進まない復興へのもどかしさを感じる人、新しい家族を授かった人、今月になってようやく一時帰宅を果たした人――。東日本大震災の被災地から府内へ避難している人たちに、震災から1年となる今、抱いている思いを聞いた。(斎藤剛、川本修司、渡辺彩香)
福島第一原発の事故で警戒区域に指定された福島県大熊町から避難し、高槻市で暮らす阿部緑さん(63)は今月3日、ほぼ1年ぶりに、同原発から約5キロの自宅に一時帰宅、「いつかは戻りたい」という思いを強くした。
あの日、町内の高齢者福祉施設で強い揺れに襲われた。自宅に戻ったが近くの公民館への避難を指示され、持病の薬や毛布を取りに寄って以来。防護服を着て、線量計を首から下げて訪れた自宅周辺には約10センチの積雪があり、静寂に包まれていた。
土足で入った台所には、割れた食器が散らばり、避難のため急いで取り込んだ洗濯物の衣類もそのまま。居間のこたつの上には、朝に茶を飲んだ湯飲みや急須――。「時間が止まっているようだった」
趣味の日本舞踊で使う和服を袋に詰め込み、1時間もたたないうちに後にした。「放射能のことが気になり、ゆっくりとする余裕はなかった」。荷物が多く、写真のアルバムなどを持ち帰れなかったのが心残りだ。
愛媛県今治市出身。5年前に亡くなった夫が原発関連の下請け工事をしていたため、約30年前に大熊町に移り住んだ。「友達もでき、一生を終えてもいいと思っていた。原発で夫の仕事があり、町も潤っていたのに」と思いは複雑だ。
11日は大阪市北区で開かれる追悼の催しに出席する。「地震があったことも忘れたいという思いがあるので、1年たったという実感はない。早く復興し、除染も進めてほしい」と願う。
◆同業者の苦悩に心痛め 宮城→茨木武藤優さん◆
石巻市の工場に残っていた看板を掲げ、事業継続を誓う武藤優さん(右)、北斗さん(中)ら(茨木市の府中央卸売市場で)
茨木市の府中央卸売市場内で水産会社を経営する武藤優さん(62)と営業担当の長男北斗さん(36)は「よくここまでやってこれたよね」としみじみと言った。
宮城県石巻市の石巻漁港すぐそばにあった工場は、津波で全壊。同県東松島市に住んでいた家族7人は震災1週間後、取引先の人々の助けを借りて山形、新潟、大阪へと移動し、昨年4月から茨木市に住む。市場の配慮で工場スペースを安価で借り、7月に会社を再開。従業員は約半数、売り上げも以前の35%程度だが、一歩ずつ進んでいる。
「株式会社パプアニューギニア海産」。工場のドアの前には、津波の後、唯一見つかった看板を立てかけた。石巻から1人、従業員(28)も呼んだ。優さんは「絶望的だったあの時期、もう1回がんばろうという気持ちにさせてくれた支援は本当にありがたかった」とかみしめる。
その一方で、別の思いもある。震災後、銀行の手続きや荷物を取りに4回、石巻に行った。がれきの山、人のいない街――。自分は運良く工場を再開できたが、現地に残る多くの水産関係者らは苦悩を抱えている。「もう1年もたつというのに、政府は何をしているんだ。街の復興や原発問題に、本当に真剣に取り組んでいるのか」
◆5人目授かり「前向いて」宮城→堺 鈴木 武さん 真由美さん◆
「日々の生活に一生懸命のうちに、あっという間に1年たった」。宮城県女川町から堺市に家族で避難してきた鈴木武さん(29)は振り返る。
レイサちゃんを囲む鈴木さん一家(堺市堺区で)
家も勤めていた会社も津波で流され、堺市堺区の市営住宅で暮らすようになったのが昨年3月下旬。武さんは大阪市内の会社に就職し、長女レイナちゃん(7)は4月に小学校に入学した。今年2月、妻・真由美さん(35)は四女レイサちゃんを出産し、家族は7人になった。
レイナちゃんは小学校で友達もでき、手をつないで下校してくるようになった。武さんは運送会社でトラック運転手として働く。どこを走っているのかわからなかった阪神高速道路も、すべての出入り口を覚え、女川の方言に大阪弁が交じるようにもなった。
2月、女川町から「(住宅地について)2014年度の高台移転を目指す」とする書類が届いた。しかし、「帰りたいけど、仕事がないのがわかっている。先はまだ見えない」。武さんは言う。震災を回顧するテレビ番組で、津波が沿岸の街を破壊する映像を見た夜、レイナちゃんはうなされた。「心には傷痕が残っている」と痛感した。
そんな中、生まれた5人目の子レイサちゃん。家族の誰もが小さな寝顔をのぞき込むとほっと和む。真由美さんは「命の大切さを痛感したあの日があったから、この子を授かったのだと思う。前を向いて生きたい」と話す。
(2012年3月11日 読売新聞)