう瞬間はほんのわずかしかおとずれないだろう。古いクセが取れず、しょっちゅう感覚に反応してしまうだろう。しかし、何度も何度も瞑想していると、そういう瞬間がたくさんくるようになる。やがて、古い反応グセが取れ、心がずっと安らいでいるようになる。こうして苦を止めることができるのである。

Q&Aより、
心とからだの現実をあますことなく、散策するために、からだに起こっていることをすべて感じとる必要があります。感じ取れないところがあってはなりません。あらゆる感覚を観察する能力を身につけなければなりません。決まった順序で、からだに意識をめぐらせなければなりません。

からだのほんとうの感覚かどうか怪しいと思ったら、二つ三つ命令を出してみます。命令に従って感覚が変化するようならば、その感覚はほんものとは言えません。そのときは、はじめから呼吸の観察にもどしてください。自分の命令に従わない感覚は、ほんものです。

所感他
この7章までで、ポイントは出ているようにも見えますので、
8章 気づきと心の平静さ
9章 ゴール
10章 豊かな人生の技法
は割愛します。

以前、東大出身の草薙氏が書いた反応しない練習という本を紹介しましたが、
ベースになっている書は、本書のように見えます。
本書は、翻訳した本ですが、その割には比較的読みやすくなっている本と思います。

自分にとって、理論でわかっていても、実践でそれが体験できるのかが大いなる課題と感じます。
瞑想のコツはそれなりに書かれていますが、この書の最初に、この本は独習書ではないと書かれている通り、それなりの指導により瞑想の積み重ねが必要かもしれません。より早くマスターに近づけたければ、10日間合宿に参加するというのはありかもしれません。

同じヴィパッサナー瞑想でも、日本テーラワーダ仏教協会で見られる、実況中継、歩き瞑想などの表現がありませんので、実践については少し系統が違うように思います。ただ、理論は違いがあまり無いようにも見えます。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« サンゼン堂という仏具店、弥... | トップ | 本の紹介 脳が若返るメモす... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本の紹介」カテゴリの最新記事