歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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鬼さんノートその15

2023-12-19 20:46:46 | 月鞠の会
定家が、十体の構想につまずいていたとします。
途中から別の誰かが「定家十体」に干渉して加筆したとしても、『毎月抄』でわざわざ言及しているのだから、こだわりはあったはず。
またそれに『毎月抄』は、手紙として書かれた実作の手引きです。
この書簡には、鬼拉の体を含む和歌の体のそれぞれと、万葉調を真似て詠むことへの言及が同時にあって、定家にとり、和歌の十体は、鑑賞ではなく実作を念頭に置いた構想であることが明らかでしょう。

鑑賞ではなく実作を念頭に置く。すると、どう違うのか。

実作しない人には、まったくわからないかもしれません。

私が「鬼拉」という言葉に触れたときに思ったのは、やはり『古今和歌集』と差別化することが意識されたであろうということでした。『古今和歌集』では、和歌は「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」るものなのです。『古今和歌集』の時代は戦乱を避けて外交をとざしましたが、新古今の時代は、戦乱に明け暮れていました。『古今和歌集』の「鬼」は、自然界の精霊のようなものです。しかし、定家の用いた「鬼拉」という言葉のなかの「鬼」は、その意味ではまったく通じません。定家の時代では、中古の名残があって、「鬼」という言葉には、恐ろしげな意味を含まない超常的存在の意味も残っています。(ここで『鬼の研究』を援用できます。)しかし、「鬼を拉ぐ」というからには、その「鬼」は、恐ろしく強大な悪でなければ、「鬼を拉ぐ」という行為に真善美が成り立ちません。これは、和歌の体として提唱されたものの一つなのですから、真善美でなければなりません。

さて、そこで。オニとは逸脱者であるとして、社会規範自体、変化するものである以上、それが絶対的逸脱者ではあり得ない。このことは、いつ誰がオニとされても不思議でないことを意味しています。私が、世間の押しくら饅頭からはみ出したヒトがオニにされるとする所以です。

『平家物語』に「禿」という章段があります。清盛が政権を握り、恐怖政治をおこなっていた頃、反逆者はいないか、監視の体制を敷いていたことがわかります。このようななかで、何人もの公家が捕われ、拷問され、処刑されました。平和な世の中にいるときに、鬼さんばなしは、自分事ではありませんね。しかし、俊成から定家の時代は、すなわち新古今の確立に至るまでの時代は、自分が反逆者とされてしまうかもしれないという恐怖が、生活感情の底に、常に流れていたでしょう。私は、このことを、「鬼拉の体」なる体が登場する背景に、あった気がしてなりません。反逆者とされ捕われる恐怖が、「鬼」という言葉をもった体を、およそふさわしくない和歌の場に、具現させたのではないでしょうか。

つまり、この時代には、古今集の時代にも、また古今集以後にも公家をここまでに震撼させたことのない特異な恐怖の感情を、和歌の「こころ」としていかに扱うかが、ひそかな課題となっていたのではないでしょうか。

次に、少し振り返って、絶対的逸脱、ということについて考えてみます。







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鬼さんノートその14

2023-12-06 08:08:15 | 月鞠の会
すべき作業を書き出すために考えを整理していました。
先生に結論部分の飛躍をご指摘いただきました。
ここの飛躍には私自身の、個人的なバリアがあり、それはバリアでありながら、本稿を書く動機でもあるので、またここで、内面の整理を必要とします。

私はここで、先人の業績に唾を吐くようなことを書かねばなりません。
まず、そもそも、「鬼とは逸脱者である」という措定を、私は根本的にオカシイ、無理がある、常識たり得ても、決して真理たり得ないと確信しているのです。

だってね、逸脱って、何なのですか。
逸脱するには、押しくら饅頭の外周がいるじゃありませんか。
それは、文明の以前から存在するものですか。

その外周はね、規範というやつです。
これを決めているのはルーラーです。
文字どおり、掟を決める支配者です。

支配者次第なものは、絶対ではないのですから、規範自体、その時代ごとに内容を変えていくではありませんか。

この謂を真理とするためには、絶対的規範を必要とします。
つまり、「鬼とは逸脱者である」という謂は、命題ではなく、なんかこう、常識を命題めかして言い直しただけなんですよ。

つづきです。

先生から無理があるとの指摘を受けたのは、鬼さんブラックホール論です。

まだ途中なので不特定多数と仔細を共有しません。
まだ動くので、先生にある程度通じればよい。

じつはそんなに空想的ではない。
なぜなら、上記の思考過程に加えて、逸脱者が逸するところの規範を、真理たり得ない相対的規範ではなく、絶対的規範ととらえ直せば、私の鬼さんブラックホール論は成り立つ可能性が出てくる。と言いますか、規範を定義するところから、鬼さんブラックホール論は私のなかで立ち上がってきたのでした。

(以下、あたらしい投稿です。ウインドウを分けませんでした。)

どの宗教にも共通する戒めというのはある。殺すな、盗むなの類。
規範を考えるときに、物差しは二つとなる。
一つは、宗教的もしくは道徳的規範。
もう一つは、法的規範。
後者は、相対的です。相対的規範の逸脱者を、「相対的逸脱者」と呼ぶことにしますね。
そして、前者のような、こころの中にある普遍的な規範を逸脱するものを、「絶対的逸脱者」と仮置きします。私はね、定家の考えようとした「鬼拉体」の「鬼」の構想に、非生命が含まれる可能性を考えているのです。
(先に述べるべきことがあるので、いまは、「非生命である可能性」とだけ示すにとどめます。)

規範の歴史をざっくりいくと、初めはね、強いもん勝ちなのです。そのルールにいいもわるいもない。
規範を決める権限者が文字どおり、ルーラー、支配者だった。
世界史上、規範の概念を大きく塗り替えたのは、1689年にイギリスで制定された「権利章典」。
これは、法律を決めていい人は王様ではなく議会であることをはっきりさせた法律で、議会で決めた法律を王様が守らなければならないという法律。
ちなみに日本は江戸時代前期。松尾芭蕉が活躍した頃です。
私は法律のこと、詳しくないから、「権利章典」に先立つ封建的規範を、どう名付けてよいかわからない。
ただ、日本史的には、王様よりも優位に立つのは、ほとけさま、仏教ということにまず、なりました。これを唱えたのがいわゆる聖徳太子です。
聖徳太子のあとも強いもん勝ちの時代はまだまだ続くし、現代社会ですら、王様にはルールを守らなくてもいい風潮なのだから、ルールを決めてしまう権限者、「強いもん」って何だろうかと気になる。
そして、「強いもん」はとってかわるのが常だから、「強いもん」の決める逸脱者がすなわち、相対的逸脱者ということになる。

そして、そうした強いもん勝ちの時代にも、日本人には祟りを恐れるこころがあって、怨霊を祀ったりしています。
中国由来の「鬼」さんと日本的鬼さんの、圧倒的相違を示すとすれば、怨霊を恐れ、神格化して祀るこころにあるのかもしれません。
なぜなら、古代中国では、小動物などを殺して、その霊魂を使い魔としたものを「鬼」と呼んだからです。
日本であれば、説話の「舌切り雀」を見てもわかるように、たとえ雀のような小さな生き物にも、報恩やリベンジがありました。
日本人で、殺した小動物が自分の使い者になるとナチュラルに考えられる人は、本当にだれもいませんよね。多分だけれど。

ここで突然、定家に戻るのですが、「定家十体」の「鬼拉体」には、菅原道真の和歌を挙げてあるのですよ。
そしてね、定家は、『新古今和歌集』を、『古今和歌集』を超えるものとして編もうとしていました。
『古今和歌集』は、醍醐天皇が、道真を中央政治から追い出して成立させた、わが国最初の勅撰和歌集です。道真の和歌もありますが、その扱いは、道真が中央にいた頃から考えると、ひどいものだなあと思います。

先生が、私に、吉本隆明が、定家と鬼拉体について述べているのを目の端に入れておくとよいと示唆をくださいました。
吉本隆明は、定家は鬼拉体の構想にバグって、そのバグに気づいてどうしようもなかったのではないかと指摘していましたね。
私は、定家は、菅原道真の怨霊を『新古今和歌集』で祀ることができれば、「鬼拉体」はそれでもう、本望だったのではないかと考えています。
だけれど、「鬼拉体」の和歌として挙げるのが、道真公の和歌だけですと、歴代天皇の政治に文句をつけているようではありませんか。
だから、他にも「鬼拉体」に挙げておく和歌が必要で、どうにも見繕うことができなかったのではないかと思います。

やっと戻ります……。
さきに、定家の考えようとした「鬼拉体」の「鬼」の構想に、非生命が含まれる可能性を考えていると述べました。
あえて道真公を祀ろうとするところからも、私は、定家がオニとカミを切り分けた気がしません。それに、まだ中古の名残があって、現代のオニと通じる意味をもちながら、オニとカミの切り分けもまた、時代的にも定かでないのがこの頃です。
ここで、同時に考察したいのが、以下の2点です。

・定家が「鬼拉体」の和歌に、万葉歌をしきりに挙げること。
・定家は、神に誓いを立て、御子左家の古今伝授を神事化しようとしたこと。

(その14は、いったんここまで。)









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鬼さんノートその13

2023-11-11 22:24:27 | 月鞠の会
鬼さんノートを書かなければと思ったきっかけは、「定家十体」に挙げられ、『毎月抄』においても言及された「鬼拉の体」の由来を、わからないままにできないと思ったからでした。「定家十体」の成立に定家本人がどこまでかかわったかについては、専門家にもいまだ不明のようですが、現時点で、情報更新されているかもしれません。

「定家十体」に挙げられた例歌は、むくつけき歌では決してなく、これのどこがいかようにして「鬼を拉」いでいるのかとの疑問を持たれる歌ばかりです。ですので、定家は例歌を挙げなかったのではないかと言われてもおり、定家がいかなる意味において「鬼を拉ぐ」と表現するのかが、謎であるそうです。(このあたりの典拠はひっぱってくるのにそう苦労しなさそうです。)

定家は、『毎月抄』で、「鬼拉の体」について名状しているのだから、なんといってもそこでの記述が手がかりでしょう。定家の記述と結ばれていい点が欲しい。馬場あき子さん『鬼の研究』を読み直せば、手がかりを得られそうに思ったのでした。

言うまでもないことですが、「鬼」とは超常的なるものです。そして、近接した超常的なる概念に、カミとホトケがあります。中世以前、オニ・カミ・ホトケは、明確に峻別されておらず、少なくとも「オニ」が、現在のような「ひたすら恐ろしい」「害をなす」存在の意味に落ち着いたといえるのは『風姿花伝』の時点では、そうだと思いました。あえて「風姿花伝」を挙げる理由を示します。まず世阿弥は、和歌だけは能楽と並行して学んでよいものだとしています。さらに世阿弥は、古典和歌における、なかでも俊成・定家の頃に確立され、美の第一位に置かれた幽玄の美を、能楽の美の第一位として推し進めています。であれば、「鬼拉の体」の意味を解き明かすのに際し、世阿弥が説く「鬼」「神」の演じ分けについても、押さえておきたく思いました。世阿弥の「物まね十体」は、「定家十体」を意識していそうだからです。

ところで、オニ・カミ・ホトケについて、私がどういった立場から述べようとしているかを明らかにしておきます。次に述べるのは、私自身の、個人的な措定です。

オニもカミも、そこはかとない気配によって、その存在を、おのずから感じるもの。ホトケとは、ホトケを中心とした世界観にいて、現世の事物にかたちを借りて恣意的に表現されるもの。もしくは供養されて成仏した霊魂として感じられるもの。……つまり、オニとカミを感じることはできるけれども、ホトケは、ホトケを中心とした世界観という枠組みを意識するなかで初めて、とらえ得るもの。ホトケとは、そもそも感じるものとして輸入されたのではなく、古代から中世初めにかけての仏教は、政治の道具として、専ら有効に活用された機構でした。そして、あえてこれをいうのは、このように捉えておくことで、本地垂迹思想と補完しあうからです。五感の領分を思想の領分が侵犯したことから、本地垂迹思想が編み出されたと私は思うのです。(研究者は、論証できない五感がどうとか言いません。違う表現で論考され尽くしたことかと存じます。)

さて、現代。オニ・カミ・ホトケについて、その現代的な意味は、一般的にはどうでしょう。「カミは神と書き、人間に恩恵を与えたり懲らしめたりする超常的な存在で、オニは鬼と書き、強烈な否定的感情によって、あるいは徹底的な非情さによって、人間に人知を超えた危害をくわえる存在で、ホトケは仏と書き、そもそもはお釈迦様で、善行を積んだ人は死後、仏となる。」……このようにしておけば、首都圏で都市生活をする現代人のコモンセンスには、だいたい合っていると思われます。そして、ホトケを、先祖の霊・守護の霊として感じられる行事が、お盆でありましょう。古代から中世初めにかけての政治的仏教に、当代の庶民がそうであったように関心などはなくて、現代人とて、やはり、素朴な情感として感じられるもののほうに、その身が馴染むのです。

私は『津軽のカミサマ―救いの構造をたずねて』(池上良正 どうぶつ社)を読んで、私のなかで乱麻であったカミとホトケが、するっとほどけました。そして、カミを、カミとして、感じられるようになりました。『中国の呪術』(松本浩一 大修館書店)を読んで、「鬼」は中国からの輸入語で、中国では人や動物の死霊を意味したことを知りました。中古の日本で、「鬼神」が自然霊を意味していたと知り、これまで、自然界の事物に触れて、五感にそのまま感じていたものが、まさに、オニでありカミであったことを知りました。私自身は、仏教徒です。ですので、どちらからでも説明はつくのですが、人が、何かを感じるときには、それこそカミもホトケもなくて、無形の愛に包まれていると素朴に感じるものですし、また逆に、不穏な空間に鳥肌が立って脚が進まなくなることがあります。私の実感では、オニとカミが紛らわしいこと、カミとホトケの紛らわしいことはありますが、オニとホトケの紛らわしいことは、断じて無いのです。先祖の霊や守護の霊がわるさをするはずがないと、私たちは、全身で感じ取ることができるのです。

超常的存在の感じられ方というのは、そもそも、それがオニかカミかホトケであったかというのは後付で、このように原始的で、本来は、思想の介入する余地のないものでしょう。

(感じることを、考えることの隅に置かないで、考えることが感じることに背かないよう整えていくという自己統合をしています。)


つづく。(誤字脱字、気づいたときに直します。)

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鬼さんノートその12

2023-11-03 21:35:43 | 月鞠の会
私は鬼さんノートを仕上げたかった。このことが私の核にあった。押しくら饅頭の世間に揉まれて、押し出される鬼たちへの共感を、この世に残したかった。グリムのブレーメンの音楽隊をご覧よ。定家だって、鬼さんだ。

5月にバセドウ病を発病し、厳重管理期間を経て、8月にようやくT4正常化、この10月、T3も正常化。ドクターからの、通勤や残業といった社会活動における制限が無くなりました。つまり、普通にお勤めできるようになりました。もちろん、いまだ肉体労働は禁忌でしょうしたばこもアルコールも厳禁です。……が、たばこは永遠にさようなら、アルコールもロング・グッバイでかまいません。健康回復が、どんなことよりもうれしい。

ここから向こう1年は、寛解へ向けて治療を(といってもメルカゾールを飲むだけです)を継続し、生活の立て直しが優先で、鬼さんノートは、そのあいだに、本当に訴えたいことに絞り込んで、考えをまとめます。あっちにフラフラこっちにフラフラしてる時間が、もうありません。YouTubeは細々とアップしていきます。こないだ、玉城徹さんの展覧会に参ったので、その折のことなど、まとめるつもり。

人間性を喪ってプレス機になる人々は、押しくら饅頭の奴隷です。
圧力と同化して、まるで存在しなかったかのように、誰の名前も残されていません。
それにひきかえ、鬼の、魅力的なことよ。

つづく。




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ただただ尊い事

2023-09-10 15:59:58 | 月鞠の会
ひさびさにYouTube、更新しました。
この後にも、立て続けに配信しています。



私は音声と画像を別に用意して合体させるんですけれど、その作業をしてる最中に、短歌のお仕事がきて、小口でも、やはりお仕事の絶え間ないのは、うれしいものですね。

鬼さんノートをどうまとめるか、考え中。

どうあっても優美にしかならないもの。
それがおまえだというような。
優美であることが本質であるもの。

あらゆる優美でないものと、おまえはいかにかかわるのか。
優美であるほかないものが、優美でないものとのかかわりを閉ざして、ひたすら優美の世界にのみ、依存するなどできようか。

優美であるほかないものが、優美であることに価値などおかぬ世界に、斬って捨てられようとも、また優美であるほかなくいのちを保ち直すもの。

優美であること。
それは、うたであること。





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YouTube更新、鬼さんノートその11

2023-08-13 15:04:20 | 月鞠の会
毎日、暑いですね。YouTubeを更新しました。



鬼さんノートも、ツイッターで思い出したように呟いています。
私はなぜ、鬼さんノートを書こうと構想したか。

そもそもの発端は、『鬼の研究』に魅せられたからである。表現者の多くがそうであるように。私が、鬼に類する女、虫愛づる姫君のような変人だったし、今もそう。私が馬場あき子さんから与えてもらったものを、自分も誰かに与えられるようになりたかった。

素朴な願望が、鬼さんノートを私に書かせているが、立ち位置として、私はそうじゃないってとこもある。

馬場あき子さんは、救済者だ。私はそうじゃない。私は、救済者ではなく、世間という押しくら饅頭の当事者なのだ。

そのあいだ、見つめつづけた……。気を保ちながら見つめつづけた、どうなったら、いいんたろう。

大きな社会のなかで、本物の鬼とは、まず戦争という装置。もう一つは、荒廃が生みだすこころの問題よ。馬場あき子さんは、政治的抑圧を受ける者たちが、思い上がった者への処罰感情を抱き、事件によって溜飲を下げたのではないかとお書きです。異論なし。ただ、私は、抑圧を受ける者には、2つがあると思うのよ。

政治的抑圧を受ける者が、まずあります。そして、政治的抑圧と同様の抑圧に加え、世間からうっぷん晴らしの抑圧を受ける被差別者がある。その抑圧対象が固定的になったとき、それはいじめ。

これ大事。私は社会学、もしくは社会科を扱おうとしているのではなく、あくまでも和歌であること。古来、歌人たちが、政治的、社内的抑圧とどのように折り合いをつけたのかということを見ていきたい。そのとき、当時の社会がどうであったかを知らずにはいられない。

歌人は皆、鬼よ。馬場あき子さん擁護するところの鬼である。私は、鬼のために、一人の鬼としてこれを書くのです。

これからの未来を生きる、鬼の末裔どものために、書くのです。




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短歌と季語

2023-07-30 18:02:45 | 月鞠の会
YouTubeを更新しました。
きょうは元気だな、元気になれたな~と思われた日の、日中のフリータイムに撮りました。



健康さえ回復すれば、どこへなりとも参れます。
無理に無理を重ねて、選択肢が狭まるほうへ狭まるほうへ……動くのは、戻れない道。
人間魚雷、回天の世界。

声が弾んでいるでしょう。
ひと月ばかりのあいだ、家にいるのがやっとでしたが、
ここまで元気になれたのは、お見守りくださった、皆さんのおかげ。

ありがとうございます。



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和歌の奥義

2023-07-17 22:49:47 | 月鞠の会
YouTubeを更新しました。
和歌の奥義についてお話ししています。



いずれの動画も、編集のわからない人には、動画と録音が同時に見えるかもです。
でもじつは、動画を早い時期に、たとえば天気のいい日などに撮っておいて、音声を後付けしています。
ですので、音声と画像には、タイムラグがあります。

YouTubeのチャンネルは、もともと朗読のために用意したものでした。
これらの動画は、歌人としての活動に主旨があります。
つまり、もろもろ言い立てる人のためにあるのではなく、私の平安を、心から願ってくださる皆さんを安心させるためにあります。
このブログも。

鬼さんノートが途中です。
それなのに、この夏から、バセドウ病という病気になってしまいました。
更新など遅れがちですが、焦るまいとしています。

その一つ前の10年スパンでは、身内の長患いで、何もかもままならない時期もありました。
うまくいかないときに、いつも思うのは、そもそも、思いどおりにうまくいった試しなど、なかったということ。
そうこうするうちに、何事も、区切れるほどには、やり遂げていたのでした。

こんなときこそ、こころを高くして、乗り切りたいものです。







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読者歌壇、ご投稿の皆さんへ

2023-06-24 02:32:32 | 月鞠の会
皆さん、ありがとうございます。
角川「短歌」にて、7月号から9月号まで読者歌壇の選者をしています。
You Tubeには、投稿の心得をアップしました。
これは、編集部の意向ではなくあくまでも私論ですが、一般論でもあると思います。




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借り物の視点

2023-05-27 21:13:35 | 月鞠の会
You Tubeを更新しました。



この動画の始めは、鳥が縄張り争いをしていたような場面です。
この鳴き声の鳥は、ムクドリだと思います。





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