歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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(未定稿)鬼さん考 3

2024-04-14 14:44:08 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑴ 万葉の時代の死生観――「死者の霊」のイメージを中国と比較する


「鬼」の字義は死者の霊。中国ではそうだといっても、「死者の霊」の意味合いもまた、中国と日本とで、違っています。
中国では、死者の霊を「鬼(キ)」と呼んで、古くから信仰の対象でした。
それは、現代の日本文化の一つでもある盂蘭盆の行事に想起される、子孫を見守るという穏やかな祖霊のあり方とは、かなり異質です。そして、中国では、仏教と、仏教以前から存在する道教を含めた、中国古来の民間信仰が分かちがたく結びついていることを、知っておく必要がありそうです。

孔子の編纂といわれる歴史書『春秋』の、注釈書である『春秋左氏伝』「昭公七年」には、鄭の宰相である子産によって、取るに足りない人でも非業の死を遂げることになれば祟りをなすことが述べられます。


  〈人生始化曰魄。既生魄。陽曰魂。用物精多、則魂魄強。是以、有精爽至於神明。匹夫匹婦強死。其魂魄猶能馮依於人、以為淫厲。〉

  〈人間が生まれて、最初に動き出すのを魄(目・耳・手・足などの肉体の作用)といいますが、魄ができますと陽、すなわち霊妙な精神もできますもので、それを魂といいます。さまざまな物を用いて肉体を養うのに、そのすぐれた精気が多いと魂も魄も強くなります。そこでその魂魄が精明になると天地の神々と同じはたらきをするようになります。いやしい男女でも非業の死をとげた場合には、その魂魄が後に残って他人にとりついて、みだらなたたりをするものです。〉


新釈漢文大系『春秋左氏伝』「昭公七年」 (鎌田正著 明治書院)から、原文・現代語訳とも引用しました。ただし原文からは返り点を省略し、漢字を新字体もしくは通用しやすい書体に改めました。この原文と同じまとまりにあたる箇所を、中国古典文学大系『春秋左氏伝』(竹内照夫訳 平凡社)では、次のように訳しています。


  〈人が生まれるとき、まずできるものを魄といいます。魄ができてのち、陽の気が身に添いますのを、魂といいます。そして物を取って身を養い、精力が多くなれば魂も魄も強くなり、こうして清く明るい心が育てられ神にもひとしい知恵を持つにも至るのです。ですから卑しい男ひとり女ひとりでも、変死などしたならば魂魄がなお他人にとりついてよこしまなたたりをすることもできます。〉



中国で「鬼」と呼ばれる「死者の霊」については、一般書においても次のように述べられます。


  〈『漢書』の「地理志」にはすでに、「江南は土地が広く、……巫・鬼を信じ、淫祀を重んじている」とあるように、特に中国の南方では、かなり古い時代から鬼に対する信仰が盛んに行われていた。〉(『中国の呪術』松本浩一〈大修館書店〉)

  〈たとえば『楚辞』「九歌」中の「国殤(こくしょう)」は、戦死者のための鎮魂の歌とされているが、「身すでに死して、神(しん)にして以て霊、子(し)の魂魄、鬼雄とならん」とあるように、のちの時代に横死者の霊魂が、厲鬼(れいき)として恐れられたことを彷彿とさせる。やはりこの「国殤」の目的も、彼らを祀り慰めることで、たたりを免れることが目的だったのだろう。〉(同)


漢民族が考えた「鬼」、すなわち死者の霊とは、生前の貴賎によらず、横死や非業の死を遂げることになれば、人々に取り憑き、不満を申し立て、救済が得られるまで祟りをなす存在のようです。それが古来からの考え方であり、現在でも、浙江省磐安県では三十六種の孤魂(祀り手のない魂)と、異常死した三十六種の殤冤鬼を供養し救済する儀式がおこなわれているそうです。それは、祟りを受けないためにそうするのです。
この点が、中国と日本とで、死者の霊についてのとらえ方の大きく異なる点です。
本章において後述しますが、日本では、祀らないからといって、すぐさま死者から祟りを受けるとは考えないでしょう。貴人の怨霊を御霊として区別し、祟りを恐れ、お祀り申し上げるといった信仰が平安時代にはありましたが、誰でも祟ることができるとは、考えませんでした。

さらに、同じ一般書から、祟りをなすもののうち、「鬼」とは由来を区別される「精怪」について述べた箇所を引きます。


  〈精怪は鬼の一種として考えている著作もあるが、鬼とはある一点で明確に異なっている。それは、鬼はもともと人間だったわけだが、精怪はもとは人間以外の存在だったという点である。もとの物とは、動物であったり、植物であったり、あるいは器物であったりするが、それらが長い間、天地日月の精気に感応することによって、変化を来たし霊物となったものを精怪という。〉


自然霊や精霊もまた、中国と日本とで、そのイメージが違っているようです。
日本人が身近に感じてきた精霊の類については、中国では「精怪」と呼ばれ、死者の霊である「鬼」とは、明確に分けられていました。中国では、「精怪」もまた、祟りをなします。しかし、日本人にとっての精霊は、もっと身近にいて、祖霊と地続きにつながるような、親しみ深いものではなかったでしょうか。たとえば、現代になっても、針、鞠、筆、人形の供養がなされますが、それは祟りを恐れてというよりも、愛用した事物への哀惜の所作でしょう。


出雲路修氏は『説話集の世界』において、仏教伝来ののち、死後の世界観の展開がまだ希薄であった時代、その萌芽の古例に、山上憶良の歌を挙げ、次のように述べます。


  〈たとえば、《万葉集》巻五・九〇五「わかければ 道行き知らじまひはせむ したへの使 おひてとほらせ」は、「まひ」「したへの使」といった、中国の志怪小説の世界では普通であるが当時の日本においてはかえって孤立した〈冥界游行〉伝承を歌う。志怪小説の世界を念頭においての詠歌である。〉(『説話集の世界』[「よみがへり」考]出雲路修著〈岩波書店〉)
  
〈八世紀初頭における中国志怪小説との接触が、一方では《万葉集巻五・九〇五》の歌を生み出し、一方では在来の〈蘇生〉説話を〈冥界游行〉説話へと変貌させたのではなかったか。〉


引用中の和歌の大意は、「まだ幼いのであの世への行き方も知らないだろうから、贈り物はしましょう。あの世からの使いよ、この子を背負って、連れていってやってください。」となります。わが子の死を悲しむ父親になり代わって、詠まれた歌です。
あの世の使いに贈り物をするのは、祟りや障りを恐れるからではなく、苦しい旅路とならないよう、配慮をくれてやってほしいからでしょう。親としてよくよくのことをしてやらなければ気が済まなくてそうするのであって、贈り物をする理由を、祟りを封じるためと受け取ってしまったら、和歌として成り立ちません。和歌は、愛の世界をうたうものです。「まひ」が、愛の世界の所作となる点で、大陸との違いが決定的です。


出雲路氏は、この和歌によって、在来の〈蘇生〉説話が〈冥界游行〉説話と変貌したのはいつ頃かを探り、死後の世界観がこの国の言葉の世界に注入され始めた時期を推し量りました。すなわち『万葉集』の頃、仏教が、国教として浸透するようになり、それまでに希薄だった死後の世界観もまた、具体的に示されるようになってきたのです。

『万葉集』の、他の和歌を見てみましょう。「新日本古典文学大系」(岩波書店)の『万葉集』(校注:佐竹昭広氏、山田英雄氏、工藤力男氏、大谷雅夫氏、山崎福之氏)から作品を引用し、大意については、校注を参考に付しました。読みやすくする目的で、漢字表記を仮名にした箇所があります。


  〈117 ますらをや片恋せむと嘆けどもしこのますらをなほ恋ひにけり〉


舎人皇子の御製。「原文では「鬼乃益卜雄」。注記に〈「しこ」は罵りの言葉。原文「鬼」の字は、漢語「鬼」「鬼子」が罵る語に用いられることによる表記であろう。〉とあります。恋に囚われる自分自身を「ますらを」であるとしながらも、同時に「鬼(しこ)」と自虐せずにいられない。片恋が深まるにつれ、激しさを増した嘆きをうたっています。ここでの「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分、という意味で「しこ」の訓を当てていますが、このあとの時代では、「鬼」の字に「しこ」の訓を当てなくなっていきます。


  〈608 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくごとし〉


笠女郎から大伴家持に贈った歌です。女が、男を、「餓鬼」と罵って、恋が終わろうとしています。思うように愛してくれない人を愛するのは、立派なお寺でもその仏様ではなく、餓鬼を後ろから拝むようなものだというのです。


  〈3640 寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼たばりてその子はらまむ〉


詞書に〈池田朝臣の、大神朝臣奥守を嗤ひし歌一首 池田朝臣、名忘失す〉とあります。注記に〈痩せている大神奥守を「男餓鬼」と戯れた。〉とありますから、池田朝臣が痩せている大神奥守を「男餓鬼(おがき)」と呼んで、「女たちがあなたの子を産みたいと言ってるよ」などと、からかった歌のようです。

「餓鬼」は死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語ですが、そのままの意味に使われてはいません。いずれの歌でも、メタファーとして、人を罵ったりからかったりする言葉となっています。このように『万葉集』の時代には、大陸からやってきた仏教語が、身近に浸透していたことをうかがわせます。

和歌ではありませんが、特に見ておきたいのは、巻五の、896番と897番のあいだに挟まれた題詞「沈痾自哀文」です。
山上憶良最晩年の作で、病苦を嘆きます。
形式は、全体に七つの連で構成され、本文と憶良自身によるごく散文的な注記を含みます。ここで取り上げるのは、その⑴⑷⑸⑺の連から、本文のみの抄出です。冒頭の連番は、出典が七つの連を⑴~⑺の連番で示したことに従い、注記については、大意のほうに反映しました。


(1) 〈窃かに以みるに、朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして、世を度ることを得。〉〈況や、我胎生より今日に迄るまで、自ら修善の志有りて、曾て作悪の心なきや。〉〈この 所以に三宝を礼拝して、日として勤めずといふことなく、百神を敬重して、夜として闕くること有ること鮮し。〉〈嗟乎媿しきかも。我何の罪を犯してか、この重疾に遭へる。〉


大意 ひそかに思いみるに、一日中慎むことなく山野で狩りをして生き物を殺している人ですら、災害にも遭わずに生きていくことができる。生まれてこのかた、善行をしたいと思うことはあっても、悪事をはたらこうと思ったことなぞ、これまで私にあっただろうか、いや、ない。仏法僧の三宝を礼拝し、神々を敬い尊ぶこと、夜でも欠かさなかった。ああ、それなのになんと恥ずかしい。私が何の罪を犯したというのか。こんなにつらい病気にかかるなんて。


⑷ 〈命根既に尽き、その天年を終ふるすら、尚し哀しと為す。〉〈何に況や、生録未だ半ばならずして、鬼の為に枉げて殺され、顔色壮年にして、病の為に横に困めらるる者や。世に在る大患、敦かこれより甚しからむ。〉


大意 生命力がすでに尽き、天寿を全うするときですら、それでも死ぬのは哀しいと人は思うものだ。それなのに、本来の寿命をまだ半分も生きられず、鬼のために理不尽に殺され、病気のためにこれでもかと苦しめられる者は、どれほど哀しいだろうか。これにまさる苦しみが、この世にあるだろうか。


⑸ 〈抱朴子に曰く、「神農云はく、[百病癒えざれば、安ぞ長生を得むや。]」といふ。帛公略説に曰く、「伏して思ひ自ら励ますに、この長生を以てす。生は貪るべし。死は畏るべし」といふ。天地の大徳を生と曰ふ。故に死人は生鼠に及ばず。〉〈遊仙窟に曰く、「九泉の下の人は、一銭にだも直らじ」といふ。〉〈孔子曰く、「これを天に受けて、変易すべからざるものは形なり。これを命に受けて、請益すべからざるものは寿なり」といふ。〉〈故に生の極めて貴く、命の至りて重きを知る。言はむと欲ひて言窮まる。何を以てかこれを言はむ。〉


大意 「[もろもろの病気が治らなくて、長生きできるはずがない]と神農にある」と抱朴子がいう。帛公略説には「ひそかに自らを励ますときに、長生きしようと思っている。貪欲に生を求めるべきで、死ぬことは恐れるべきだ。」とある。天地の偉大な徳が生だ。ゆえに死んでしまえば生きているネズミにも劣るのだ。遊仙窟には、「あの世にいってしまった人には一銭の値打ちもあるまい」とある。孔子がいう。「天から授かって変えようのないものが人の姿かたちである。天命として授かって、もっと続けさせてくださいと請願できないものが寿命である」と。ゆえに生がきわめて貴く、命がまことに重要なものであると知る。このことを言葉で表したいのに、言葉に詰まってしまう。どうすれば言葉にできるだろうか。


⑺ 〈若しそれ、群生品類、皆尽くることある身を以て並びに窮りなき命を求めずといふこと莫し。この所以に、道人方士、自ら丹経を負ひて、名山に入りて、薬を合はするは、性を養ひ神を怡びしめて、以て長生を求む。〉〈帛公また曰く、「生は好き物なり。死は悪しき物なり」といふ。〉〈今吾病の為に悩まされて、臥坐すること得ず。〉〈「人願へば天従ふ」といふ。如し実有れば、仰ぎて願はくは、頓にこの病を除きて、頼りて平の如くなること得むと。鼠を以て喩と為すこと、豈に愧ぢざらむや。〉


大意 そもそも生き物はどんな生き物でもいつかは死ぬ身でありながら、終わりなき命を求めずにはいられない。だからこそ、道人方士たちが、仙薬の処方を記した書巻を背負い、名山に入って薬を調合するのは、性を養い心神をよろこばせることで長生きしようというのである。また帛公に、「生はよいもので、死はわるいものだ。」とある。今、私は病気に悩まされて、寝ているのも座っているのもつらくてできない。「人が願えば天は従う」といわれる。もし本当なら、天を仰いでお願い申し上げます。ただちにこの病気を取り除いて、健康な体に戻してくださいと。ネズミをたとえに出したのは、恥ずかしいことでした。

(1)のように、「沈痾自哀文」は、不殺生戒への「窃か」な疑問に始まります。狩猟採集、殺生を生業とする人々ですら、健康に一生を遂げられるというのに、自分は、欠かさず経をよみ三宝を礼拝するという信仰生活を実行してきた。それなのになぜ、病気にかかって苦しむのかと。そして、⑸の『抱朴子』は、道教の教典として著された前仏教時代の漢籍(次章)、『遊仙窟』は唐代の伝奇小説。『帛公略説』が未詳ですが、校注者は、「死人は生鼠に及ばず」の部分を、引用ではなく作者自身の言葉であると解しています。この解に従うと、憶良は、「人間だって、死んでしまったら生きているネズミ以下だ」と、天に唾するように言い切ったことになります。そして、⑺の結びの部分では、一転して天を仰ぎ願い、いますぐ健康な体に戻してください、さきほどのネズミのたとえを恥じいるので、と殊勝です。この起伏の激しさは、居ても立ってもいられぬ病苦のゆえでしょう。

結びの部分に示されている憶良の本望、真の願いは、病の癒えることでした。仏教による「死後の世界観」の注入があったとしても、生命の根源にある瀬戸際の価値観が、どうであったかということ。この作品は、仏教の教えを受け入れ順いながらも、生きとし生ける者の本心をあらわにしているでしょう。

そして、「沈痾自哀文」にでてくる「鬼」は、本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う鬼、死神です。

『万葉集』に出てきた「鬼」を、いったん、次のようにまとめておきます。


・「しこ」と訓じ、「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分。
・餓鬼。もとは死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語だが、ここでは人物や人々への嘲り、からかいのメタファー。あるいは、人の姿形の特徴をたとえていう。
・本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う死神。


仏教は、中国に仏教が入ってくる以前の中国の世界観(道教など)を残したまま、日本に伝来しましたが、日本的には、大陸から伝来の「鬼」が、そのもの「死者の霊」であることをほとんど拒絶しているのです。
日本で「鬼」と「死者の霊」は、別のものです。

大陸と違って、死霊は祟るものではなくて、惜しむものだと、私たちの祖先は考えたのです。ですから、「鬼」の字の、祟るものだというネガティブな意味合いに、日本の古代社会において排除対象を意味した「おに」という和語が、くっついたのかもしれません。

そして、万葉の時代よりあと、死後の世界は、日本においても具体的に描かれるようになります。
その死後の世界で、日本における「死者の霊」たちが「鬼」の姿ではないとしたら、いったい、どのような姿をしていたのでしょうか。






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