歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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『新古今和歌集』――恋の正体 六,跋文

2022-01-07 02:07:31 | 月鞠の会
六 俊成と定家――歌のしらべと双方向性

最終の章では、俊成と定家の美意識の違いや、俊成が息子の定家へ伝えようとしたことは何かを見ていきます。第二章で述べたように、俊成は、和歌は必ず声に出して詠みあげるものだと説きました。『新古今和歌集』の編纂に携わった定家は、父俊成が編纂に携わった『千載和歌集』の助手を務めたといわれています。定家は、和歌のしらべについて、俊成の教えをどのように受け止めていたのでしょうか。そこで、それぞれの選歌に政治的干渉のない年代の作者で、佳作が多く多作の同一作者の歌に絞り込み、和歌のしらべについて、『千載集』と『新古今集』のしらべにおける、好むところの違いを調べてみます。ここでは、和泉式部の歌を、その例に取り上げます。

(1) 歌のしらべ

まず、和泉式部は、『千載集』から見ても『新古今集』から見ても二百年ばかり昔、『源氏物語』とほぼ同時代。恋愛遍歴において数々の伝説を残していますが、勅撰集への入集の多い歌人として有名であり、秀歌としての普遍性から見ても、和歌千年の歴史上、最高の歌人です。その歌は、最多入集の『後拾遺和歌集』では六七首中、「恋」二二首。『千載和歌集』では二十首中、「恋歌」八首。『新古今和歌集』では二五首中、「恋歌」六首。この数字から、和泉式部は恋の部ばかりでなく、その他の部にも秀歌が多いとわかります。
ここでは、しらべのみに着眼したく思うので、恋・哀傷・述懐といった私小説性とひもづかない、季節や自然を詠んだ歌にさらに絞り込んで、『千載集』と『新古今集』の好むところの違いを見ていくとしましょう。

●『千載和歌集』22・33・206・247番

梅が香におどろかれつつ春の夜のやみこそ人はあくがらしけれ
UEAAI/OOOAEUU/AUOOO/AIOOIOA/AUAAIEE
つれづれとふるはなみだの雨なるを春の物とやひとの見ゆらむ
UEUEO/UUAAIAO/AEAUO/AUOOOOA/IOOIUAU
見るがなほこの世の物とおぼえぬはからなでしこの花にぞ有りける
IUAAO/OOOOOOO/OOEUA/AAAEIOO/AAIOAIEU
人もがな見せも聞かせも萩の花さく夕かげのひぐらしの声
IOOAA/IEOIAEO/AIOAA/AUUUAEO/IUAIOOE

●『新古今和歌集』370・408・583・624番

秋くれば常磐の山の松風もうつるばかりに身にぞしみける
AIUEA/OIAOAAO/AUAEO/UUUAAII/IIOIIEU
たのめたる人はなけれど秋の夜は月見で寝べきここちこそせね
AOEAU/IOAAEEO/AIOOA/UIIEUEI/OOIOOUE
世の中になほもふるかなしぐれつつ雲間の月のいでやと思へば
OOAAI/AOOUUAA/IUEUU/UOAOUIO/IEAOOOEA
野べ見れば尾花がもとの思ひ草枯れゆく冬になりぞしにける
OEIEA/OAAAOOO/OOIUA/AEUUUUI/AIOIIEU

それぞれの和歌の母音の連鎖を、アルファベットで示しました。ここで、句がA音で始まる、もしくはA音で切れるところ、AA音、UA音、OA音と続くところを「ハレ音節」と呼ぶことにします。そして、ハレ音節は発声しやすく、しらべを明るく整える働きがあるといったん定義します。
『千載集』の選歌と『新古今集』の選歌は、それぞれに俊成と定家の好みからでしょうか。前者では、ハレ音節が一首全体にゆきわたっていますが、後者では、下句へいくほどハレ音節が少なくなっていきます。またそれに、I音とE音の連続するところが多く、暗い感じがします。
これは音節だけの比較で、和歌を味わうときにはもちろん、意味も併せて味わいますから、しらべだけをもって、歌のよしあしをいえません。しかし、『千載集』と『新古今集』とのあいだに、しらべにおける、おそらくは撰者による好みの違いを見てとれるのではないでしょうか。
俊成は、和歌は声に出して詠みあげるべきものとする、その考えのとおりに、声に出して味わいやすい調べの歌を『千載集』に選んでいます。そして、定家が実務の中心となって編纂された『新古今集』では、定家が俊成の美意識を知りつつも、歌のしらべにおいては、また違った美意識でとらえていたことがうかがわれます。検証はまだ途上ですが、私は、定家は訥々としたしらべを好んだと仮設しており、『定家十体』鬼拉の体における万葉調の歌の多さにも、それがうかがわれると踏んでいます。

(2) 双方向性

俊成は、判者を務めた1192年の『六百番歌合』の次のような番において、定家を負けとしました。息子の定家の歌を負けとした番に、歌の家、御子左家の跡取りである定家に、歌人として引き継いでもらいたい本意、本望を見られると考えました。このうち、秋下の十六番の判詞に、双方向性についての言及があります。

●秋下―十六番 (九月九日)
左  定家朝臣
祝ひ置きてなほ長月と契るかな今日摘む菊の末の白露
右 勝 隆信朝臣
君が経ん代を長月のかざしとて今日折り得たる白菊の花
判じて云はく、左の歌、姿詞は優なるべし。右の歌、「今日折り得たる」などいふ秀句は、事古りて庶幾すべからずは侍れど、左は、ただ我が契れる歌なり。右は、君を祝ひて侍れば、勝と定め申し侍るべし。

〈判の大意〉左の歌は、言葉遣いが優雅でいいですね。右の歌は、「折り得たる」などの掛詞のある秀句は、言い古されてわざわざすべきものでもありませんが、左は、ただ自分がお祈りしている歌でしょう。しかし右は、相手をお祝いしている歌ですので、右の勝ち。

「九月一日」は、成人した女性の健康長寿を祝い、祈願する長陽の節句です。左歌は、措辞が優雅でも、自然物とのみ向き合っており、お祝いされる相手の女性の様子が見えてきません。判者が勝ちとした右歌からは、花かんざしを髪にあしらった女性の笑顔が見えてくるようです。つまり、ひととひととの間に、双方向性があります。社会性といってもよいでしょう。
定家には、みずから作り出した言語美の世界に、閉じこもってしまうようなところがあったのかもしれません。自己の内面や自然物とのみ向き合うのではなく、伝えることを重んじてほしいと、俊成は、願ったのではないでしょうか。美しいものは、ただそれだけを描くことで自己完結してはならないことを、外界へ向けて、時と場所を超え、ひきつづき開かれていることを、俊成は、伝えたかったのではないでしょうか。
他の、定家を負けとした他の判も、見ていきましょう。

●秋中―二番(秋雨)
左  定家朝臣
行方無き秋の思ひぞせかれぬる村雨なびく雲の遠方(をちかた)
右 勝 信定
日に添へて秋の涼しさ集ふなり時雨はまだし夕暮の雨
判じて云はく、左、「雲の遠方」、聞きにくきよし、右の方人申すと云云、さも侍らん。およそ、おのおのの方人の申す旨、存じ申すところとは、常は依違し侍れば、強ひて訓尺し申しあたはざる者なり。「時雨はまだし」も宜しくこそ侍るめれ。歌には、「いまだ」とやは詠み侍る。「まだしき程の声をきかばや」とこそは、古今にも侍るめれ。右の歌の下の句、殊にをかし。右を以て勝ちとすべし。

〈判の大意〉左は「雲の遠方」に、右は「まだし」の部分に、相手の陣営からそれぞれ批難がありますが、取り立てるほどのことでもないでしょう。歌の言い回しとしては、「まだし」ではなく「いまだ」とすべきところですが、「まだしき」という用例が、古歌にございますね。右歌の下の句が特にいいです。右の勝ち。

●恋三―四番 (顕恋)
左  定家朝臣
よしさらば今は忍ばで恋死なん思ふに負けし名にだにも立て
右 勝 中宮権大夫
君恋ふと人には知れぬいかにして逢はぬ憂き名を今は包まん
判じて云はく、左の歌、まことに心ゆきも侍らぬにや。右の歌、「知れぬ」、古めかしくは侍れど、又、古き詞のこるも宜しき事に侍るにや。「知れぬ」を勝つと申すべし。

〈判の大意〉左の歌は、本当に納得がいきませんね。右の歌は、「しれぬ」が古めかしいけれど、言い古された表現があっても、まあ別にわるくもないでしょう。右の勝ち。

秋中―二番の左、俊成は右歌を勝ちとする根拠を、内容の面からも修辞の面からも述べてはいません。すると、この左右の判詞は、やはり、しらべにおいて右がまさっていたからではないでしょうか。
恋三―四番の題「顕恋」は、世間に知られてしまった恋。俊成は、左の歌は、世間の噂になってからひらきなおるというのは納得がいかず、評価する気になれないと述べ、左の歌がまったく良くないため、右の歌が勝ちとなった次第です。定家としてみれば、世間の目を顧みる恋など、純粋さを欠くとして否定したかったのかもしれませんが、この番もやはり、しらべにおいて、右歌のほうが格段に明るいのです。



跋文

恋とともに政争の内実をも描いた『源氏物語』の時代を経て、『新古今和歌集』の時代には、恋よりも大きな主題として、無常がありました。そして「新古今」調の胎動した時代は、武士が貴族を監視するまでに政権の逆転した、貴族にとっては非常に厳しい時代でした。じつは、俊成も、『新古今和歌集』の代表的歌人の一人、西行も、平清盛と同世代の人でした。俊成もまた、この激動期を生き抜いて、太平洋戦争になぞらえれば、定家は、戦中生まれの戦後派といったところでしょうか。
さきの章で、「毎月抄」における和歌の要諦は、つづまるところ精神論だと書きました。私は、この稿を書きながらつまらないことを考えていて、精神論を肯定しきっていいのか、第二次世界大戦の、人類初の核兵器による犠牲を強いた一九四五年の出来事、太平洋戦争という未曽有の暗黒史を招いたものが、現在の国体の前身である大日本帝国の忠君愛国思想、あれこそまさに、精神論ではなかったか……。
ですが、その暗黒の精神論のうちに、十九歳の定家が『明月記』に記したこの言が、ぽっと灯るように感じられてしまうのです。
「紅旗征戎吾が事にあらず」
藤本孝一著『本を千年つたえる』によりますと、俊成から和歌についての教えを受けた定家は、嫡男の為家にこれを伝授します。為家は、阿仏尼と恋に落ち、阿仏尼を側室に迎え、そのあいだに為相が生まれました。そうして、ここからがすったもんだで、為家の三人の子のそれぞれの家系が、めいめいに和歌の正統を唱えて、現代まで遺されたのが冷泉家のご文庫であったとか。
知財や領地、恋をめぐり、どの時代の歌人も、自ら業を作り、厄介事に巻き込まれながら生きたということでしょう。すると今度は、『源氏物語』、「須磨」のこの文言が、ぽっと灯るようです。
「心の行く方は同じこと。何かことなる」
やはり、生きるって、綺麗事ではなかったのです。
定家はまた、住吉神社で和歌の神様からお告げを受けたとして、『毎月抄』にこの文言を記しています。
「汝、月明らかなり」
――おまえのうえに、月が照り輝いているよ。
「心」は、すべての体になければならない。定家がこのようにいうのは、歌に心があるとき、その歌は、暗夜を照らす月のように、ゆく道を照らすものとなるからではないでしょうか。歌のもととなるこころを、月のようによくよく澄ましているとき、歌のなかにも、こころが生まれるのでしょう。私の歌もまた、暗夜を照らす月のようなものでありますように。

本稿をしたためるにあたり、参考にさせていただいた典籍の著者、訳者、校注者の皆様に深く敬意を表します。

二〇二二年(令和四年)五月吉日

《参考資料》
・「なかにし礼 終戦記念日インタビュー 国に棄てられて」2017年8月14日 東京新聞チャンネル(YouTube)
・「国宝『明月記』と藤原定家の世界」藤本孝一著(臨川書店)
・「本を千年つたえる 冷泉家叢書の文化史」藤本孝一著(朝日新聞出版)
・『妖艶 定家の美』石田吉貞著(塙書房)
・新潮日本古典集成『新古今和歌集』校注…久保田淳(新潮社)
・新潮日本古典集成『古今和歌集』校注…奥村恆哉(新潮社)
・新編日本古典文学全集『歌論集』(小学館)
「古来風躰抄」校注・訳…有吉保、
「近代秀歌」「詠歌大概」「毎月抄」校注・訳…藤平春男
・新編日本古典文学全集『竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』(小学館)
「伊勢物語」校注・訳…福井貞助
「大和物語」校注・訳…高橋正治
・新編日本古典文学全集『源氏物語』校注・訳…阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男(小学館)
・新日本古典文学大系『千載和歌集』校注…片野達郎、松野陽一(岩波書店)
・新編日本古典文学全集『平家物語』校注・訳…市古貞次(小学館)
・鴨長明『無名抄』訳注…久保田淳(角川ソフィア文庫)
・『定家明月記私抄』堀田善衛(ちくま学芸文庫)


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『新古今和歌集』――恋の正体 五

2022-01-07 01:56:06 | 月鞠の会
五 恋の正体――余情、妖艶、有心

ここでは、「余情」「妖艶」「有心」について、これらの言葉を第三章で鑑賞に用いた根拠をまとめます。
第二章にも掲げましたが、定家は、『近代秀歌』において、『古今集』仮名序の作者の美意識に「余情妖艶」はないと、次のように言い切っています。

昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず。(日本古典文学全集『歌論集』「近代秀歌」)

「余情」と「妖艶」は、それぞれにどのようなものでしょう。
本稿の第三章では、『古今集』にないもので『新古今集』にあるものを、順次、「恋歌」の部に見ていきました。そうすることで、「余情妖艶」の意味に迫ることができると考えたからでした。すると、『古今集』が恋愛の進展に特化された内容であるのに対し、『新古今集』では、生身の現実より不滅の精神愛をはるかに重視することがわかりました。ですので、「余情妖艶」とは精神美をいうのだろうと理解しました。
そして『古今集』では、逢瀬の実現、結婚がゴールの現実的な価値観が明白でしたが、『新古今集』では、すべての恋は滅びの定めにあり、また恋でなく自然物であっても、生命であっても、いつかは滅びるものの美を描いていました。ここから私は、滅びの定めにあるもの、その美が「妖艶」であろうと考え、「妖艶」を描くことに成功した歌を「幽玄体」と呼ぶのだろうと考え、「余情」とは、滅びののちにも残る精神の不滅の哲学だと考えました。
第三章で、『古今集』「恋歌」の部は、「よしや世の中」と、晴れがましく明快に終わっていきますが、『新古今集』「恋歌」の部には、恋の想いを残してたゆたい、湊へ戻れなくなった舟人が描かれていることから見ても、「余情」について、このようにとらえてよいであろうと書きました。
次に、「有心」について、述べます。
石田吉貞氏が、『妖艶 定家の美』「美の諸相―死―」(塙書房)において、妖艶と有心を同一の意とする説について、次のように考察しています。

「『近代秀歌』で定家は、他の歌風を斥けて余情妖艶の風をとり、『毎月抄』では、有心にまさる風はないとしているのであるから、妖艶と有心とが、共に定家の最高とする風体であること、両者を同一のものであるとすることは、歌論上からは疑いを容れないことである。ところがその妖艶・有心同一説は、歌論書の上では肯定されるけれども、それを実証づけるものが何もない。何もないだけでなく、唯一の証拠とすべきものとして、『定家十体』のなかに有心体の例歌が四〇首ほどあるのであるが、その例歌は地味で花やかさがなく、妖艶・有心同一説を否定する証拠にはなるけれど、肯定する証拠には、いかにしてもなりえないものである。」
「妖艶というのは美の名で、したがって総名のようなもので、それを表現の姿によって分けたのが、幽玄とか有心とかいうものではないか。(中略)すなわち妖艶が分れて種々の体になるのであって、もっとも花やかなのが幽玄体、もっとも心の深いのが有心体なのではないか。」
「有心は心の深い体だと『毎月抄』でいっているのに、妖艶の深いところに何があるかを考えなかったことにあったのではないか。妖艶の深いところには死・無常などがあるはずである。」

石田氏は、妖艶と有心の分類階層について考察し、定家が美をどのようにとらえていたのかに迫りました。しかしそもそも、『定家十体』は、完成を見ていたのでしょうか。私は、『定家十体』の構想が、そうやすやすと一つ一つの和歌にあてはまるはずがないと考えています。定家の著作である『近代秀歌』と『詠歌大概』においても、異同について見ていけば、たとえば式子内親王の歌は『近代秀歌』に挙げられておらず、後年の『詠歌大概』に二首が挙げられています。歌のよしあしは、批評者その人の内部においてさえ、そのときどきで、がらりと変わってしまうものです。
分類の構想は、そもそも、品詞分類表のように明確に図式化できる項目の区別がなければ成立しません。後述しますが、「有心」体について、そのような客観的な要件を、定家が持っていたとは考えにくいのです。
「有心」の体について、さらに、『毎月抄』の文言に沿って見ていきましょう。「毎月抄」は、定家が、身分の高い初心者が送ってきた詠草に返信した実作指導の書簡です。定家は、この『毎月抄』に、歌のさまざまな体を挙げ、そのなかでも「有心体」の歌こそが歌の本意であると、次のように述べています。

もとの姿と申し候は、勘へ申し候ひし十躰の中の幽玄躰、事可然(ことしかるべき)躰、麗(うるはしき)躰、有心(うしん)躰、これらの四つにて候べし。…ただ素直にやさしき姿をまづ自在にあそばししたためて後は、長高(たけたかき)躰、見(みる)躰、面白(おもしろき)躰、有一節(ひとふしある)躰、濃(こまやかなる)躰などやうの躰はいとやすき事にて候。鬼拉(きらつ)の躰ぞたやすくまなびおほせ難う候なる。それも練磨の後はなどかよまれ侍らざらむ。

〈大意〉基本的な和歌の様式は、私が考えました十体の中の、幽玄体、事可然体、麗体、有心体これらの四つです。…素直で優美な様式を自在に詠めるようになれば、長高体、見体、面白体、有一節体、濃体などの様式で詠むのはたやすいことです。鬼拉の体は、簡単に身に付けられませんが、修練すれば詠めないことはないでしょう。

さても、この十躰の中に、いずれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。…よくよく心を澄まして、その一境に入りふしてこそ稀によまるる事は侍れ。されば、宜しき歌と申し候は、歌毎に心の深きのみぞ申しためる。…ただし、すべてこの躰のよまれぬ時の侍るなり。朦気さして心底みだりがはしきをりは、いかによまむと案ずれども有心躰出で来ず。…さらむ時は、まづ景気の歌とて、姿・詞のそそめきたるが、何となく心はなけれども歌ざまの宜しく聞ゆるやうをよむべきにて候。…かかる歌だにも四、五首、十首よみ侍りぬれば、蒙昧も散じて、性機もうるはしくなりて、本躰をよまるる事にて候。また、恋・述懐などやうの題を得ては、ひとへにただ有心の躰をのみよむべしとおぼえて候。

〈大意〉さて、この十体の中で、これこそが和歌だというのは有心体です。…よくよく心を澄まして、有心体が詠めるような境地に入ってこそ、稀に詠むことができます。ですので、よい歌とは、心の深い境地に入った歌をいうのです。…ただし、有心体のまったく詠めないときもあります。うつ状態になって塞ぎこんでしまい、心がすっかり乱れているときは、どうしたって有心体にはなりません。…そんなときは、まず叙景歌として、表現にちょっと目を引くところがあって、心があるというわけではないけれども、格好はついているという様子の歌を詠むのが妥当です。…そんな歌でも、四、五首、十首と詠むうちに、気の塞ぎがなくなり、機嫌もよくなって、有心体が詠めるというものです。また、恋・述懐などの題で詠むときには、他の体で詠もうとはせずに、ひたすら有心の体で詠むのがよいと思います。

さても、この有心躰は余の九躰にわたりて侍るべし。その故は、幽玄にも心あるべし、長高にもまた侍るべし。残りの躰にもまたかくの如し。
げにげにいづれの躰にも、実(まこと)は心なき躰はわろきにて候。
いづれの躰にても、ただ有心の躰を存ずべきにて候。

〈大意〉さて、この有心体は、他の九体にも含まれるものです。なぜなら、幽玄体にも心はあるべきですし、長高体にもです。残りの体も同様です。…まったくどの様式で和歌を詠むにつけても、本当には心がないというのでは、よくない歌なのです。…どの様式で歌を詠むにしても、ただ、心があるということ、有心の体でなければならないのです。

特筆すべきは、この実作論は、作者の立場で、その主観で、エチュードについて述べられているということです。詠んだ歌が読者にとってどの体になっているかという結果論ではありません。少なくとも「ひとへにただ有心の体をのみよむべし」とは、作品という結果を受けて選者や判者が思うことではありません。詠み手が、ただ、わが心のなかで思うことであり、「有心」の体をめがけたかどうか、作者本人にしかわからないのです。ですので、有心かどうかを要件化することなど、できないと思われます。言い換えれば、定家が示した「有心体」とは、完全な精神論でした。精神論は、結果から客観的に要件化できない性質のものです。このことはつまり、有心の体かそうでないかを、客観的に検証できないことを示しています。
定家は、「心がある」歌は、よくよく心を澄ました状態で得られるものであり、心が乱れているときにはその境地に到達できないとし、仮に心がなくとも、格好つけの叙景歌をつづけて詠むうちに、心が澄み切って、そのうち心のある歌が得られるとも述べています。そして、心のない歌は、どの様式で詠まれていようとダメな歌だと断罪しています。やはり、「有心体」は、他の体とは分類の構想が違うのです。他の体が、受け手にとっての美に基づき構想されているとしても、「有心体」の構想は、作者にしかわからない、作り手の精神の状態を基盤に構想されているのです。
そして、作者の心が入った歌、「有心」の歌のなかで、「妖艶」の美の表現に成功した文体を「幽玄体」と呼ぶのではないでしょうか。であるならば、「妖艶」でない「有心」は存在します。そして「余情」とは、滅びる定めの物質の外界に対して、滅びようのない精神の表現であり、物質世界の滅びの美である「妖艶」と、精神世界の不滅の美である「余情」とは、確かに、「余情妖艶」の美学・美意識として一体化し、まとまった体系をとり得ます。
「有心」は実作態度。「妖艶」は美。「妖艶」の表現に成功した体を「幽玄体」と呼ぶ。そして「余情」は、現世肯定の一元的な価値観に対するアンチテーゼ、精神不滅の哲学でもあると結論しておきます。

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『新古今和歌集』――恋の正体 四

2022-01-07 01:54:46 | 月鞠の会
四 恋の正体――叙景に隠されたもう一つの主題

これまでに、『新古今和歌集』における「恋歌一」のエンディングが海辺の叙景であったこと、「恋歌二」でも海辺の叙景歌が続けられていること、これらの叙景歌が、有意に強い印象を与えること、「恋歌五」のエンディングも海辺の叙景であったことなどを述べました。
ここでは、叙景の伝統的手法と比較しながら、歌枕となった『源氏物語』「須磨」での海人の描写にも注目しながら、そうした印象深い海辺の叙景について取り上げたく思います。また俊成自賛歌における実景描写にも触れてまいります。

(1) 叙景の伝統的手法

まず、叙景について、和歌文学の伝統的な叙景の手法を見るために、『古今集』「哀傷歌」から、次のような歌を挙げておきましょう。

832上野岑雄
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
深草の野辺の桜よ、もし心があるならば、今年だけは墨の色にお咲きなさい。あの人の喪に服してほしいのです。

853御春有助
きみが植ゑしひとむら薄(すすき)虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな
 あなたがご生前に植えたひとむらの薄にたくさん虫が棲みついて、今では虫の音の盛んに聴かれる野辺となってしまいましたよ。

哀傷歌とは、亡くなった人を悼む歌です。832番は、満開に咲き誇る花霞のなかにくっきりと、一本のモノクロームの桜が見えるようです。これは、実景のなかの幻視の桜です。853番は、虫たちが亡くなった人を悼んで、音楽会を開いているようだというのです。ともに擬人化に徹しています。
『古今集』の叙景歌は、このように、自然にもこころがあるとして、自然のこころと人間のこころが一つになるさまを描いたものが中心です。大岡信氏が『日本の詩歌』(岩波文庫)において、「叙景と抒情の一体化時代は、古くは七世紀ごろの和歌以来大いにさかえ、十二世紀末までの平安時代を通じて、衰えることがありませんでした」と述べ、このことは、第二章で挙げた、奥村恆哉氏『古今和歌集』(新潮日本古典集成)解説中の、貫之による「ほとんど自覚的な日本化操作」「神話的な古い日本の、日本人が元来持っていた人間主義」と一致します。

(2) 定家の実景描写の特徴

定家は、叙景について、どのようなことを意識していたでしょうか。大岡氏が述べるように、『新古今集』の時代は十二世紀後半。客観的な叙景が成立する境目の時代でした。そこでの自然物の描写が、「恋歌」の部においても優れていたことは前述しました。定家の自然物への着眼のするどさについては、石田吉貞氏が『妖艶 定家の美』(塙書房)の冒頭に「梅の花にほひをうつすそでの上にのきもる月のかげぞあらそふ」(「正治御百首」)をひき、次のように述べます。

「藤原定家が十九歳の春、妖艶の美をはじめて把握したと思われる夜の情景は……まさにこの歌そのままであった」
「定家はどうしてこのような、新鮮な、いまのわれわれの心にもしみる写実の歌が詠めるか」

堀田善衛氏も、『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫)において、『明月記』の叙景について次のように記します。

「繰りかえす。この退屈な日記を彩っている色彩に目を開いてほしいのである」

『明月記』は、先に述べたように後に家の故実書、公式文書となる性格を持っており、和歌と違って、抒情が目的ではありません。しかしながら、定家の叙景が五感に訴えるものであることに、堀田氏は驚嘆しています。
定家は、実景の切り取り方について、非常に自覚的であったと私は見ています。堀田氏は、同著において貴族の装束の色彩感が際立つことを指摘しますが、装束の色彩は、身分やTPOなどを示す属性があり、同時代の『平家物語』でも同様に、装束の色彩が描写されます。つまり、装束の色彩を取り上げることはお決まりの流れであって、定家の工夫ではないはずなのです。それなのになぜ、『明月記』の色彩感が、かくも鮮烈に感じられるのでしょうか。このことを、私は次のように考えました。
『明月記』に特徴的なのは、天文の描写です。天文は、具注歴を反映して日記に記されますが、定家が、『明月記』において彗星を観測していたらしいことは著名なエピソードです。定家は、自身の興味としてもその日の天文に気づきがあって、その気づきを効果的な文脈で描写することで、対象に光線を当て、陰影を持たせました。定家は歌人であり、三十一文字で実景を鮮烈に再現することができるのですから、散文においても自然に、そのように言葉が繰り出されていたと考えられます。

(3)『源氏物語』「須磨」における海人の描写

『新古今集』における海辺の叙景歌に、『源氏物語』「須磨」が意識されていることを、押さえておかねばなりません。そこで、光源氏と海人との次のような交流の描写に注目します。

海人ども漁りして、貝つ物持て参れるを召し出でて御覧ず。浦に年経るさまなど問はせたまふに、さまざま安げなき身の愁へを申す。そこはかとなくさへづるも、心の行く方は同じこと。何かことなるとあはれに見たまふ。御衣どもなどかづけさせたまふを、生けるかひありと思へり。
(『源氏物語』「須磨」)

〈大意〉漁師たちが漁をして、貝などを届けに源氏の在所へ寄ったので、源氏は、漁師たちを近くへ呼んでその姿をご覧になった。漁師たちは、さまざまに生活の不安などをとりとめもなくしゃべる。源氏は、「心で思うことは、同じなのだな。生きるのはやはり、誰にとっても大変なことだ」としみじみと哀切にお感じになる。漁師たちに衣服などを取らせると、漁師たちは、生きていてよかったと感じ入った。

中古の時代、上流貴族と庶民との接点を、このように直接に描写したものは多くありません。ほぼ同時代の『枕草子』第83段にも、「尼なる乞食」が内裏に入り込んでき、清少納言が衣服を与える様子などが描かれていますが、やはり珍しいことです。
中古から中世にかけて、海浜の採集生活に、貴族階級の人々はどのようなことを感じていたのでしょうか。見るべきところは、「心の行方は同じこと。何かことなる」のくだりでしょう。「須磨」のこのような記述を踏まえて、いま一度、海辺における叙景歌という観点から、『新古今集』の「恋歌」を見ていきます。

1080在原業平朝臣(再掲)
みるめ刈るかたやいづくぞ竿さしてわれにをしへよ海人の釣舟

純粋に叙景歌として秀逸です。「竿」を操る漁師の腕は太々として、たくましい体つきが見えるようです。この歌が詠まれたのは『新古今集』よりもっと前、むしろ『古今集』の時代ですが、とても写実的です。『古今集』もその以降も採らなかった歌として発掘されたのは、この写実性にスポットライトが当たったのでしょうか。

1082藤原定家朝臣(再掲)
なびかじな海人の藻塩火たきそめて煙は空にくゆりわぶとも

海水を炊いて塩を採集するときは、まず火起こしをしなければなりません。湿った風の強く吹く海辺で、そうやすやすと火が起こるとは思われません。思うようにならない恋心が託されていますが、この歌も、採集生活の苦渋、暮らし向きの不安をそのまま描いた歌としても受け取れます。

1117藤原定家朝臣(再掲)
須磨の海人の袖に吹きこす潮風のなるとはすれど手にもたまらず

なれない者が、ましてや雅の世界にいた者が、ふいに海辺で閑居を始めると、塩気を含んだ風にやられてしまいます。虚構の人物、光源氏がそうであったように、須磨の秋風と夜通し聴こえる波音に、心がまいってしまうのです。あの風は、手にたまりもしないのに、袖をべたつかせごわごわとさせるのです。ここでは恋の憔悴として描かれていますが、「潮風」を事物として描いた歌としても、そのものの本質を表しています。

1332藤原定家朝臣
尋ね見るつらき心の奥の海よしほひの潟のいふかひもなし
どんなに探してみても、あの人の心は、どこにもない。私のほうなど向いていない。海人が貝を探してどこにも見つからないように、何をいう甲斐もない。

この歌は、恋歌として見た場合、このような意味となりますが、「伊勢島や潮干の潟にあさりてもいふかひなきはわが身なりけり」(『源氏物語』「須磨」)からの本歌取りであることがはっきりしています。だとすると、やはり、「心の行方は同じこと。何か異なる」が重なってきます。じつはこの歌は、しらべがあまりよくありません。響きがくぐもり訥々として、優雅さがないのです。しらべについては、この歌のもう一つの本歌、『新古今集』「雑歌下」にある次の歌と比べると、よくわかるでしょう。

1714和泉式部
潮のまによもの浦々尋ぬれどいまはわが身のいふかひもなし
 引き潮のあいだにあちこちの浦を探し回るのですが、これといった貝は見当たりません。同じように、私も、今となっては何を言っても仕方のない身です。

1714番は、口に出したときに滑らかで、どこか明るい感じに整っています。1332番は、まだしらべということが意識されない時代の民謡のようで、あたかも海人そのものの歌であるかのようです。ここに取り上げた1714番以外の歌の、「海人」と作者のあいだには、あくまでも比喩であるなどして、距離感がありますが、1332番では、「海人」と作者がまったく同一であるかのようなのです。
そこで私は、はっとしました。『源氏物語』に「心の行方は同じこと。何か異なる」とあるように、定家が「海人」そのひととなって、あたかも近現代の手法でもって、「海人」に「実相観入」(対象に深く没入することを示した斎藤茂吉の造語)することで、このような歌が得られたのかもしれないと。定家が、恋の歌の究極を求めるあまりに、生活に手いっぱいで、生活の糧を得ることしか考えられなくなっている海人の心に近づき、ついには思わずなりきってこのように詠んだとしたら、この歌は、有心の体といえるように思いました。

1433読人しらず(再掲)
白波は立ちさわぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ
1434読人しらず(再掲)
さしてゆくかたは湊の波高みうらみてかへる海人の釣舟

「恋歌」の部の最後を飾る二首を再掲しました。「恋歌五」の鑑賞文に書いたように、湊に漕ぎつけることができなくなった平氏の軍が、私には、想起されてなりません。
なぜ、そのようなものが想起されるのか。
1433番は、「こりずまの浦」は、須磨の浦。そして須磨の浦は、一の谷の合戦場でもあるからです。
まず、「須磨」の地は、『源氏物語』が書かれてからの二百年、『源氏物語』ゆかりの地でありつづけてきました。しかし1184年、この須磨の地は、源平の争乱のなかでも凄惨を極めた合戦場となりました。一の谷の戦いです。平氏の陣営は、このときまで、陸に構えることが可能でした。しかし、源義経の軍は、海浜に山の差し迫った須磨の地形を利用して、その平氏の陣営をめがけ、山側から奇襲攻撃を仕掛けたのです。背後は山なので、平氏は安心しきっていました。実際、義経の軍にとっても、山越え中に命を落とす人馬があるほど、危険を伴うゲリラ戦法でした。
一の谷のうわさは、宮廷の人々に生々しく伝わったでしょう。架空の物語である『源氏物語』の、大きな見せ場である地が、現実の争乱により、血塗られた合戦場として上書きされてしまったのです。
新古今の時代の人々にとって、「須磨」は、時代というものに、ひいては戦争というものに、人々の記憶が容赦なく上書きされてゆく、象徴の地となっていたのではないでしょうか。定家は、このことに自覚的だったでしょう。
「須磨」とは「一の谷」なのです。
「須磨」を想起するとき、当時の人々は、同時に「一の谷」を想起しています。海辺の叙景が、「恋歌」の全体を通して、サブリミナル的に差し挟まれることによって、源平の争乱による荒廃がひそかに偲ばれるのです。
これをもって、なぜに海辺の叙景が「恋歌」の随所に盛り込まれているのかという問いの、答えとしたく思います。
「余情妖艶」を求めるだけでは、本当に新しいとはいえないのです。定家は、『古今和歌集』の時代にも、『源氏物語』の時代にも、これまでのどの勅撰集の時代にも存在しなかった、源平の争乱という荒廃、貴族による政権が終焉する歴史的転換点、これらの最も新しい記憶を、叙景にこめて、刻印しようとしたのではないでしょうか。

(4)俊成自賛歌の実景描写

さて、定家の父親であり、和歌の指導者でもあった俊成は、実景をどのように描いたでしょうか。俊成には、これがみずからの代表作であると、自賛した歌があります。

夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里
夕暮れになり、野辺の秋風が身にしみて寒く感じられると、あの伊勢物語のウズラが本当に鳴いていますよ、深草の里に。

俊恵が俊成を訪問した折、「ご自身ではどの御作が代表作と思っておいでですか。」と尋ねると、俊成は、『千載和歌集』に所収のこの歌を代表作に挙げました。俊恵はこれが意外でした。そして鴨長明につらつらと打ち明けて、この俊成自賛歌を、こっそり批難したのです。その批難はこうです。

「かの歌は、『身にしみて』と言ふ腰の句のいみじう無念に覚ゆるなり。これほどになりぬる歌は、景気をいひ流して、ただ空に身に染みけむかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじくいひもてゆきて、歌の詮とすべき節をさはさはと言い表したれば、むげにこと浅くなりぬるなり」とぞ。
(鴨長明「無名抄」)

〈大意〉俊恵が言うには、「俊成殿が自分の代表作だとして挙げた、あの歌は、「身にしみて」という第三句がとても残念に思われます。このようになった歌は、叙景だけを言い流して、身に染みる寒さを想像させるのが、さまになって優美でもございましょう。そこまで言葉に出してしまって、歌の肝心なところをはっきりと言い表してしまっては、むやみに浅い歌になってしまいます」と。

俊恵の、俊成自賛歌批判は、「『身にしみて』まで言い切ってしまったら、余情がないという批判です。そして、俊恵がこのように批判するのは、余情の美学を、「はっきり言葉に出さないで相手にそうと思わせる」ことだと、テクニックを要件化しているからです。これを教条主義といいます。俊恵は、先行作品の存在を、蔑ろにしています。
俊成の、深草の里の歌は、『伊勢物語』を踏まえて詠まれた歌でした。ここで、本歌のある第123段を見ていきましょう。『伊勢物語』、第123段では、男が長年連れ添った妻に飽きてしまい、別れを匂わせて次のように詠みました。

年を経てすみこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
私がここを出て行ってしまったら、そうでなくともこの辺りは深草というのに、本当に草ぼうぼうになってしまうのだろうね。

女の返歌は、こうでした。

野とならばうづらとなりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
あなたがいなくなったら、私、草のなかで、うずらに生まれ変わって鳴いているわ。あなたは決して戻っては来ないでしょうけれど。

男は、この返しを受けて、女のもとを出ていくのをやめました。女のいじらしさに、胸を打たれたのでしょう。
本歌「野とならば」で登場する「うづら」は、『伊勢物語』という架空の物語中の贈答歌、夢の中の夢です。しかし、俊成の歌の「うづら」は実景です。この歌は、あくまでも実景として描いたことが眼目なのです。「身にしみて」は、架空の物語の男と女の世界を、俊成が我が身を通して実感したことを示すために、なくてはならない措辞です。実際に聴いた「うづら」の鳴き声は、哀切で、『伊勢物語』の女の歌が、心をよぎったのでしょう。そして、まさにいま鳴いている実景の「うづら」が、時代を隔てて、誰かに打ち捨てられた女の化身なのではないかと夢想したでしょう。虚構の先行作品があってこそ、実景の「うづら」から哀切なファンタジーが、また新しく立ち上がるという仕掛けです。
優れた先行作品があり、そこに感じ入る、その折々に実在する人々の目線が加わり、先人の築き上げた世界を本(もと)に、その時代の実感をもってして、最先端となるあらたな美が紡ぎだされる。そして、現代人の紡いだ美も、やがて後世に受け継がれ、またあらたな美の生まれる場面が出てきます。連綿と紡がれ、どれ一つとっても、書き割りにはできないでしょう。美を紡ぎだすのは、まぎれもなき実在の生命。そして生命は、はかなく滅びながらも、美は受け継がれていくのです。

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『新古今和歌集』――恋の正体 三

2022-01-07 01:52:10 | 月鞠の会
三 「恋歌」の比較――『古今和歌集』と『新古今和歌集』

本論「『新古今和歌集』――恋の正体」では、恋の歌に的を絞って、論じたいと思います。
「恋歌」の部に絞り込む理由については、和歌における「恋」が、現代にも通じる普遍の感情であることが、第一の理由です。そして、『古今和歌集』『新古今和歌集』ともに、恋愛の進行順に分類しており、主題と構成が明確で、両者を比較しやすいことが第二の理由です。第三の理由としては、『新古今和歌集』の中心的編者、藤原定家が『毎月抄』において、有心こそは和歌に求められる本質であり、恋や述懐は有心の体でなければならないと述べており、恋の歌を対象とすることで和歌の本質をとらえられると考えたからです。この旨、第五章に詳細がございます。
歌数では、『古今和歌集』は全一一一一首中、「恋歌」の部は469―828番、三六〇首。『古今和歌集』全体の32%強が恋の歌ということになります。『新古今和歌集』では全一九七九首中、恋歌の部は990―1434番、四四五首。『新古今集』全体の22%強を占めます。『新古今和歌集』におけるその他の部立は、『古今和歌集』よりも細分化され、膨張したと考えられます。
作者名の表記はいずれの集でも統一されておらず、ここでも統一しておりません。同シリーズのそれぞれの集で、その和歌が掲げられると同時に併記された作者名を、連番の後に続けてそのまま掲げました。

【恋歌一】
恋愛の初期段階。自分のなかに恋心が芽生えたばかりの段階。

●『古今集』
『古今集』「恋歌一」は469―551番、八三首。

469よみ人しらず
時鳥(ほととぎす)鳴くや五月(さつき)の菖蒲草(あやめぐさ)あやめも知らぬ恋もするかな
時鳥が鳴いていますね。菖蒲草の咲くこの五月に、分別のない恋をしてしまいました。

471紀貫之
吉野川岩波たかくゆく水のはやくぞ人を思ひそめてし
吉野川の上流の水が、走り出て岩にぶつかり高く跳ね上がります。それほど早くから、私はあなたに恋をしていました。

542よみ人しらず
春立てば消ゆる氷の残りなく君が心はわれに解けなむ
春になったので、氷も解けてきましたよ。あなたの心も、私とすっかり溶け合うことでしょう。

469番の時鳥は、昼夜を分かたず訴えるように鳴く声が人を惹きつけます。世界の中心に恋があり、恋の中心に自分がいるという高揚感を歌い上げて冒頭を飾っています。
471番、542番は、清涼感、恋愛初期の期待感のこめられた歌です。『古今集』の恋の始まりは、さわやかで、期待と陶酔に満ちあふれたポジティブなものでした。

●『新古今集』
『新古今集』「恋歌一」は990―1080番で九一首。

990読人しらず
よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山のみねのしら雲
葛城山の峰にかかる白い雲のようなあなたを、遠く見ることしかできないで、この恋は、終わっていくのでしょうね。

991読人しらず
音にのみありと聞きこしみ吉野の滝はけふこそ袖におちけれ
噂に聞いていた吉野の滝のような音を立てて、きょう、私の袖には失恋の涙が激しく落ちているのです。

1001中納言朝忠
人づてに知らせてしがな隠れ沼(ぬ)の水(み)ごもりにのみ恋ひやわたらむ
誰かこの恋心をあの人に知らせてくれないかなあ。隠れ沼のこもり水のように、あなたを思っています。

1012和泉式部
けふもまたかくや伊吹のさしも草さらばわれのみ燃えやわたらむ
きょうもまた、つれないことを言うあなたです。私の恋心だけが、燃え盛っているのね。

1023和泉式部
跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも
せめてお手紙で、あなたの書いた文字を見るだけでもさせてくださいな。結ばれない身分とわかっているけれども。

1030前大僧正慈円
わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛が原に風さわぐなり
しぐれが松の木を染めかねるように叶わぬ思い。真葛が原の葛の葉が風に裏返るように、ざわざわと、恨む心でいっぱいです。

1032寂蓮法師
思ひあれば袖に螢をつつみてもいはばやものを問ふ人はなし
袖に螢を包んででもこの思いを伝えたいのに、あなたは、私のことを気にかけてくださいませんね。

1034式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
いっそ死んでしまいたい。このまま生きていたら、この恋心を抑えることができなくなってしまいそうだから。

1067紀貫之
あしびきの山下たぎつ岩波の心くだけて人ぞ恋しき
山の麓を岩にぶつかりながらたぎり流れる水のように、私の恋心は砕け散りながら、それでもあなたを思っています。

1080在原業平朝臣
みるめ刈るかたやいづくぞ竿さしてわれにをしへよ海人(あま)の釣舟
海藻を採集できる干潟はどこなのか、竿で指し示しておくれ、釣り舟にいる海人よ。人の見る目を気にしないであの人と逢える場所はどこかしら。

990番。自分はどうせ相手にされないと、初めからあきらめた歌が冒頭歌です。
991番は、恋心が芽生えるや、同時に絶望にも陥ってしまいます。冒頭をこのようにすることで、『古今集』との差別化が示されているといってよいでしょう。
1001番は暗澹としており、鬱屈とした心情が描かれています。1012番は、「草」「跡」といったはかないものが望みの象徴となり、1032番の「思ひ」は「火」でもあり、「螢」のはかない生命の光と結びつきます。
つまり、『新古今集』の「恋歌一」は、『古今集』の「あやめも知らぬ」恋、身の程を忘れる恋とは真逆に、身の程を思い知らされ、鬱屈し、くすぶり悶えるという趣向なのです。
1030番。葛の葉が風に裏返るという表現は、「恨み」を意味しています。葛はツル科の植物ですので、絡まり合って生長します。葉裏が白いので、強い風が吹くと目につきます。
『古今集』では、絡まり合った葛の葉が裏返るまでの恨みにいたるのは「恋歌五」の段階ですが、『新古今集』では「恋歌一」に置いてしまうのです。「恋歌一」の段階で、これらの歌のような、暗く濃厚な情念を放ってしまって、『新古今集』の世界の「恋歌五」では、どんなことになってしまうのでしょう。このような惹きつけ方は、『源氏物語』が、その冒頭から暗澹としていることにつながっている気がします。
1034番は、『新古今集』で最も著名な歌。この切迫感が「恋歌一」に置かれ、1067番は、貫之自身が『古今集』に入れなかった激情発露の歌を、『新古今集』が発掘しました。
1080番は、叙景歌としても秀でており、舟の上で竿を操る海人の姿が見えるようです。「竿」という「物」への着眼が生きており、1080番については、第四章で叙景歌として鑑賞を深めていきます。

【恋歌二】
恋について、何らかの進展を望むようになった段階。相手の反応を見る段階。

●『古今集』
『古今集』「恋歌二」は、552―615番、六四首。

552小野小町
おもひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
あなたを思いながら寝たので、夢のなかでお逢いできました。夢だとわかっていたら、覚めたりしなかったのに。

557小野小町
おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我は堰きあへずたぎつ瀬なれば
ぼろぼろと玉のように袖にこぼれてくるものがあるけれど、涙なんかじゃないわ、あんなやつ、好きなもんか。だけど、水流のたぎる川瀬のようになってしまって、せき止めようがないのです。

564紀友則
わが宿の菊の垣根におく霜の消えかへりてぞ恋しかりける
菊の垣根に降りていた霜が、日が昇るにつれて消えてしまいました。私もあなたに逢いたくて、消え入りそうです。

575素性法師
はかなくて夢にも人を見つる夜は朝の床ぞ起き憂かりける
はかない夢のなかでさえ、あなたに逢ってしまった夜は、朝の床から起き出したくないのです。

592忠岑
たぎつ瀬に根ざしとどめぬ浮草のうきたる恋も我はするかな
たぎる川瀬の根のない浮草のように、浮気な恋をつい、してしまうのです。

597紀貫之
わが恋は知らぬ山路にあらなくにまどふ心ぞわびしかりける
恋をするのが初めてというわけではないのに、恋をするたびに知らない山道で迷うような心地がするのは、わびしいことです。

610春道列樹
梓弓引けばもとすゑわがかたに夜こそまされ恋の心は
梓弓を引けば、その弓身がぎゅっと絞られる、恋の心はやはり、夜にお逢いできてこそまさるものです。

『古今集』では、肉体の交わりの世界が意識されるようになってきます。552番、575番のように夢にも逢うのは、一度めの夜があったからこそでしょう。564番は、朝帰りした日中、またすぐに逢いたくなってしまうという歌。そして、592番や610番のように、男性の側から、情事を肯定的にうたい上げている作品もあります。597番は、いったん理性的になろうとしていますが、山道についにわけ入ったのでなければ、迷うこともないのです。557番は、相手をよく知らずに身を任せて、後悔するような状況かと思います。現代を生きる私たちにとり、非常に身近に感じられる世界です。

●『新古今集』
『新古今集』「恋歌二」は、1081―1148番、六八首。

1081 皇太后宮大夫俊成女
下燃えに思ひ消えなむ煙だに跡なき雲のはてぞかなしき
片思いのままで、死んでしまうのでしょうね。そんな私の亡骸を焼くその煙さえ、雲の彼方にはかなく消えてしまうのでしょうね。

1082藤原定家朝臣
なびかじな海人の藻塩火たきそめて煙は空にくゆりわぶとも
海人が砂浜で塩焼きを始めたけれど、煙は立ち昇らず、くすぶったまま。同じように、恋心を燃やし始めた私に、あなたがなびくことはないのでしょう。

1099西行法師
はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はで物思はばや
俗世とはるかに隔たった岩の狭間で一人座って、誰の目もはばからずに、あなたを思っていたいなあ。

1101摂政太政大臣
草深き夏野分けゆくさを鹿のねをこそ立てね露ぞこぼるる
夏草の猛々しく伸びる野を、若いオスの鹿が、まだ恋鳴きこそしないけれど草の露をふりこぼしてゆく。私の恋の涙も、声を立てずにこぼれているのですよ。

1107皇太后宮大夫俊成
思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞ降る
あなたを思うあまり、あなたのいる方角の空を眺めていると、霞を分けて細やかな春雨が降っています。

1117藤原定家朝臣
須磨の海人の袖に吹きこす潮風のなるとはすれど手にもたまらず
須磨の海人の袖にふきつける潮風は、身になじんでも手にたまることがありません。その風のように、あなたの心もとらえどころがありません。

1147 西行法師
なにとなくさすがにをしき命かなありへば人や思ひしるとて
いっそ死のうかと思ってはみるものの、やはり、命は惜しいものだなあ。生きていれば、あなたに、いつかはこの思いが通じるかもしれないし。

1081番、1082番、1117番と、「煙」や「風」といった、物質としてそのものをとらえられないものが、『新古今集』「恋歌二」では強調されています。現実の肉体愛を謳歌するよりも、肉体の滅びを想起させる世界を描いています。
「煙」からの連想で、1082-1084番と、海辺の叙景がなされます。中盤の1115-1117番にも続けて海辺の叙景歌が入り、これらの叙景歌が、有意に強い印象を与えます。
1099番は、現実の世界を離れて、ひたすら恋慕の情に耽溺したいとする願望の歌。1147番は、やっぱり生命が大事という歌。出家者として矛盾しているようでも、これが西行の魅力でしょう。肉体とこころを行ったり来たりしているのが、私たちの、真実の姿です。このいやらしい俗世から離れたいと思うのもこころであり、現実の世界に入れ物を求めるのも、こころです。こころの本質をとらえています。
1101番の作者は藤原良経、『新古今集』の序文を書いた人です。1101番は客観の叙景歌としても卓抜しており、1101番、1107番はともに、恋の情感と季節の情感と融け合って、『新古今集』「恋歌二」のステージらしい美しい作品でしょう。
このように、『古今集』の「恋二」は性愛の世界が見えますが、『新古今集』の「恋二」は、身体の滅びを前提として、精神の世界を描いています。自然美とも混じり合い、観念の深みを描くことを可能にしている世界であるといえるでしょう。

【恋歌三】
「恋歌三」は、恋がある程度進行し、親密になってくる段階。それぞれの恋の性格が、はっきりしてくる段階。

●『古今集』
『古今集』「恋歌三」は616―676番。六一首。

616業平朝臣
起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ
起きもしないし寝もしないで夜を明かして、春の長雨に降りこめられて、あなたを思うばかりに過ごしておりますよ。

623小野小町
海松布(みるめ)なき我が身を浦と知らねばやかれなで海人の足たゆく来る
そこが海藻の採れない浦だとわからない海人のように、お逢いするつもりのない私のところに、しきりに足を運んでくる方がありますよ。

649よみ人しらず
君が名もわが名もたてじ難波(なにわ)なる見つとも言ふな逢ひきとも言はじ
あなたの名も私の名も、噂に立てないようにするつもりです。私に逢ったことは誰にも言わないで。私も、あなたとこうなったことは、誰にも言いません。

666平貞文
白川の知らずとも言はじそこ清みながれて世々にすまむと思へば
あなたのことを秘密にしたりしませんよ。白川の水がいつまでも澄んでいるように、私の心も変わりません。ずっといっしょに暮らしましょう。

676伊勢
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空に立つらむ
枕は恋の秘密を知るというから、枕さえしないで寝たのに、どうして私の噂が、塵のように空に広がってしまったのかしら。

616番『古今集』の冒頭歌には、このように、熱っぽい恋の状態がまだまだ続くという歌が掲げられています。……恋が、いつまでも醒めやらぬ夢であってほしい。『古今集』の「恋」は楽観的で、恋について肯定的です。
623番。海人の足取りは、採集にたよる貧しさゆえに重いのですが、雅とはいえないその足取りにたとえて、本命ではない男からの恋心を突き放します。『古今集』「恋歌」の部では、採集生活の場といえども道具立ての一つに過ぎません。同集では、東歌に収録された相模歌(1094番「こよろぎの磯立ちならし磯菜つむめざしぬらすな沖にをれ波」)のような民謡に、採集生活者を含む情景が、おおらかに描かれています。
666番は、はっきりとしたプロポーズの歌です。
676番。「枕だにせで寝し」というかわし方が、絶妙です。ではどうして寝たのだろうと想像をかきたて、火に油を注いでいます。ただ二人の関係ばかりでなく、世間というものの生々しさまで描かれています。
このように、『古今集』の恋は現実的であり、いわば結婚がゴール。遊びは遊びとして情事をたのしむといった、楽観的なものでした。

●『新古今集』
『新古今集』「恋歌三」は、1149―1233番。八五首。

1149 儀同三司母
忘れじの行く末まではかたければけふをかぎりの命ともがな
先のことはわかりませんので、心変わりはしないと誓ってくださったきょうを限りに、いっそ死んでしまいたいのです。

1159伊勢
夢とても人にかたるな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず
二人のことを、夢の中ですら人に語ってはいけませんよ。枕は恋の秘密を知るといいますから、あなたの腕枕でしか、私、眠らないわ。

1160和泉式部
枕だに知らねばいはじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢
実際に深い仲になったのでなければ、そう噂にもなりますまい。見たままをしゃべってはダメですよ。春の夜の夢だったとお考えください。

1185 西行法師
面影の忘らるまじき別れかななごりを人の月にとどめて
月に名残惜しい気持ちをとどめたまま別れてしまって、あの人の面影が忘れられませんよ。

1200西行法師
人は来で風のけしきも更けぬるにあはれに雁の音づれてゆく
あの人は来ないで、風の気配にも夜が更けてしまったことを思い知らされる。空をゆく雁の羽ばたきだけが聴こえるようです。

1204式子内親王
君待つとねやへも入らぬ真木の戸にいたくな更けそ山の端の月
あなたを待ちくたびれて、まだ寝ないで戸口まで出て来てしまったら、真木の戸に月光が差していました。あんまりひどく待たせないで、山の端にかかる月よ。

1206藤原定家朝臣
帰るさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月
今ごろあなたはきっと、他の女の所から帰る途中で、後朝の月を見ているのでしょうね。私はあなたを待ち焦がれたまま、あなたと同じ月を見ているのよ。

1232 皇太后宮大夫俊成
よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ
来世で結ばれるとおっしゃるなら、期待していましょう。生きている間はあなたと結ばれずに、さぞ苦しいだろうから。

1233藤原定家朝臣母
たのめおかむたださばかりを契りにてうき世の中の夢になしてよ
来世で結ばれると、お約束しておきましょう。つらい世の中に支えとなる夢を見ましょう。

1149番。生命は、いずれ滅びの定めにあるものですが、最高に愛されている今、いっそ死んでしまいたいと、生命の輝きをうたっています。その美が「妖艶」なのでしょう。
1159番は、『古今集』676番と同一作者。詞書に「しのびたる人とふたりふして」とあり、情事の歌であることがあからさまに示されています。同じ作者の歌で情事を詠んだ歌でも、『古今集』676番では恋をめぐる世間の生々しさに主題があり、『新古今集』1159番では二人だけの世界、恋そのものの燃焼が描かれています。後述する「恋歌五」1389番、定家の歌にもいえることですが、『新古今集』の肉体愛の世界は、生命を燃焼し尽くして、官能に徹する世界であらねばなりませんでした。世間の目に悩むのが『古今集』の世界であったとするならば、『新古今集』の愛の世界は、純粋です。
1160番。「春の夜の夢」という結句に美意識が添えられています。『古今集』の時代の作者、伊勢との歌風の違いがここにあります。
1185番。人目を忍んで、夜のあいだに名残を惜しみつつ別れています。空に残る月はまだ照り輝いていたのでしょう。それゆえ面影がいっそう忘れがたいのでしょう。出家者でありながら俗情にひきずられる弱さを、優美さとして言葉に表せたところが、西行の魅力でしょう。出家とは、生きながら社会的に死ぬことです。一度死んでしまったからには、もう死ねないのです。終わらせようにも、終わらせようのないこころ。それが余情でしょう。1200番。愛に絶望し、夜更けの静寂に包まれています。目を閉じれば、渡り鳥である雁が羽を休めることなく夜通し飛び続ける、そのしみじみとした姿が思われます。これが、社会的自死の果てに待ち受けていた境地でありましょう。
1204番。「真木」は、杉や檜。待ちくたびれて、真木の戸に遅く差してくる月光のさやけさに浄められても、恋人への思いがなお残り、待ちくたびれた自身のみじめな姿もまた、月光に照らし出されてしまいます。
1206番は、三角関係に苦しむ女の気持ちを描いています。後朝の月光は、時間が経つにつれ日輪にその淡い光をかき消されてしまうはかないもの、すなわち幽玄であり妖艶ですが、にんげんの情念は、かき消そうにも燃えつづけます。これが余情であり、うたわずにいられないこころがあるところに、有心の体が成立するのでしょう。
1232番と1233番は、一組の贈答歌です。俊成と定家母は、互いにこのように詠みながらも、実際には結ばれて定家が誕生し、御子左家の跡継ぎとなっています。実際には結ばれていながら、この時点では、なんらかの障害に即してか、来世でなければ結ばれることはできないとうたっています。このエンドアップは、「恋歌」の部の虚構性が、引き立つ仕掛けとなっています。
『古今集』から三百年。貫之が『古今集』仮名序の六歌仙評に注いだ要所は、「こころ」と「ことば」の釣り合いにありましたが、『新古今集』の時代においては、このようにして、先行作品をいかにして超えるか、いかにして新時代の美意識を添えるかが凝らされました。その際の視点が「余情妖艶」だったのです。

【恋歌四】
「恋歌四」は、互いにすっかりなれ親しんだ段階。恋のほとぼりの冷めてくる段階。
●『古今集』
『古今集』「恋歌四」は、677―746番。七十首。

681伊勢
夢にだに見ゆとはみえじあさなあさなわが面影に恥づる身なれば
夢の中まで、姿をお見せしたくはないですよ。恋やつれしている自分の姿が浅ましく思われ、朝ごとに、とても恥ずかしいのです。

684紀友則
春霞たなびく山の桜花見れども飽かぬきみにもあるかな
春霞のたなびく山の桜花のように、あなたに飽きることなど、これから先もありませんよ。

692よみ人しらず
月夜よし夜よしと人に告げやらば来てふに似たり待たずしもあらず
月がきれいです、などとお知らせしたら、来てくださいと言うようなものですね。待っていないというわけでもないのよ。

732よみ人しらず
堀江こぐ棚なし小舟(をぶね)こぎかへりおなじ人にや恋ひわたりなむ
堀江を漕いでいくちっぽけな舟が、また戻ってくるように、私もおなじ人に戻ってしまいそうです。

681番は、長続きしているがゆえに恋人に飽きられてしまう不安をうたい、684番、692番は安定した関係の日常をうたって、素敵なカップルという印象です。732番は復縁の歌で、大波にさらわれたりせずに凪の水に漂う小舟は、どことなくほのぼのとしています。『古今集』「恋四」の恋愛事情もまた、現代を生きる私たちにそのまま通じるリアリティがあり、いずれも人事に特化されています。

●『新古今集』
『新古今集』「恋歌四」は、1234―1335番。一〇二首。

1236読人しらず
恋しさに死ぬる命を思ひ出でて問ふ人あらばなしと答へよ
あなた恋しさに、私はすでに、死んでしまいました。もし誰かが私を思い出して問うなら、亡くなりましたと答えてください。

1239右大将道綱母
絶えぬるか影だに見えば問ふべきを形見の水は水草ゐにけり
あなたは、もう来ないのね。あなたの影でも見えればそう問うこともできるのに、あなたが鬢の髪を洗うのに最後に使った水には、もう水草が生えていますよ。

1242右大将道綱母
吹く風につけても問はむささがにの通ひし道は空に絶ゆとも
小さな蜘蛛の糸、私たちをつないでいたご縁の糸が空に途切れてしまっても、吹く風に乗せて、この恋心を伝えましょう。お別れしたくありません。

1297西行法師
うとくなる人になにとて恨むらむ知られず知らぬ折もありしに
離れていくひとを、だからといって恨むこともあるまいよ。私たちはもともと、互いに知りもしない赤の他人だったというのに。

1298西行法師
いまぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとてのなさけなりけり
いまこそ、思い知りましたよ。あなたが可愛いことを言っていたのは、そのときにはもう、私と別れるつもりだったのだと。

1302寂蓮法師
うらみわび待たじいまはの身なれども思ひなれにし夕暮の空
うらみ果てて、いまはもう待たなくなってしまった身だが、あなたを思い出しながら見上げるのがいつものことになってしまった、夕暮れの空よ。

1329式子内親王
生きてよもあすまで人はつらからじこの夕暮を問はば問へかし
苦しくてあすまで生きていられそうにありません。この夕ぐれに、来られそうなら来てください。

1236番。『新古今集』の年代までに成立している『大和物語』(第104段)に、この歌への返しが書かれています。女は、1236番のような、死後の遺書かと思われる恋文を男性(少将滋幹)に送り届けましたが、男性からの返しは、こうでした。

からにだにわれきたりてへ露の身の消えばともにと契りおきてき
では、せめてその亡骸に、私が来たと伝えてください。死ぬときはともに死ぬと約束しておりましたので。

『大和物語』のこの段には和歌しかなく、ストーリーがわかりません。男が女のもとへ実際に駆けつけて、ハッピーエンドになったのでしょうか。しかし、実際には死んでいないのに、女は自分が死んだことにしているし、男は、実際には来ていないのに、その亡骸のもとに添い遂げに来たとしています。虚構の愛のうえに重ねた虚構の逢瀬、すべてが幻想の産物であり、現世における実体的な愛を、拒んでいるかのようです。
1239番。男が後朝に使った水を、「形見」として捨てずに取っておいたと女は言います。その汚れた水に水草が生えたというのですから、凄まじいものがあります。
1242番。蜘蛛の糸は、はかないけれども縁を結ぶものとして、『古今集』「恋歌五」でも詠まれていますが、叙景的ではありません。

今しはとわびにしものを蜘蛛(ささがに)の衣にかかりわれをたのむる
(『古今集』773よみ人しらず)
もう私たちはおしまいです……。悲しく思っているのに、小さな蜘蛛の糸が衣にかかって、私に期待させるのです。

これに対し、『新古今集』の1242番では、縁が終わってしまっても自分の恋心は残ると、高らかにうたい上げており、虚空にキラリと光って消える、蜘蛛の糸が見えるようです。情景描写としても優れており、「妖艶」という滅びの相は、実景を描いて引き立つようです。
1297番、1298番は、一見して理詰めにかきくどくようではありますが、情趣がないかといえば、むしろ正反対でしょう。どうすれば忘れられるのか。あきらめられるのか。整理をつけようと、このような思考をたどるのは、恋の終わりのもがき、苦しみそのままです。花も鳥も風も月も詠まれていないけれども、ここには人間の真実があります。有心のみを目がけた体とは、このような詠みぶりではないかと自分は思います。
1302番。「夕暮の空」のさまは、その一瞬のものであり、たちまちに黒一色の夜を迎えてしまいます。終わりゆく外界の持つ美が「妖艶」であるとすると、定家が「余情」と「妖艶」を並び立たせて記したことにも合点がいきます。残された者のこころと滅びゆく外界とは、一組のモチーフとなり得るからです。
1329番。幽玄、妖艶。その美の極みにあるものは、生命の尊厳でしょう。式子内親王の同母弟、以仁王は、源平の争乱において挙兵し、親王という身分にはあり得ない、惨たらしい亡くなり方をしました。貴族たちは、思ったことをそのまま口にできる時代を生きてはいませんでした。生きていること自体が苦しく、一日一日が命がけだった時代の「恋歌」は、恋に限らず、精神のあらゆる様相の受け皿であり、恋の歌としてなら、その激情を託せたのではないでしょうか。

【恋歌五】
「恋歌五」は、恋が終わりゆく段階。

●『古今集』
『古今集』「恋歌五」は、747―828番。八二首。

761よみ人しらず
暁の鴫の羽掻き百羽掻き君が来ぬ夜はわれぞかずかく
夜明けに鴫が羽をしきりにバタバタさせるように、あなたが来ない夜は私、悶えてバタバタもがいています。

789兵衛
死出の山ふもとを見てぞかへりにしつらき人よりまづ越えじとて
いったん死にかけて戻ってきました。私につらくあたるようになった人より、先に死んでたまるものですか。

791伊勢
冬枯れの野辺とわが身をおもひせば燃えても春を待たましものを
冬枯れの野であれば、また来る春が待たれるのでしょうに。私にはもう、未練などないのよ。

808因幡
あひ見ぬも憂きもわが身の唐衣(からころも)思ひしらずも解くる紐かな
逢えないこともつらいことも、私に原因のあったことでしょうね。それなのに、あなたの心がまだ私にあるかのように、下紐がいつのまにか解けてくるのよ。

823平貞文
秋風の吹き裏がへす葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな
秋風が強く吹いて、絡まり合った葛の葉を裏返しています。私のこころも、あなたを恨んで恨んで、どうしようもありません。

828よみ人しらず
流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世の中
男と女は、川に落っこちるように恋に落ちてしまうものですよ。まあ、いいではありませんか。そういうものなのですよ。皆さん、いいってことにしましょう。

761番は、ユーモラスで、私はこの歌を好きです。じたばたしている自分自身を、いっそ喜劇にしてしまう、こうした要素が、『新古今集』「恋歌」の部には、ほとんど見当たりません。笑ってしまうのは簡単ですが、作者は難しいことに成功しています。
789番、791番、823番の恋の恨みは強烈です。強烈ですが、直情ぶりに、恨みになってしまうほどに相手を愛していたのだなあと、思わされてしまいます。
828番は、『古今集』「恋歌」の部、最後の歌です。このめでたさ、晴れやかさが、『古今集』なのです。『新古今集』の目線からいえば、現世現実を肯定し、取り残される者の情など、排除されています。

●『新古今集』
『新古今集』「恋歌五」は、1336―1434番。九九首。

1336藤原定家朝臣
白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く
あなたと私の、真っ白な袖に別れの涙が落ちて、身にしみる色の秋風が吹いています。

1344和泉式部
いまこむといふ言の葉も枯れゆくによなよな露のなににおくらむ
今すぐにお逢いしましょうという言の葉が枯れてゆくのに、夜毎の露がどこに置かれるというのでしょう。

1368読人しらず
君があたり見つつををらむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも
あなたのお住まいのあたりを見ていたいのです。雲よ、生駒山を隠さないで。たとえ雨が降ろうとも。

1389藤原定家朝臣
かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞ立つ
この手でかきやった黒髪の、一筋一筋がくっきりと見えるほどに思い出される。一人になって、うち臥していると。

1433読人しらず
白波は立ちさわぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ
白波が立って邪魔ばかり入るけれども、私は決して懲りたりしないよ。人目など海草のように刈り取って、この恋を遂げよう。

1434読人しらず
さしてゆくかたは湊の波高みうらみてかへる海人の釣舟
湊を目指して進もうとするのに、この恋は邪魔が入ってあなたのところへたどり着けない。さながら私は、恨みながらに沖へと戻る、漁師の釣り舟よ。

1336番。「白妙の」は枕詞ですが、恋人どうしの恋心の、純真無垢を表しているでしょう。「身にしむ」は、それが実感であることをアピールしています。風に色はありませんが、「白」と対比される別れの悲しみ、煩悶の「色」でしょう。涙と露に濡れて吹かれる秋の風は、芯まで冷たく感じられます。この情趣は、自然物の実景描写なしに、ありえません。むしろ、自然描写が中心の歌です。
1344番。口説くのも勢いなら、心変わりも勢い。そういう男に、いちいち泣いたりしないと言っているのです。夏には盛んな勢いで生い茂った葉も、露に当たる時節になると、その葉をみるみる枯らしていきます。その様変わりは、だんだん勢いをなくしていくというよりは、枯れていくことにも勢いがあるのです。式子内親王の、いちずな思いを捧げる1034番(「恋歌一」)、1204番(「恋歌三」)、1329番(「恋歌四」)などとはまったく異質の強さがここにはあり、自然の草木の姿をよく重ねて、印象深い歌です。
1368番。『伊勢物語』23段「筒井筒」にある歌です。二股をかけていた男が、もとの女とよりを戻してしまい、新しい女が呼び返そうとして、このように詠みました。大和地方の自然地形は、生活のなかに溶け込んでいることが特徴ですが、街方から大和のほうに目をやると、なだらかに裾野を広げる生駒山に雨雲の立ちこめてくるさまは優美で、幻想的ですらあります。
1389番。『後拾遺集』恋三に入集した和泉式部の「黒髪の乱れもしらずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき」の、本歌取りです。この歌の要所は、五感のなかでも触覚、ついで嗅覚の際立つ点にあります。物狂おしい性愛の歌であり、恋が終わってしまっても、性愛の甘美がいかに忘れがたいものであるかを訴えています。
1433番「こりずまの浦」とは、須磨の浦。「こりずまに」は「懲りもしないで」の意味。「恋歌」の部のしめ括りは確かに、『源氏物語』を踏まえていますが、さらに最後に置かれた1434番の、湊に漕ぎつけることができないで沖へと戻る舟のさまに、水上生活を余儀なくされた平氏の軍が、想起されてなりません。

さて、ここまでに、『古今集』と『新古今集』の、「恋歌」の部を比較してきました。『古今集』の「恋歌」には、叙景歌としても味わえるものはあまり見受けられませんでした。『古今集』「恋歌」の部では、恋そのものが主題として特化され、叙景歌とは区別されたところに、『古今集』「恋歌」の部は構成されたのでしょう。
つきましては、『古今集』と『新古今集』の「恋歌」について、次のようにまとめることができると思われます。
『古今集』において「恋歌」では、現実の恋愛を対象としています。内容は現実の恋愛に即して、恋という人事を描くことに集中しています。その反対に、『新古今集』では、精神の世界に重きが置かれます。『古今集』の世界をいかに超えるか、和歌の美とはどうあるべきかという理想の追求、すなわち「余情妖艶」の追求が、もう一つの主題でした。恋のこころを描くとともに、『新古今集』では、あくまでも美を描くという主題を重んじたのです。
「恋歌」の部において、「余情妖艶」がいかにして追求されたか。それは多くの場合、実景、叙景を充実させるという手法によりました。
すると、このようにも考えることができます。
『新古今集』「恋歌」の部には、叙景を通して、そのほかの主題もまた、見られるのではないでしょうか。
『新古今集』の時代は、源平の争乱が終結して、間もない時代です。次には、こうした社会情勢により、叙景の対象となる環境の見え方が、『古今集』の時代からどう変化していたかを示したいと思います。

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『新古今和歌集』――恋の正体 二

2022-01-07 01:48:53 | 月鞠の会
二 『新古今和歌集』のインフルエンサー

さて、初心初学の人からも、『新古今和歌集』は、その題名からして、先行する『古今和歌集』(九〇五年。醍醐天皇による最初の勅撰和歌集)を凌駕しようとする意図が見えます。『新古今和歌集』では、「万葉集にいれる歌は、これを除かず。古今よりこのかた、七代の集にいれる歌をば、これをのすることなし(『万葉集』に入集していても、素晴らしい歌であればここに重複して取り上げるが、『古今和歌集』以降の勅撰和歌集と重複はしない)」としています。このことはつまり、『新古今和歌集』では、これまでのどの勅撰集でも入集しなかった歌を取り上げるということであり、それらは『新古今和歌集』の価値観でこそ、評価される和歌であるということです。
こうした時代の変遷を経て、『古今和歌集』と『新古今和歌集』で、その価値観はどのように変わったのでしょうか。あるいは、変わらなかったのでしょうか。
『新古今和歌集』の編纂を中心的におこなった藤原定家が、『古今和歌集』の編纂者、紀貫之についてどのように述べているかを見てみると、以下のように挑戦的です。

昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず。
(「近代秀歌」)

定家のこの着眼が、『新古今和歌集』の余情妖艶の具現化に発揮されたことは、論を俟たないでしょう。つまり、定家は、『古今和歌集』に無かった「余情妖艶」を、『新古今和歌集』において、前のめりに打ち出したのです。
そして、比較対象である『古今和歌集』の性格については、まず、次のようにいえます。
『古今和歌集』(905年)は、醍醐天皇によるわが国最初の勅撰和歌集であり、国家事業として編まれました。中心となった撰者は紀貫之。奈良時代から長きにわたる文化交流国である大国、唐の国家情勢の不穏なことを受けて、先立つ894年、遣唐使が廃止されています。紀貫之は、『古今和歌集』の仮名序において、『古今和歌集』の編纂が国風文化の時代の幕開けにふさわしい国家事業であることを強調し、その美意識が半永久的に後継されることを意識して、日本文学のアイデンティファイをおこないました。
『古今和歌集』(新潮日本古典集成)の校注者である奥村恆哉氏は、その解説中に、ドナルド・キーン氏の言を引用しています。

「貫之は詩には超自然的な存在を動かす力があると説いていて、これは欧米で超自然的な存在が、その霊感に動かされた詩人を通して語るのだと信じられて来たことの反対である」
(ドナルド・キーン『日本の文学』、吉田健一訳、筑摩書房)

奥村氏は、キーン氏のこの言を引き、貫之による日本文学の自己同一性の確立を、「かなりの力業」「ほとんど自覚的な日本化操作」「神話的な古い日本の、日本人が元来持っていた人間主義」と述べています。またそれに、『古今和歌集』の作品について、「どの歌もみな、主語・述語、修飾・被修飾の関係がはっきりしていて、飛躍がない。『古今集』が、古典語として長く後世の規範となりえた、理由の一つであろう」と述べ、「貫之にとって価値があったのは、人間と自然のあるべきありようだけである」と結論づけ、『古今和歌集』の世界が、その以前からあったにもかかわらず、「私的抒情」を持ち出した歌を一切、排除している理由を考察しています。
つまり、奥村氏は、個人の事情に還元される歌では後世まで残るまいとの、判断なり「好み」なりが貫之にあったことを示唆しています。
さて、『古今和歌集』以降の和歌は、国情とともに、どのようになっていったのでしょう。日本は、平氏政権が日宋貿易を開始するまで二七〇年ものあいだ、正式な外交を閉ざし、このあいだ国風文化が栄え、『古今和歌集』は、国文学、ひいては「家」を正統づけるものの象徴として、和歌文学の規範とされました。そして『新古今和歌集』の撰者、藤原定家の父、俊成の世代には、源平の争乱がありました。
そして、定家が「余情妖艶」を求める際にもっとも踏まえたものは、定家の父、俊成の和歌観でした。俊成ほど、定家に影響を与えた人物は存在しないでしょう。俊成は、『新古今和歌集』に先立つ勅撰集『千載和歌集』の編者であり、当時の歌壇を牽引する最高の指導者でした。
定家は、後年の『毎月抄』からもわかるように、常に畏敬をもって、父俊成の和歌観を取り入れています。
その俊成の和歌観は、どのようなものだったでしょう。俊成の次のような言を掲げておきます。

歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて善くも悪しくも聞ゆるものなり。
この倭歌(やまとうた)は、ただ仮名の四十七字のうちより出でて、五七七の句、三十一字とだに知りぬれば、易きやうなるによりて、口惜しく人に侮らるる方の侍るなり。なかなか深く境に入りぬるにこそ、虚しき空の限りもなく、わたの原波の果(はたて)も究めも知らずは覚ゆべき事には侍るべかめれ。
(「古来風躰抄」)

俊成はここで、和歌は、声に出してよみあげるものだと述べています。言葉の意味だけでなく、声に出したときのしらべによっても、良い歌とそうでない歌に分かれるとしています。そして、漢詩であれば細かい規則によって善し悪しの基準が要件化されているけれども、和歌の定めは五七音で三十一文字というだけなので、たやすく見えてしまうことが口惜しいと述べています。しかし、深い境地に入ってしまえば、これで究めたとも言い切れない、果てしない世界が広がるといいます。
さらに、俊成は、先行作品に対し、常に畏敬を示しました。「六百番歌合」の判者として、俊成は、次のような判詞を遺しています。

源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也。

『源氏物語』は、文献初出が一〇〇八年。この物語は、国家事業としてではなく、貴族階層の大衆読み物として、女性にたいへん好まれる形で登場しました。後宮いじめに始まり、怨霊譚、小児性愛や不倫といった背徳をも含む空前絶後の恋愛小説として、現代にも愛好者を絶たない千年の物語です。このような、過激でありながら哲学的にも深い物語が自身の百年後に登場するなど、貫之は、まったく想像だにしなかったでしょう。
俊成は、『六百番歌合』において、女房が提出した歌の評判のさんざんなところに、この女性向けの読み物の影響があることを素早く見抜き、女房の歌を勝ちとしました。『源氏物語』だけではありません。俊成は、ジャンルを問わず、先行作品をよく踏まえ、よく生かすところに、和歌の美を見出していたといえるでしょう。
そして、当代一流の歌壇の指導者、俊成のこの判詞によって、『古今和歌集』と『新古今和歌集』のあいだの年代に成立したこの読み物が、『新古今和歌集』における「余情妖艶」のインフルエンサーとなることが運命づけられたのでした。

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『新古今和歌集』――恋の正体 序文,一

2022-01-07 01:45:55 | 月鞠の会
序文

何年か前のことでした。作詞家、なかにし礼さんが、「恋のハレルヤ」「人形の家」などを作詞するにあたり、満州からの引き揚げ体験をもとにされていると、放送メディアでお話しになられました。前者は太平洋戦争終結の歓喜、後者は中国残留孤児の悲しみを仮託したとのことでした。お話を聴きながら、私のなかにぼうっと『新古今和歌集』が浮かびあがってきました。『新古今和歌集』といえば、妖艶な「恋の歌」の印象でしたが、その時代もまた、源平の争乱を経て武家政権の確立した激動期でした。
少年の日のなかにし礼さんに、政治をどうこうしようという思いは、なかったでしょう。少年の心が感じるものは、いつの時代も、世の中のあらゆる不条理であり、その犠牲となった人々へのシンクロニシティではないでしょうか。『新古今和歌集』においても、同じように、時代に共振して自らが切り裂かれるような慟哭や歓喜が、「恋」を歌うという形をもって解放を求めたのではないでしょうか。これが、『新古今和歌集』の恋の歌を、読み直そうと思ったきっかけでした。
次に、このように考えました。『新古今和歌集』を名画にたとえるとすれば、主演は後鳥羽院だという人もあり、藤原定家だという人もあります。ある人は、真の名優は西行だといい、助演俳優の優れていることを引き立てる論説も鑑賞も、枚挙にいとまがありません。ここで自分は、どのような切り口をもって『新古今和歌集』を紐解けば、前述した問いに、答えの糸口を得られるだろうかと。
『新古今和歌集』の編纂を勅命としたのは後鳥羽院です。一二〇一年、和歌所を設け、勅撰の院宣。一二〇五年、竟宴。勅撰和歌集の完成に宴会を開くのは、先例のないことでした。後鳥羽院は、国史の講読後の宴にならったと見られ、『新古今和歌集』(新潮日本古典集成)の校注者、久保田淳氏は、同書解説にて、「この新たなる勅撰集に対して、正史と対等の国の歌集という地位を賦与する」という後鳥羽院の意図を読み取っています。「院の和歌観はいわば政教的文学観なのであって、芸術至上的な傾向を有する定家とは明らかに異なる」とし、その定家が、先例のない竟宴に「ひどく懐疑的であった」と述べます。
その後も院により改訂が一二一〇年頃まで続けられ、後鳥羽院は、自身の勅撰和歌集を日本文学の金字塔として打ちたててのち、一二二一年、武士から貴族への政権の奪還を狙って敗北し、配流の人となりました。『新古今和歌集』における滅び、幽玄の美は、後鳥羽院の配流をもって、虚構から現実のものとなったのでした。挙兵までの空白の十年、後鳥羽院の思いは、定家の歌才に魅せられつつも、水無瀬釣殿当座六首歌合において、これだけは自らの作を勝ちとした思いと重なるのかもしれません。

思ひつつへにける年のかひやなきただあらましの夕暮の空
(『新古今和歌集』「恋歌一」)

後鳥羽院は、無用の帝王の空虚を、和歌を遊ぶことで埋めようとし、なおかつ、政治的達成を求めずにはいられなかったのでしょう。国体にかかる悲劇のレジェンドを紡いだ後鳥羽院が、そのスケールの「大きなひと」であるとすれば、「紅旗征戎吾が事にあらず」(『明月記』と記した定家は、「小さなひと」に違いありません。そして私は、実務にあたる「小さなひと」が、何を思ったか、その手がどう動いたのかを知りたくなり、本稿に書き留めたいと思ったのでした。

本稿では、論考として、次のような構成で本文をまとめました。

一 『新古今和歌集』の時代の編纂技術
二 『新古今和歌集』のインフルエンサー
三 「恋歌」の比較――『古今和歌集』と『新古今和歌集』
四 恋の正体――叙景に隠されたもう一つの主題
五 恋の正体――余情、妖艶、有心
六 俊成と定家――歌のしらべと双方向性

このうち、第六章では、先立つ勅撰集『千載和歌集』との和歌のしらべの傾向の違いに触れ、『六百番歌合』の判詞において、俊成が、まだ年若い息子を敗者として、息子に何を伝えようとしていたのかを考察しています。
全体として、典籍の表記は後述の参考文献に概ね沿いますが、編集上の制約のため、読み仮名については( )内に示すことにしました。和歌本文中の分かち書きについてはこれを詰めました。


一 『新古今和歌集』の時代の編纂技術

さて、『新古今和歌集』の世界に、どのようにして近づくのか。しかし、そもそも当時の人々は、どのようにして書物を編纂していたのか。
『新古今和歌集』を鑑賞する書籍は、町の小さな書店ですぐさま手に取れるほどポピュラーで、鑑賞物を得るのは難しくありません。しかし、それらの鑑賞物は、それぞれの鑑賞者がわが身に引き寄せ、共感を伴ってわが身を投影するのが常。投影物の情報をもとにして、自身の空想を上書するのみにして、実像に近づいたといえるでしょうか。何より、そもそも当時、書物の編纂とは、具体的に何をすることだったのか。つまり、作業にあたり、実際の手がどのように動いたのか。それをまず、知りたいと思いました。
そこで出会った書物が、藤本孝一著「国宝『明月記』と藤原定家の世界」(臨川書店)、「本を千年つたえる 冷泉家叢書の文化史」(朝日新聞出版)でした。冷泉家の御文庫を整理する公務に当たり、写本学を唱える筆者が、家の日記について、その編纂を技術の面からとらえています。これらの書物が、「藤原定家の世界」を、身近に感じさせてくれました。
現代を生きる私たちは、コンピューターを使って文書を作成し、リリースは電子出版という時代をすでに迎えています。当時の切り継ぎはPDFファイルの結合や分割に似ているし、結合したPDFファイルは、電子の画面上で巻紙のようにも見えます。しかし、紙でできているものには、これ以上巻けない、綴じられないという限界があり、傷み滅びる日がいつかはやってきます。それゆえ、当時の人々は、少しでも長持ちするように関連する書簡などを裏打紙に取り、紙の補強と内容の裏付けに使ったということでした。私はこれを、提出書類にその内訳を貼り付ける、従来の確定申告の作業に似ていると思いましたが、定家の時代は書かれた面を内側にして貼り付けたのでした。ですので、裏打紙から情報を得るには、「あいへぎ」といって剥がすことが必要です。裏打紙から当時の情報を得るために「あいへぎ」された文書は、後代の掛物などに珍重される一方で、「あいへぎ」が横行したため、典籍の散逸を招いたともされます。こうした履歴は、滅びの定めにある物質の世界にしか起こり得ないことでしょう。

「当時の貴族の日記は、その家柄ごとの元旦四方拝、春秋除目、新嘗祭等の行事における役割を中心に部類記を編纂して、家の故実書とすることを、その最終目的としていた。毎日書き継いだ日記は、そのまま『日記』として伝えられていくのではない。……退官・出家などを契機として、子孫に遺すために「日記」の編纂が行われる。日々書き続けられた日記が編修史料となるのである。」
「貴族達は、当日行われた儀式を日記に書くことにより、子孫に先例として遺すのである。その家にとっての日記の目的が公務に機能する準公的な側面をもつことになる。」
「巻子の利点は、切継ができることである。」
「冊子と違い、巻子では裏に書くこともできる。それを裏書という。」
「紙は一枚たりとも無駄にされず、受け取った書状類の文書は用済みになっても大切に保存されていた。この文書の裏白を利用して、書籍や日記等を書写している。書写した側から見ると、本文の裏側にある文書類のため、本来の(表に書かれていた)文書を『紙背文書』とよんでいる。」
「紙背文書には書かれている本文の内容を相互に補完するという関係が深くかかわっていることを『明月記』の紙背で明らかにする。それまで保存していた書状類を用いて書写する時、そこには書写する主体の選択行為が働くのである。」
(藤本孝一「国宝『明月記』と藤原定家の世界」、臨川書店)

定家は、御子左家という歌の家、和歌所を司る事業の跡取りでした。その御子左家は、定家の死後いくつかに分家し、現代に残るのは、そのうちの冷泉家です。定家は、部類記として『明月記』を書きました。部類記とは、公務における先例参照のための、家柄ごとのマニュアル本です。若年期の定家は、公務の場において燭で同僚を殴打するという事件を起こし、除籍となっています。定家は、この事件を部類記には記しませんでしたが、のちに、父俊成が除籍をとりなしてくれた折の文書(あしたづの歌史料)を、その頃の『明月記』の裏打紙に使っています。裏打紙には、文書の補強を兼ね、文字通り事実関係を裏づける役割があり、裏打紙に使われた文書を紙背文書といいます。定家は、表記統一のために定家仮名遣いを定めたほか、写本の際の誤記を防ぐために、当時に一般的な手書き書体だった連綿体ではなく、父俊成の傾向を引き継ぎ、「定家体」と呼ばれる一字一字の区別をつけた書体で書くなどしました。そして中書といい、手書きで複製する際、右筆という書写する人がいました。定家が自身の書写を、右筆と表現している場合もあり、書写は、誤記を防ぐ目的で、手作業による複製が定家の筆跡をたどっておこなわれたため、なかには、公にも定家の真蹟とされているものがあるそうです。
このようにして、当時の技術の面から、当時の編纂の作業を現代の書籍編集になぞらえると、王朝の当時の「家」が、世襲制のカンパニーのようなものだったと見立てられ、身近に感じられました。定家という「小さなひと」にリアリティを持つことができ、その父、俊成との関係性もまた、リアルに感じられました。つまり、知りたかったその「手」の動きが、垣間見えたように思われました。ここで、冒頭の問いに、空想以上の答えを用意できるかもしれないという可能性を感じました。

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