今回のお題は難しいな。
逸話っていうと、「○○に関する世間にはあまり知られていないエピソード」ってことなんだろうけど、そんなのみんな知ってる???
仕方がないので、昔、私がWikipediaを編集し、出典が明らかでないと一部が削除された内容を書いてみようと思う。
---
柴田 勝豊
柴田 勝豊(しばた かつとよ、1556年(弘治2年) - 1583年6月6日(天正11年4月16日))は、戦国時代の武将。
柴田勝家の甥(姉の子)で、その養子となった。1576年(天正4年)、北ノ庄城の支城・丸岡城を築き、その城主となる。1582年(天正10年)、織田信長死後の清洲会議で勝家の所領となった近江国長浜城の守備を任された。しかし、勝家が同じ養子の柴田勝政を優遇して自分を冷遇すること、佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、羽柴秀吉に調略されて寝返った。しかし病を得ていたため、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いでは家臣を代理として参戦させた。
賤ヶ岳の戦いの直後、病死した。勝家滅亡の8日前のことであった。
<人物像>
養父・勝家に冷遇されていたとはいえ、秀吉に寝返った武将として後年の評価は高くない。しかし、勝豊の守る長浜城と長浜城下について
①秀吉が築いた城であり、秀吉には城の造りが手に取るように分かる点
②秀吉が長年に亘って治めていたため、戦になった場合に領民が秀吉に加勢する可能性がある点
③勝家の本拠越前国から遠く離れた飛び地として敵地に孤立しており、籠城したとしても援軍を期待できない点
の諸点を鑑みれば、無用に将兵に被害を出さずに城を明け渡すという穏当な判断は、一国一城の大将として評価できるものである。
一方で、病床にあった勝豊は、賤ヶ岳の戦いにより勝家の命が風前の灯であるのを聞くと、「私の命ももはやこれまでである。一城の主とまでなることができ、自分自身には思い残すことは何もない。だが、今ひとつの心残りがある。それは、父上をお助けすることができなかったことである。願わくば秀吉めの首を取って、父上のもとに届けたかった…」と涙ながらに側近に語ったといわれている。
勝家は、病弱な勝豊よりも、勇猛な盛政・勝政らをずっと厚遇していた。しかし、賤ヶ岳の戦いで功を焦った盛政の軍令無視の勝手な行動により、柴田家の敗北が決定的になり、結果的に勝家の滅亡が早まったのである。3人の養子らのうち、誰が勝家の薫陶をより多く受けていたのかを、勝家は最後まで気づいていなかったのかもしれない。
---
後半の「人物像」の部分について、ノートで「独自研究」との批判を受け、大部分が削除されてしまった。
しかし、私の独自研究ではなく、小中学生の頃に、とある文献で読んだものを、記憶を辿って書いてみたものであった。だが、その文献を出典として示すことができない以上、やむを得ないと思う。
でも、ニコニコ大百科の方に一部が継承されていて、ちょっと嬉しい。
----
■今日の行動
仕事
■今日の買い物
なし
■今日の献立
朝:なし
昼:お手製弁当
夕:豚の角煮