南九州の片隅から
Nicha Milzanessのひとりごと日記
 





 今日は出発時間は遅め(8:00)にしていたのだが、ふと目が覚めるとまだ6:00前だった。
 窓を開けると外はまだ暗く、入り込んでくる風は寒かったが、サラリーマン風、学生風の人通りが結構見られるようだった。
 身支度を終えて、玄関前に集合。
 おじさんには「ありがとうございました」、おばさんには「アンニョンヒケセヨ(さようなら)」と告げ、宿を発つ。

 百貨店(高速バスターミナル)前に着く。
 初日にここで空港バスから下車したので、同様に空港行きのバスがあるはずである。そのバスの見当は着いていたが、念のため学生風の人に確認しようと尋ねてみた。すると、その人は「私もこれから飛行機で日本に行くので、あとに付いて来て下さい」とのことだった。

 そして無事にバスに乗車できた。
 それは空港から乗ったのと同じ番号のバスだった。つまり空港発空港行きの環状線だったのだ。
 しかし空港行き専用ではないので、いろんな人が乗り降りし、また沢山のバス停にも停まりながら満員のバスは空港へ向かった。
 バスを教えてくれた彼は、日本のある大学で開かれる学会に参加するとのことだった。そして終点の一つ前の停留所で降りて行った。

 空港に着くとすぐに搭乗手続きを済まし、食事を…とレストランに入った。メニューは韓食、和食、洋食と揃っていたが、韓食はもういい…、和食は味が変じゃないかな…ということで、洋食にすることにした。

 そして免税店で研究室へのお土産(お菓子)、家族へのお土産(キムチ他)などを購入した。
 また、いかにも韓国(太極?)というデザインの団扇を購入し、「包んで」と言うと店員は露骨に嫌そう(面倒臭そう)な顔をした。
 日本だったら絶対許されそうもない態度だが、韓国ではこれが普通なのだろうか? 少々疑問を感じながら、品物を受け取った。
 また、韓国ウォン硬貨&紙幣は一番のお土産になる(?)ので、両替は最小限にとどめておいた。

 出発口を抜けると、アナウンスに日本語も混じるようになり、また日本人とおぼしき団体も目に入ってきた。
 ここでハングルの案内板をバックに、先輩が記念にと1枚撮って下さった。でも、空港内での撮影は(前述の通り)一応厳禁のはずなんで、ちょっと緊張してしまった。

 機内へ。
 スチュワーデスが言う「カムサハムニダ(ありがとうございます)」は、もう聞き慣れてしまっていた。そして、また1時間足らずの空の旅。

 福岡空港着。
 先輩はここでキムチを直接奥さんの実家に宅配する手続きに。そして、来た道を帰るように地下鉄に乗り、博多駅へ。特急つばめに乗り、車窓から有明海を臨む頃には、西の空は夕焼けで真っ赤になっていた。

 西鹿児島駅に着くと、辺りは既に真っ暗になっていた。先輩夫妻とはここでお別れし、1人市電で帰宅。

 こうして、私の生まれて初めての海外旅行は、怪我もなく無事に終わったのであった。

-----「完」-----



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 今日はいよいよ慶州を去る日である。
 だが、その前に行くべき場所があった。「市役所」である。
 一昨日、立ち寄った本屋で慶州市の地図を探したが、道路地図のようなものしかなく、市役所に行けば手に入るのではと考えたからである。先輩いわく「外国で困った時は、市役所の国際交流課へ行けばなんとかなる」とのことである。

 昨日、一昨日に比べるとやや遅いものの、朝一番で旅館を出た。
 まずちょっとした店でパンを買って腹ごしらえをする。その後、高速バスターミナルへ行った。そして釜山行きのチケットと少しばかり慶州土産を購入し、荷物をコインロッカーに押し込んで(待合室の客の視線を浴びてちょっと怖かった…)、一路、市役所へ向かった。

 10分ほど歩いて市役所に到着。
 受付で尋ねていると、奥から若い青年2人を連れて、国際交流課の日本担当の鄭(チョン)さんという方が出てきた。
 挨拶をかわし、別館にある課へ向かう。「この2人は日本の奈良市役所から研修で3ヶ月前からここ慶州に来てるんですよ」と鄭さんはおっしゃった。しかし2人は「なんでオレ達が日本を離れてこんな所にいなきゃならないの?」といった不愛想な態度で、また全然ハングルを喋ろうともせず(覚えようともしてなさそう)、やる気がなさそうだった。税金で留学してるくせに、これだから公務員は…。
 課へ着くと課長さんをはじめ、多くの方が迎えて下さった。
 しかし大歓迎なムードではなかった(汗)。というのは「今日、午後にアメリカの××市(何処だったかは忘れた)の市長さんが来るから今とても忙しいんだよ」との言葉が示す通りであった。だが、3人に1部ずつパンフレットと観光マップを下さり、また朝鮮人参茶までご馳走になった。
 で、目的の地図だが、1部しかないのでコピーという事になったが、先輩が懇願すると太っ腹にもその地図を下さった。
 マニュアル通りのサービスしかしない日本の役所よりもよっぽど温かいと感じた。しかも市民でもなく、アポなしでいきなり訪ねた外国人の私達に対してである。

 昼前、釜山行きの高速バスに乗る。
 今回は「優等」バスなので1人当たり3,600ウォンと少し高いが(日本円では約470円と安いのだが)、座席を倒してリラックスできる車内であった(運転は相変わらずリラックスできるものではないが…)。
 乗車前に屋台で買った焼きイカを食べながら、移り行く窓の外の風景を眺めて過ごした。

 釜山に着くと、今回の旅行の最後の宿を探す。
 幸い高速バスターミナルの向いに、わりと綺麗で安く、おじさんが日本語を話すことができる宿が見つかった。宿代を少しでも安くしようと、慶州の時と同じく3人部屋をお願いした。
 しかしおじさんは我々3人を見て、「先輩=引率の先生、奥さんと私=学生」と思ったらしく、「結婚してない男女が同じ部屋に泊まるなんて、日本じゃ許されても韓国人の私は絶対に許さない」と言った(じゃあ昨日までの宿は何なんだ(笑))。
 先輩も我々の関係を説明するのが面倒だったらしく、「郷に入っては郷に従え」とばかりに2部屋取る事にした。無論、私が1人部屋だけど…。まあ、最後の夜くらいはね…。

 本場(?)のロッテリアで軽く昼食を済ませて、バスに乗って南部の釜山市街中心地へ向かった。
 海沿いの市場が目的地である。道路は片側5車線くらいもある大通りなのだが、行き交う車はウィンカーすら出さずに、自分の意志に基づくまま急ハンドルで進んで行く。もう、ウンザリ…。

 市場の入口前の停留所でバスを降りる。
 釜山に行く観光客には有名なチャガルチ市場。ここは大きな魚市場で、水揚げされたばかりの海産物があちこちで売られている。
 周辺では服飾品や日用品などの店も沢山ある。その一角で私は韓国ポップスのテープを3本買った。そのうち申昇勲(シン・スンフン)の歌は、今も私のお気に入りである。

 「今晩の食事はこの市場で魚でも食べよう」と決め、取り敢えずここを一時離れる。

 我々は釜山タワーに向かうことにした。タワーは高台の上にあるため、坂を登って行かなければならない。商店街の間をなんとか抜けて(途中で私達が日本人と気づくといろいろ売り付けようとしてくる)、30分程歩いただろうか、ついにタワーの前に着いた。

 タワーの前で交代で写真を撮る。今回の旅行中で初めて観光をした気分がした。
 せっかくだから、とチケットを買ってタワーに登ることにした。展望台に出ると眼下に韓国第2の都市・釜山の町並みが広がっていた。
 残念ながら今日は快晴ではなかったので、遠くに見えるはずの対馬は確認できなかった。
 最初の方でも述べた通り、韓国ではこのような場所での写真撮影は軍事上禁止されている。だが韓国人観光客も平気で写真を撮り、ビデオカメラを回している。私達も気にせずにシャッターを押した。
 このチケットには隣接する水族館や展示場の値段も含まれていたため、そちらにも向かった。だが水族館は水槽が置いてあるだけ、展示場は受付の女性が熟睡中(!)であったため、どちらも5分も経たずに後にした(どうなってんだか…)。

 タワーの前の広場には立派な銅像が立っている。そう、豊臣秀吉軍が侵攻した時に、亀甲船を率いて日本の海軍を破った忠武公・李舜臣(イ・スンシン)将軍の像である。
 この前で写真を撮るのは、まるで歴史を知らない馬鹿な日本人の若者のような気がしたが、記念として撮ることにした。う~ん、私も馬鹿者かな?

 さて、だいぶ日も傾きかけたので、先程のチャガルチ市場へ向かった。
 大きな建物の壁に日本語で「ようこそチャガルチ市場へ」とあった…。ちょっと嫌な気分になったが、そこに入ってみた。
 入って間もなく、おじさんとおばさんは私達を見つけると、すぐに魚を売りつけてきた。「ヒラメ1匹、20,000ウォン(=約2,600円)」「高い、そのイカはいくら」「じゃあ、ヒラメにイカをつけて20,000ウォン」「高い」「じゃあ、イカをもう1匹つけて20,000ウォン」という様な会話を、少しの日本語と韓国語とジェスチャーでした。
 「まあ、調理代込みだから、それならいいか」と、それらを買うことにした(元値はいくらだよ、全く…)。すぐに2階に案内された。

 座席で待っていると、キムチに続いて先程購入したヒラメとイカの刺身が出てきた。ビールで乾杯する。
 おばさんが「ヒラメのあらの部分を味噌汁みたいなのにできるけど、要るか?」というようなことを言ってきた。「いいねえ」と、頂くことにしたのだが、それもキチンと別途料金になっていた(汗)。

 1階に降りてお土産用の干物などを買って外に出ると、辺りはすっかり夜になっていた。
 バス停を探して歩き出す。何ヶ所かのバス停に行ってみるものの、どれに乗ればいいのかわからない。また、バスもあまり来ない。

 ずっと歩き回っていたのでトイレに行きたくなって来た。
 「交番ならトイレを貸してくれるだろう」と思い、入ってみる。だが、その警官に「May I use toilet?」等と言っても全く通じない。結局「ファジャンシル(化粧室)」と書かれたドアを指差してやっと分かってもらえた。何で英語が通じないんだろう…?
 後から出て来た一番若い警官は英語を解するようだった。
 英語で「高速ターミナル行きのバス停は何処ですか?」と訪ねてみる。「OK、OK! ついて来なさい」みたいなことを言うので従う。5分程歩いたであろうか、不意に地下に降りる階段に入っていった。「あれ? ここって地下鉄の駅? 地下鉄で帰るんだったらわざわざ警官に教えてもらわなくても分かるんだけど…」。
 先輩は「地下鉄じゃせっかくの風景が見えないので、意地でもバスに乗る」という考えだったらしく、かなり不満そうだった。私と奥さんはどんなルートでもいいから早く宿に帰りたかった(沢山歩き回ったので、もうくたくた)のでこれで良かったんだけど…。しかも、もう夜だから景色はあまり見えないんだけどね。
 その若い警官は案内版を指差し、降りる駅名を語り、またご丁寧に地下鉄の切符まで買って下さった。親切で有り難いんだけど、そこまでしてもらわなくても…。ちょっと離れた所で、明らかに日本人観光客と思われるおばさんがこちらを見て笑っていた。…。

 地下鉄は降車予定駅の少し前から地上高架線になっていた。東京の営団地下鉄東西線みたいだと思った。東莱(トンネ)という駅で降車、歩くこと20分、夜食を買って宿に戻る。

 今日は最後の韓国の夜。ビールとともに、すっかり毎晩の恒例となった「UNO」をし、適当な時間をみて先輩夫妻は隣の自室に戻り、就寝。

 「次に韓国に来るとしたら、何年後だろう…? それとも、今回が最初で最後かも知れないなあ…」などと独り言を言いながら、最後かも知れない温突の温もりを全身で感じていると、いつの間にか寝入ってしまった。



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のち

 今日は良洞村民家調査2日目である。

 昨日は全家屋の1/3程度しか調査できなかった。当初は、今日の午前中に調査を終わらせて、午後からは慶州市の名所・旧跡を見に行く予定だった。
 しかし、この調子では午前中どころか明日も調査になってしまうかも知れない。そこで今日は昨日よりも早く、6:30前には宿を出た。厳しい寒気が3人を襲う。

 昨日も利用したバス停に到着。
 裏手の市場ではあちこちで湯煙が上がっている。昨夜買ったパンを取り出すが、寒さのせいかどうも湯煙が気になる。そして3人とも導かれるようにその方へ歩き出す。
 湯煙のもとは、おでんのような、魚のすり身を棒に巻きつけたものの鍋であった。

 「大丈夫だろう(腹をこわさないだろう)」と意見がまとまったところで、早速買って食べる。スープも頂く。体が芯から暖まってきた。「ああ、やっと韓国の庶民の味を知ることができた」と思った。

 ---一昨日・昨日と2日続けてけっこう豪華な夕食を取った。これらは間違いなく韓国料理であった。
 しかし韓国料理であることには変わらないのだが、どうも観光客(=外国人向け)のための料理であったような気がしていた。キムチを除けば普段地元の人が食べる料理ではないような気がしていた。
 だから、この何気ない素朴な屋台風のものを食べたことに、豪華韓国料理の時とはまた違った嬉しさを感じた。


 バスに約1時間程揺られ、良洞村入口に到着。今日はその看板の前で記念撮影をする。
 そして、村を目指して歩き出す…。朝早いこともあり、何かモヤでもかかったような天気。並行して走る線路を無窮花(ムグンファ)号が汽笛とともに駆け抜けていく。

 今日はまず、村の手前側にある安楽亭(アンナクジョン)という亭子(あずまや)から調査を始める。
 山の中腹にあるその亭子の下方にはお墓があった。直径1.5m程の丸い小山のような饅頭のような形のお墓である(韓国は土葬である)。
 カメラを向けるのは失礼かも知れないが、2枚ほど写真を撮り、その後で手を合わせた。

 その山を下り、村へ向かう。
 村の左側に良洞国民学校がある。校庭の入口の脇にはハングル文字を創始した世宗(セジョン)大王の像がある。
 昨日は気づかなかったが、その校舎の造りを見て唖然とする。どう見ても韓国の伝統的住宅の外観を模倣している(RC造だが)。民俗村の景観に違和感を与えない、設計者の意図が窺えた。

 今日が日曜日だからであろうか、早朝だというのに外国人(特に西洋人)観光客が少なからず目に入った(私達も外国人だけど…(笑))。良洞は民俗村として観光地化されつつあるが、その殆どの家には今なお人が普通に住んでいるのである。
 であるから見られる方にとっては、はたまた迷惑であろう。せっかくの日曜日に朝っぱらから庭先でガヤガヤされては落ち着かない筈である。実際、私が庭を掃除していた女の人に家のことを尋ねると、はじめは答えてくれたが(うるさそうにではあるが)、最後には「あ~、もう!」といったふうに屋内に去ってしまった。

 20軒目くらいに、独り暮らしのお婆さんの家に行った。家の造りが他と異なる複列型で興味を引いたが、犬があまりにも吠えるので写真だけ撮ってパスしようかと思った。
 しかし、お婆さんが何か声を掛けると犬は急におとなしくなった。お婆さんは日本語が分かり、部屋の名前やその用途などいろいろ教えて下さった。「ありがとうございました!」と声を掛け、そこを去る。

 その10軒くらいあとに、資料では紹介されていないが結構立派な家屋があった。
 その前で立ち止まっていると、私より何歳か年上の女の人がこちらをチラチラと窺っていた。私はその人に近づき「アンニョンハセヨ!」と声を掛け、尋ねてみる。
 その家屋や部屋の名称、そしてその用途を紙に書いてもらった。その後、英語で「I'm studying Korean traditional houses.」「I came here to write graduation report.」等と雑談をしていると、ふと、その人は家の中へ入って行き、何か本を持ってまた出て来た。それは少し古くなった日本語の教科書であった。

 ---まだその人とお話をしたかったのだが、離れたところで先輩が時計を気にしながらこちらを見ていたので、お別れを言って立ち去った(あ~あ、お友達を作るチャンスが…。名刺でも作ってくればよかったな…)。


 朝食べなかったパンを昼食にし、ほとんど休む間もなく調査を続ける。

 李氏の派宗家(パジョンガ=宗家傍流)を見て下りてくると子供連れのおじさんが何か話しかけてきた。
 もちろん、言葉が分からないので首を傾げていると「Oh, Japanese?」と聞いてくる。「Yes.」と答えると続けて英語で「上の建物を見てきたのか」とか「どうだったか」の様なことを聞いてきた。
 私は答えようと頭で英作文をしていると、今度は「Oh, you can't speak English?」と言ってきた。すると先輩は「Yes!」と言って、ちょっと呆れ顔をするおじさんを尻目にさっさと歩きはじめた。
 先輩いわく「構ってる暇はない、時間がない!」とのことらしいが、ここで反論すると「誰の論文の為に調査をやってあげてるんだ?」と言われそうだったので、私は黙ってることにした…。

 「孫東滿(ソンドンマン)氏家屋」という、韓国でも非常に稀な、現存する李朝時代初期の建物の前に来た。良洞村の入郷祖・嚢敏公(ヤンミンゴン)孫昭(ソンソ)が1457年に建てたものだといわれている。
 月城孫氏の大宗家ということでもあり、ロ字型の主屋、一字型の行廊棟(ヘンナンチェ=使用人の棟)、そして祠堂(サダン=家廟)からなる、村屈指の建物である。
 ここから家来達の住む集落全体を見下ろす眺めは絶景である。しかし、舎廊マダン(庭)の樹齢500年の欅の木の奥には祖先を祭る祠堂が鎮座しており、日常生活にも儒生(儒教を守って生きる者)としての制約を受けるようにも配慮されている。

 その3軒ほど後に、カメラを向けると「ちょっとこっちに来い!」といった感じで手招きする老人がいた。「怒られるのかも…」と思いながらも、その老人に近づく。
 この老人・李さんは何と戦時中に日本軍の兵隊であった人で、音信不通の日本人を探しているという。手紙をその人に会ったら渡して欲しいという依頼であった(残念ながら渡せていないが)。

 次の家屋へ向かっていると、後ろから若い女性が2人やって来た。どうやら私達の持っている資料や地図が気になっているらしい。
 「アンニョンハセヨ!」と、そのうちの1人が声を掛けてきた。すかさず先輩が「Can you speak English?」と聞き返す。相手はちょっと驚いたような表情を見せたが、「あのー、もしかして日本人ですか?」と尋ねてきた。
 その女性はソウル大に留学している日本人学生で、韓国人の友達とここ良洞村に観光に来たという。まさかガイドブックにも載っていない良洞村で日本人に会うとは、お互い思っても見なかった。少しの雑談の後、余っている地図のコピーを渡して別れた。

 夕方になり、山の裏手の残り10軒へと向かった。
 裏側であるから余り人の手が入らずにいい家が残っているのではと期待していた。
 しかし、その全く反対で、観光客もわざわざここまでは来ないだろうといった感じで、かなりの家が現代的に造り替えられていた。これには呆れさせられた。

 調査可能な家屋を全て調べ終わった頃には、辺りはすっかり夜の帳が下りていた。
 バスに乗ったが満員で座れる所がない。しかも相変わらずの乱暴な運転で疲れは増すばかりであった。


 やっとことで慶州に戻る。
 調査が終了したお祝いにと、夕食はちょっとした飲み屋に入った。おでんや天ぷらをつまみに、焼酎(ソジュ)で一杯やった。
 ここの店の女主人の夫は鞠地(きくち)さんという日本人であった。そのおじさんは「三綱五倫」といった韓国思想や、戦争のことなど、色々と有益な話をして下さった。また、先輩を見て「フィリピン人だろう!」と言い張って聞かなかった。

 今日は慶州最後の夜なのでいつもよりも遅くまで起きていた。しかし、やはり疲れからかいつのまにか3人とも眠ってしまった。



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時々

 朝7時前、テレビから聞こえてくる騒がしい韓国語と蛍光灯の明るさで目が覚める。
 今日は、はるばる異国の地までやってきた最大の目的、良洞村(ヤンドンマウル)に行く日だ。
 
 早々に着替えて実測道具を確認し、7時半頃には宿を発つ。
 昨夜、宿のおじさんから教わったバス停のある大通りへと向かう。残念ながら小雨の舞う天気だ。
 ここ慶州は、鹿児島より遥か北に位置しているので(だいたい東京と同緯度)、私達3人にはとても寒く感じられた。吐く息も白い。
 
 バス停に着き、早速数人の学生らしき人に尋ねてみる。地図を見せてバスの番号を指差し「ヤンドンマウル、OK?」と質問するが、みな一様に「I don't know.」と答える。
 どうやら良洞村は、韓国でも一般には知られていないようだ。「地球の歩き方」や、他のガイドブックにも全く載っていないのも無理ないか…。
 
 時刻表を見るとまだまだ時間があるので「朝食を」と売店を探す。
 ちょうどバス停の裏手は市場のようになっていた。屋台のような出店もあり、温かそうなおでんのような何かを食べている客もいた。
 ここで何か食べても良かったのだが、先輩の脳裏に『過去の中国での民家実測』のことが浮かんだらしく、無難にパンとコーヒーになった。
 それは「外国に行くと水などの環境の違いにより必ず一度はお腹を壊す」という経験に基づいている。今回の調査は実質2日しかないので、お腹を壊して休養という訳にはいかない。
 
 そうこうしているうちにお目当てのバスが到着。
 運転手に地図を見せ「ヤンドンマウル、OK?」と聞くと、ウンウンと頷いた。
 いつでも質問できるようにと、運転手の真後ろの席に座る。料金も1人あたり890ウォン(=約116円)と格安だ!
 
 正直、韓国は交通マナーがとても悪い! 歩道に車やバイクが平気で乗り上げて来るし、ウィンカーもつけずに突然車線変更を行う。バンバン飛ばすかと思えば急ハンドルを切る。
 よく事故が起きないものだと思った(そういう場面に遭遇しなかっただけだろう…)。
 
 バスは兄山江(ヒョンサンガン)という川に沿って北上し、港湾都市・浦項(ポハン)市へと続く路線だった。地図によると、その浦項市の少し手前に良洞村があるらしい。
 バスに揺られて1時間くらい経った頃だろうか、バスを停めた運転手がふとこちらを振り返り「ヤンドンマウル」と右前方を指差して教えてくれた。
 「カムサハムニダ!(有難うございました!)」とお礼を言ってバスを降りる。
 
 緑色の大きな案内板に「양동마을(ヤンドンマウル)⇒」と白字で書かれていた(もちろんハングル文字だが)。ここからは歩くしか方法はなさそうだ。
 案内板から村までの約1.5kmは一本道だった。次第に文献の挿絵の写真と目の前の光景が一致してくる…。
 
 「あぁ、ついにここまで来た…」

 これまで、地図や写真でしか見ることのできなかったここ良洞村に、今、いるんだと思うと、不意に嬉しさが込み上げ、深い深い感動を覚えた!
 今までいろんな所に旅行に行ったが、その目的地を今回ほど丹念に調べて行ったことはなかった。だから、ただ「すごいなあ」「綺麗だなあ」という気持ちだけで終わっていた。口では「感動した」と言っても、実際、心の底からそう思ったことはほとんどなかった。
 しかし今回は、この日のために2ヶ月も3ヶ月も前からずっと調べてきた場所である。それが、この感動を生んだのだろう…。

 
 さてさて、感傷に浸るのはそこまでとし、早速、調査を開始する。
 先輩夫妻は写真を撮り、私は家の現状(棟の有無、増改築など)及び部屋割を調べる。持参してきた報告書の配置図は、1979年に作られた古いものであるため、さすがに現状との相違点が多く見られた。
 
 観光地化を目指しているのだろうか、案内所が新設されていた。また、その前には大きな案内板があり、ハングル、英語とともに、日本語による説明もあった(所々表記が間違っているが…「る」→「ゐ」とか)。
 「観光案内マップでも貰えないかな」と思い、私は案内所のドアを開け、「アンニョンハセヨ!(こんにちは)!」と声を掛けた。中にいたのは係のおじちゃん1人と、あとは中高生ぐらいの観光グループの女の子4~5人。
 もちろんこのあとハングル会話が続く訳がないので、お互い拙い英語で会話する(汗)。それによると、なんと「宝物(=準国宝級)」に指定されている『香壇(ヒャンダン)』が改修中で立入禁止とのこと。すごく残念…(涙)。
 
 私はハングルを読むことはできるのだが、当時は実践の韓国語会話を勉強していなかったので、「すみません」「ちょっといいですか」「失礼します」等にあたる韓国語を知らなかった…。
 したがって「アンニョンハセヨ~!」と元気に挨拶しながら敷地に入るものの、その後は家屋を指差していきなり「内棟(アンチェ)?」「舎廊棟(サランチェ)?」と聞くしか方法がなかった。相手から見れば、ずいぶん失礼な奴に映ったに違いない(汗)。
 ちなみに、内棟(=主屋、母屋)、舎廊棟(=主人用・接客用の棟)の意味である。
 
 調査を始めて5~6軒目に、保護樹に指定された大木が庭先にある民家があった。内棟と舎廊棟がきれいに分かれており、見栄えのする良い家だった。
 「アンニョンハセヨ!」と庭で家事をしていたおばあさんに声を掛ける。このおばあさんは日本語を少し解するようで、家の間取りを親切に教えて下さった。
 韓国の住宅を語る上で欠かせないものの一つに温突(オンドル=床暖房)がある。竃の煙を床下に通して部屋を暖めるという、寒い朝鮮半島ならではの温熱再利用の非常に合理的な設備である。
 竃と煙突を指差しながら私達3人で温突の構造について話していると、おばあさんが不意に竃へ近づき、薪に火をつけた。10秒ほど経つと、床下を通った竈の煙が煙突から出てきた。
 「あぁ、わざわざ私達のために火を付けて見せて下さったんだ!」と、思わず感動してしまった。
 
 このおばあさんの他にも親切にして下さる方がたくさんいた。棟や部屋の名前わざわざ紙に書いて説明して下さる方。韓国語で延々と10分以上もその家の歴史らしきことを演説して下さる方(住宅の所有者の名前以外は全く聴き取れず…(汗))。

 しかし誰もがこのように親切に応対して下さる訳ではなかった。突然窓を閉める人。韓国語を話せない(=日本人)と分かると態度を急変し、無視し始める人。あっちへ行けと言ったふうに怒り出す人…。
 なんか複雑な気分…。
 
 お昼は村に2軒しかない売店の1つで、カップラーメン(1つ330ウォン=約43円)を食べた。お湯を入れてと言っただけで、1人当り170ウォン(=約22円)も追加された。タダじゃないのかよ(汗)。
 まあ、別に自家製のキムチをご馳走になったので良しとするかな…。
 
 良洞村は山がちの地形に展開しているので、上ったり下ったりの繰り返しだった。普段このような所を歩き慣れていない私達は、もう足が限界にきていた(先輩は足を捻挫していたので、特に)。
 日も傾き始めたところであり、予定件数までは達していなかったが、約1/3を終えた所で今日は帰ることにした。
 
 再びバスで慶州に戻り、近くの書店で民家関係の本を2冊購入。
 その足で昨日定休日だった「サランチェ」へ向かった。今日はとても疲れたので、明日のためにスタミナをつけなきゃと「コプチャンジョンゴル(もつ鍋)」を注文することにした。
 さすが宿のおじさんのお勧めの店で、ボリュームの割に値段も良心的!
 
 明日の朝食のためのパン、そして夜食を買って宿へ戻る。
 疲れのためか、今夜はみな言葉少なく、すぐに床に就いた。



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 この旅行記は、大学生時代に卒業論文を完成させるために行った韓国調査旅行の記録である。
 メンバーは先輩、先輩夫人(以下、「奥さん」)と私の3人。
 ちなみに当時の通貨レートは、1,000ウォン=約130円であった。


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 生まれて初めての海外旅行が、まさかこのような調査旅行になるとは思ってもみなかった。
 私は駅へタクシーで向かう途中、実測調査用の画板を家に忘れたことに気づき、急ぎUターン(汗)。何とか待ち合わせの時間には間に合ったのだが、なんと先輩も画板を忘れたという。
 出発前からこんなことでは、先が思いやられそうだ(汗)。
 
 始発(6:10)の特急つばめで西鹿児島駅を出発。約4時間後、博多駅に到着。博多駅からは地下鉄で福岡空港へ。
 アシアナ航空の便で空路韓国へ。初めての国際便。アナウンスも韓国語+日本語。ちょっとドキドキ。上昇・下降だけだといっても過言でないくらいの短い空の旅(もちろん誇張だが)。

 1時間足らずで釜山・金海(キムヘ)空港に到着。空港構内では周りが日本人だらけで何か興ざめ…。せっかく外国に来たんだから日本語を聞きたくないと思っても嫌でも耳に入ってくる。
 税関で先輩の持っていたカメラが引っかかり、しばし足止めを食らう。私の持ってきたデジタルカメラは何故か素通り。人を見るのか??(笑)
 カメラといえば…。韓国は厳密に言うと「休戦中」の国であるため、撮影が制限される場所が結構あるのである。特に軍事防衛上、航空機とか展望台といった高所からの写真撮影は禁止である(ま、実際はあまり誰も守っておらず、また現在ではそれほど厳しい規制はしていないようだ)。
 (関税の関係もあってか)カメラを韓国で売却目的で持ち込んでないことを証明するため、帰国時の持ち物リストにきっちり記録され、15分後やっと解放される。
 空港内の銀行でそれぞれ5万円ずつ韓国の通貨ウォンに両替する。財布に入りきらない程の札束が手渡され、すごーくお金持ちになった気分!(笑)
 
 空港リムジンバスに乗り、釜山市街地へと向かう。

 途中、風景や建物を見てもまるで日本そのままのようで、車が右側通行という点以外は外国にいるような違和感が全くなかった。しかも前日、徹夜で卒業設計のエスキース(荒削りの下書き設計図)を作成した疲れもあって、つい、うたた寝してしまう(奥さんも疲れて寝てたらしい)。
 ここで先輩に「お前ら、外国にいるのに緊張感が全然足りん! スリや置引きにも気をつけないといかんのに。それに道路沿いに見とくべきいい建物がいっぱいあったぞ!」と怒られる。
 「だって先輩がと~っても頼りになるから、つい安心して眠ってしまったんですよ!」と、下手な言い訳をしてお茶を濁す(汗)。
 
 釜山から今度は高速バスに乗り換え、宿泊地の慶州(キョンジュ)に到着。

 「地球の歩き方」で目を付けていた宿は、割とすぐに見つかった(日本人観光客に知られているらしい「韓進(ハンジン)荘」)。3人1部屋だが、バス・トイレ付素泊まりで1人あたり1万ウォン(=約1,300円)とは、安いよね!

 部屋に入るとすぐに先輩から「ジュースを買ってきてくれ」と言われる。「えっ、1人で…? もう、途中で買えばよかったのに」と思いながらも、「ま、自販機がどっか近くにあるだろう」と、しぶしぶ街の方へ歩く。しかし、しばらく探し歩き廻ったがどこにも自販機が見当たらない…(汗)。そういえば自販機が街中にあるのは世界で日本だけだよね。

 仕方なく近くの売店に入り、冷蔵ケースから缶を3本取り出しレジに置き、おばちゃんに「オルマエヨ?(いくらですか?)」と旅行のために覚えた即席ハングルを使ってみる。これは通じたらしいのだが、今度は相手の言っていることがさっぱり分からない…(汗)。

 「しまった、外国での買い物の際の必需品『電卓』を持ってくるべきだった…」(部屋に置いてきたバッグの中に入れたまま)と悔やむが、後の祭り。
 「もう、ぼったくられてもいいや」と思い、「あー、チョヌン イルボンサラム(私は日本人)」と言ってみた。すると、「あぁ、ニッポン人ね。えー、1,500ウォン」と日本語であっさり言われてしまった。

 さすが観光地! だが、何か拍子抜け…。
 後で分かったのだが、ジュース1本あたり500ウォン(=約65円)というのは標準の値段だった。良かった良かった!
 
 夕食、宿のおじさんに勧められた店「サランチェ」に行ってみたが、残念ながら定休日だった。
 それならばと「地球の歩き方」に載っている、安い(はずの?)焼き肉の店に行った。
 まずキムチがどっさりと出され、続いてプルコギ(牛焼き肉)、カルビタン(牛肉のスープ)、ピビンパプ(ビビンバ=混ぜご飯)など…。盛りだくさんの内容。
 料理の方は言うことなかったのだが、おいおい、ガイドブックの値段と全然違うよ…。予算を大幅にオーバー(汗)。
 結局「まあ、初日だし、豪華な食事もいいか…」ということになったが、どうも納得が…。
 
 夜は、ビール片手に「UNO」をし、明日に備えて少し早めに就寝。床が温突(オンドル)なので暖かくていい気持ち…。



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