頼朝は御家人が幕府の推挙を介さずに位階・官職=官位に就くことを許さなかった。官位を武士に直接与えることで、武士らの猟官意欲を利用し影響力を行使する、後白河法皇の関与を遠ざけたかったのである。義経は法皇に左衛門少尉に任ぜられ、検非違使を拝命して墓穴を掘った。奥州合戦の後、頼朝は御家人たちの論功行賞すなわち藤原氏の旧領分配において、朝廷が知行に介入することを許さなかった。奥州征討28万人の示威の効果は . . . 本文を読む
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も18回を数え、物語はこれから佳境に入ろうというところだろう。同ドラマの登場人物のひとり、頼朝の異母弟源範頼は、遠江国の〈蒲御厨(かばのみくりや)(現浜松市東区大蒲町を中心とする地域)〉で生まれた。それにより、元服前は蒲冠者(かばのかじゃ)、元服後は蒲殿(かばどの)と呼ばれていた。父義朝の死後、後白川院に仕える公家〈藤原範季〉の養育を受ける身になった範頼は、伊勢神 . . . 本文を読む
浜松城の古城とも言える引馬城(曳馬城)の城主飯尾氏には、家康によって攻略された際の逸話が遺っている。4代目城主〈飯尾豊前守連龍(乗竜とも)〉は、今川義元亡き後の今川領遠江の防備を能く務め、徳川・織田の攻撃や調略を防いでいたが、今川氏真に家康への内通を疑われ、駿府城内で謀殺された。家康は5代目城主となった連龍(乗竜)の内室〈お田鶴の方〉に、徳川家への服属を勧めたが、お田鶴の方と家臣団は徳川に降ること . . . 本文を読む
永禄11年(1568年)、岡崎に在った徳川家康は遠州に侵攻し、今川方の〈飯尾氏〉4代の居城〈引間城〉を攻め落とした。そして直ちに、その城地の西南数丁先の三方原台地斜面を活かし、新たに城郭を築造した。旧引馬城は新城の一角の曲輪となった。城が完成し家康が浜松に移ったのは、元亀元年(1570年)の頃といわれている。今川義元亡き後、駿河・遠江に食指を伸ばす甲斐武田氏と直接対峙しなければならなくなった家康に . . . 本文を読む
1189年7月、頼朝は自ら大軍を率いて奥羽へ侵攻した。【奥州合戦】である。28万余の軍勢を東海・東山・北陸の三道に別け、自らは東海の大手軍を率いたという。話半分としても大変な数の軍勢である。31年後の【承久の変】で、後鳥羽上皇追討に送った北条幕府軍が19万である。時代が遥かに下る戊辰戦争でも、東北列藩同盟との戦いに従軍した官軍の兵力は12万である。平家追討の時期でさえ鎌倉から動かず、入洛すらしなか . . . 本文を読む