歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

大切なひとには

2023-05-27 02:24:07 | 月鞠の会

You Tubeを更新しました。
次に何を話そうとかまったく決めておらず、道を歩きながら、ふと思い出したことを録音しています。









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ついに字幕が。

2023-05-21 01:53:43 | 月鞠の会

ついに字幕がつきました。



動画にノイズが入ってしまうのは、たとえばノイズをミュートした状態でアップロードすれば、消せるのでしょうか。

課題がありすぎ、道険し。

ところで、角川から皆さんの投稿作品がドバッと届きました。
8月号ぶんです。
これで向こう2週間は、選歌に集中です。





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チャンネルうたのあかりに音声がつきました。

2023-05-19 01:56:40 | 月鞠の会
ユーチューバーとなって、1週間。ついに音声付き動画となりました。



まだ短歌朗読できていませんが、これで音声のつけ方がわかりました。
今後、7月下旬まで角川歌壇の選歌が中心となります。並行して、You Tubeを朗読の媒体として固めてしまうつもりです。
鬼さんノートは、8月頃から再開します。




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「短歌チャンネルうたのあかり」を開設しました。

2023-05-14 02:23:18 | 月鞠の会
短歌朗読、再開の布石を打ちました。
You Tubeにチャンネルを開設し、初めての動画を投稿しました。
画像の編集に手いっぱいで、まだ無声ですが、
媒体を確保しました。

https://youtu.be/uAiYDXD9fY0

そのうち、音声をつけることになります。
朗読の再開については、あきらめていたのに、よくそのつもりになれたものです。

鬼さんノートも忘れていません。
来週以降、また投稿作品が届くので、選歌にかかりきりになります。

合間を見て、朗読も執筆も進めていきます。
よろしくお願いします。




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声の記録

2023-05-12 23:41:35 | 月鞠の会
短歌の、朗読を中心としたチャンネルをYou Tubeに開設したいと考えています。
ロフトシネマという会社が、新宿ネイキッドロフトを中心とした私の舞台を撮ってくれて、DVD『聖夜――短歌朗読ライブ』を2008年にリリースしました。
それから『平家物語』をもとにした朗読劇を少しずつ小分けに書き下ろし、2年がかりで上演するなどしましたが、ちょっと疲れて中断していました。
ちなみに古典の朗読をしたのは、新宿ジャズバーサムライさんでした。

次の動画は、短歌と俳句の世界詩祭「東京ポエトリー・フェスティバル2008」で録画されたものです。
日本の代表詩人の一人として、映っているのは私です。



朗読されたテキストはこちら。

An Atom - 歌人・辰巳泰子の公式ブログ

An Atom - 歌人・辰巳泰子の公式ブログ

このノートは、去る11月2日、東京ポエトリーフェスティバル2008において朗読された、辰巳泰子のテキストとイベントの報告です。2008年11月7日記す。AnAtom原子byYasukoTats...

goo blog

 


そして次は、昨年夏、古典の勉強会で拙い発表(ほんとうに拙い)をさせていただいた折の動画です。




どちらも撮っていただいているものなので、朗読を再開するために、自分のチャンネルを持つつもりでいます。

「あぁ、朗読は自分事だ。やんなきゃ」と思ったきょうが、師匠、高瀬一誌さんの祥月命日だったと思い出しました。

お命日の終わりに駆け込みで、ブログを書いておりまする。
このままにはできない。

私は、私の愛を生きよう。




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近況と工事のお知らせ

2023-05-06 16:16:49 | 月鞠の会



最近、アクセスをいただく端末数が急に増えたので、アナウンスさせていただきますね。

角川「短歌」7~9月号の、読者歌壇の選者をします。もう動き始めています。

現在発売中の「短歌研究」5・6月合併号に、新作「愚直」を書いています。
パラパラとした日常の小品ですが、よろしければお読みください。

一つの主題でまとまった作品にするときは、百首歌として、主宰誌「月鞠」に発表しています。
国立国会図書館でバックナンバーを読めるでしょう。
このブログでも「百首歌」か「赤まんまの覚え歌」で検索をかければ、作品が読めます。

ところで、工事に入った記事「ホテルカリフォルニアを聴きながら」をいったん削除しました。
改題するかもしれませんが、この作品が「月鞠」21号に掲載されることに変わりはありません。
非公開で制作を継続するということです。

もともとここは、「月鞠」に発表する作品の、原稿置き場でした。
今もそうです。ここで書きながら、完成させています。
動きのないときは、つなぎに日常を書き留めていました。

なぜ公開しながら書くかというと、「月鞠」の制作体制は、私一人で、第三者の校閲校正がフローに存在しないからです。
この工程をカバーするために、「月鞠」の仕事については、公開しながら完成させるようにしています。

「ホテルカリフォルニアを聴きながら(仮題)」は、工事が終わったらTwitterでお知らせします。
またお気に入りに入れてくださいね。








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火事場

2023-04-29 15:36:02 | 月鞠の会
将棋のこと全くわかりません。でも、ふとしたきっかけで、将棋の雑誌を初めて手にとって、それから自分のなかで、勝手に久保利明という棋士を育てています。

その号は、藤井聡太の特集号でしたけれど、藤井の時代に居合わせる強豪たちの総集編でもありました。

天才で、勝負への執着の凄まじさで絶対王者だった羽生善治が、勝ち負けにこだわらないという新世代の藤井聡太に打ち負かされました。

久保利明は、最盛期の羽生に恐怖を覚えるまでに負かされています。久保は、羽生との勝負でズタズタになったメンタルを鍛えようと護摩行に及び、試行錯誤の果てに、あるとき肩の力が抜けて将棋と向き合えるようになったといいます。そして、新星として登場した藤井に勝ち、話題となりました。

ここまでが既読の記事の内容。ここからが私の思ったことです。

まず一つに、久保は紙。藤井は石。羽生は刃。紙は刃に刻まれましたが、石を包みこむことができました。紙は木、刃は金属でできています。石は、さしずめ大地でしょうか。木は土を抑え、金は土を抑え、土は金を産出します。ここに、陰陽五行のような自然物の循環があります。まるで天地自然の摂理であるかのごとく棋風が存在することに興味を覚え、このことは将棋の世界のみならず、人生の真実であるように思われました。

もう一つ。久保が、羽生に恐怖しても、打開の策として羽生に倣おうとはしなかったことにも興味を持ちました。

勝つために何をするか。そのとき選ぶ手段は、合理性をもって勝つことを追求するものでなければならないでしょう。しかし、久保の選んだ道はそうではなかった。反時代ともいえる精神修養でした。久保は、負かした相手を打ちのめすことではなく、地についた顔をあげるためにできる限りのことをしたのだと、私には思われました。

地についた顔をあげるためにできる限りのことをする。これはもともと、勝ち負けによって切り裂かれる性質のあり方ではなく、久保は、そうした自らの天分に気づいて「将棋をたのしめるようになった」のではないかなと、私は勝手に想像したのでした。

短歌もまた、コンピュータがそこそこの作品を合成する時代となりました。

私が現在、仕事にしている選歌は、AIに作らせた歌が投稿作品に混じっているかもしれない、その火事場なのです。

すなわち、将棋と短歌は、同じ課題に直面しています。

人の生き方には、その人なりのありようがあり、それが花であると思います。単に勝ち負けであれば、コンピュータに持っていかれる時代です。

コンピュータに、花はあるかということです。








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屋上遊園

2023-04-29 13:07:32 | 日常
国道沿いにしゃれた感じの建物ができていたのを、散歩してて見つけました。夜になると、植え込みのフットライトが妖しいの。建物には高級店も入っているけれど、回転寿司屋が入ってて、そこに行ってみました。回転寿司って、久しぶり。お醤油のミニボトルを持参しました。

感想は、特段美味しかったわけではないけれど、家族は食欲に火がついたようで、長患いをするあいだ、目にすることのなかった表情を見せてくれました。外食の、たのしかったことを思い出したと……。歳月が経ってしまって、ガシャポンで遊ぶ年齢でなくなりました。そして、店を出て、バルコニーから国道を見下ろしながら、いうんです。

「ここって、テーマパークに成り損ねたみたいな建物だよね。」

お店を出たところの、箱庭のようなこの感じ。昔のデパートみたい。昔、デパートの屋上は、小さな遊園地になっていました。ディズニーランドへ連れていってやれたりしないから、入園料のいらない屋上遊園で、よく遊んだなぁって。

また行くかといえば、もう行かないんだけれど、懐かしいものの佇まいに、言葉がひっこんでしまいました。

バルコニーからの眺めは、殺風景な国道沿いだけれど、多摩川を越えて山を越えたら、この人を産んだ町です。実のお父さん……小紋さんと三人で何年か暮らして、それから、育てのお父さんとこの町で何年か暮らして、また、この人と二人になりました。

いつも私ひとり、わるものになってきたんだけれど、そんなことどうでもいいと思うぐらい、夢のように過ぎました。

そもそも暮らせる場所のあったことが、夢のようでした。

人生は、どうしてもさようならできなかったものが、手許に残るだけなのかもしれません。







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梨の精

2023-03-31 21:22:58 | 月鞠の会
近隣の農園にお許しをいただいて、梨の花を見学させていただきました。
私は約束を守ったのです。
そして、その匂いを嗅いで、『枕草子』に、吉川英治『三国志』に、古代中国のすぐれた詩文に通電しました。

花どきの梨の林には、いささかの殺気が漂います。
それは、私が、その果実をリキュールに漬けたときに、お産の折に嗅いだ羊水の匂いを想起したことと重なります。
それは、いのちの瀬戸際なのです。
梨の木に流れているのは、にんげんのそれのように淋巴液なのです。



曹植よ!
私は梨の精になりたい。
剣をもってわが身を抉った曹操孟徳を、祟り殺した、その梨の木になりたい。
梨の花には、殺気がある。
権力の後ろだてなくしては成立しなかった後宮の文学に賞用されずとも、私はかまわない。

農園の梨は、江戸時代からこちら、無理やり梨棚に作られてしまうけれど、梨は本来、高木なのです。

そして、古代中国の詩人は、梨の、微かに殺気を醸すその花の香りが高殿まで届くのを、気高いと感じたのでした。




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鬼さんノートその10

2023-03-15 12:07:06 | 月鞠の会
太陽光の横領事件について言えば、もろもろこうなってしまっているからには、非常に現代的な鬼さん事案なのですが、ここに、古代から中世にかけての「鬼」の逸話に扱われないファクターが、一つあります。それは、巨悪とも呼ぶべきこの種の犯罪の事案が貨幣をめぐる事案だということです。現物をまのあたりにしない数字上の取引、あらゆるものと交換可能な貨幣の抽象性。これこそ、現代的に特徴的なファクターではないか。

古代や中古の「鬼」の逸話に、このような、抽象的な貨幣をめぐる犯行は見当たるはずもありません。その一方で、「舌切雀」に見られるような、具体的な物欲を戒める説話は至るところにあります。ですので、貨幣をめぐると言わず、物欲と表現すれば、古代中古の逸話からでも、ある程度、現代のそれに比定できる素材を引き出せるのではないかと思いもするのですが……。

まず、物欲の線で、似た逸話に当たろうとしても、多分、富貴をめがけた鬼の話は、一つも見当たらないのではないか。「舌切雀」は、鬼の話ではなかったし、『日本霊異記』には、上昇志向と物欲が過ぎて、鬼に喰われる女の話があります。つまり、富貴に目が眩むのは、断然、鬼にやられるほうなのではないか。説話の「鬼」は、しばしば強盗殺人を犯しますが、私の、子ども時代の記憶の限り、富貴を求めてそうするのではありませんでした。金持ちの娘をさらって、逸脱自体を欲望し、反逆のためにそうするのでした。物欲は、鬼に喰われる側の、はかない人間だけがもったのではないか。なぜなら、古代の「鬼」は、霊性をもち、生命の超越者であったから。

馬場あき子『鬼の研究』を踏まえるとするならば、「鬼」とは、逸脱者であり、異端者であり、超越者であります。

この定義を、なかでも「超越者」である要件を、ゆるぎないものと捉えるならば、それは具体を凌駕して、オニ、カミと同様の抽象性をもつものでなければなりません。

現代の「鬼」もまた、人間や生命を超越した存在ではないか。人間がそれによって踊らされることはあっても、欲得から引き起こされる事件は、いずれも極端な逸脱であり、何ひとつ超越などしてはいません。カネをめぐる事件は、どこまでいっても人間のしわざの延長であり、ひたすら極端な逸脱でしかないのです。では、いったい、何が現代の、「鬼」なのでしょう。

私は、戦争……有事というデバイスが、現代の「鬼」の正体だと思うのです。
デバイスは、生命を超越しています。

有事という装置、戦争、枯渇や飢餓、パンデミック、大災害、破滅的な不況といった状況をデバイス……装置に見立てたとき、現代の「鬼」は、輪郭をもって見えてきます。そこに、武器と貨幣を注ぐことで、「鬼」なるもののしわざに仕上がるのです。

今が有事であるという「鬼」は、超越者として、欲得の人に取り憑くのです。そのもとは、生命などもたない、抽象の装置なのです。そして、恐ろしいことがつぎつぎと起こるのではないでしょうか。

古代の「鬼」はこのようにして、一見霊性を排除しながら、超越者として、抽象性を保ちつつ現代に生き残っているのです。

現時点、このように仮設しておきます。





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