道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

頼朝の光と影(その3)

2022年04月11日 | 歴史探索
1189年7月、頼朝は自ら大軍を率いて奥羽へ侵攻した。【奥州合戦】である。
28万余の軍勢を東海・東山・北陸の三道に別け、自らは東海の大手軍を率いたという。話半分としても大変な数の軍勢である。

31年後の【承久の変】で、後鳥羽上皇追討に送った北条幕府軍が19万である。時代が遥かに下る戊辰戦争でも、東北列藩同盟との戦いに従軍した官軍の兵力は12万である。
平家追討の時期でさえ鎌倉から動かず、入洛すらしなかった頼朝が、いかに陸奥17万騎と云われた藤原氏が有力とはいえ、何故奥州に自ら膨大な軍勢を率いて長駆遠征したのか・・・?これは大きな謎である。

平家滅亡の後、頼朝と離反した義経は藤原氏を頼って陸奥国平泉に匿われた。
頼朝は、戦術の天才義経が陸奥藤原家の軍事顧問格と成って、財力のある藤原一族をはじめとする奥羽の豪族たちの軍事力が強大になることを危惧しただろう。しかし秀衡なき後の義経も泰衡も、自ら出陣するほどの強大な敵ではない。

頼朝には別に大きな目的があったと見る。藤原家の産金施設の接収と、鎌倉の軍事力の誇示である。
藤原氏の豊かな財政の基盤は、蝦夷との北方交易でもたらされる貴重な矢羽根(鷲の羽)や鹿革・毛皮、良馬、そして豊富な海産加工品など、独占的で多彩な交易品大量の砂金である。
藤原一族を四代100年に亘り繁栄させたのは、当時の陸奥国・出羽国の産金量の豊かさで、それは復元された平泉中尊寺金堂を観れば私たちにも推測できる。

幕府を開いて4年目の頼朝にとって、課題は政権の財政基盤の拡充、特に源氏の嫡流たる頼朝個人の経済力だった。
流人の頼朝には家産は皆無だったし、逃亡の末に滅亡した平家一門の没収資産は、御家人たちへの恩賞に充てている。

秀衡亡き後の藤原一族と義経を討滅する戦いだけなら、範頼を総大将に、八田知家・梶原景時・畠山重忠などをつければ十分だったろう。将士を鼓舞するため総大将の頼朝本人が敢て戦陣に加わるなら、白河の関あたりまでの後詰めでも事は足りたはずである。

ところが頼朝は主力の大手軍を率いて、立ち塞がる藤原軍前衛の奥州の豪族たちの防衛線を突破、真っ先に平泉に乗り込んだ。既に義経は、頼朝の平泉到着以前に泰衡の裏切りに遭い、衣川で家族と共に自決している。

頼朝には、四代100年の栄華を支えた藤原家の経済力の源泉、すなわち産金施設の接収を、私的に極秘裡で実行する必要があったと推測してみたい。
藤原氏の財貨を没収し、鉱山・採掘地・精錬施設を接収する目的のためには、自身が少数の腹心と細大漏らさず現地を検分し、情報を独占掌握するしかなかったのである。産金施設収奪と監督要員の確保は、余人の手に委ねることの出来ない重大で秘密の事案だった。

頼朝の〈奥州合戦〉には①藤原家から朝廷への金の献上を途絶えさせる②金鉱山や砂金採掘地と精錬拠点など、藤原家の金の産出組織を掌握する、の二つの目的があったと見る。奥州征討は、公家政権の経済的基盤を弱めると同時に、頼朝とその後継者が君臨する武家政権の経済的基盤の確立、延いては軍事力の強化に繋がる一石二鳥の極めて合理的な軍事作戦だった。怜悧で合理的な頼朝の冷徹な政略が見てとれる。

東海・東山・北陸の3道を総勢28万もの軍勢を動員して奥羽に攻め上る藤原泰衡追討の大がかりな作戦行動は、真の目的「大天狗」後白河法皇の目から逸らすと共に、法皇と朝廷の公家たちを恫喝する一大示威運動でもあった。
いざとなれば、京にもこの軍勢で攻め上る。さしもの法皇も震え上がったことだろう。政治家?頼朝の真骨頂を示すものである。

頼朝が藤原家から没収した金資産と接収した産金施設は、公家政権に対する武家政権の優位を永続させる上での力の源泉となる。それは幕府の資産でなく、源氏嫡流累代の個人資産として引き継がれるべきものと頼朝は考えた。それが、北条時政とその息子義時を始めとする北条一族の不満を招いたと考えられる。頼朝の後半生を覆う影の最大のものは、北条一族との不和である。

頼朝が鎌倉幕府を開き征夷大将軍となったことは、北条一族の名誉と誇りだった。特に【石橋山の合戦】で嫡男宗時を失った時政の、その後の政治的野心を高める大きな要因になっていたと推察しても間違わないだろう。

【奥州合戦】が終わってみると、20年に亘る時政の頼朝への多大な貢献に対し、頼朝からの報償の何と少なかったことか。奥州合戦は、頼朝が北条氏の多年の支援と尽力に対する報償清算の最後の機会と、時政は内心思っていたのではないか?そもそも伊東祐親に命を狙われ、保護を求めて逃げ込んで来た頼朝は、時政や北条一族には窮鳥の立場だった。(誰のお陰で今がある?)・・・(世間知らずの御曹司は度し難い)と思ったことだろう。

時政は奥州合戦での戦利の分配のあまりに僅かなことに唖然とし、憤慨もしたことだろう。身内に冷淡な頼朝の自己中心性と酷薄さを改めて知り、自身の後継者義時の身をはじめ一族の行く末を案じたに違いない。

不満不安憎悪を招く。果たして、北条一族に、源氏嫡流政権を支える意義はあるのか?と時政は思い始めたことだろう。
地位・官位・知行に不足があり、更には頼朝の手に入れた藤原家の財貨の分配に与らなかった失望と不満は、時政の胸中深くに蟠ったことだろう。

奥州合戦の後、頼朝と舅時政との間に生じた溝は頼朝が亡くなるまで埋まらなかった。
旗揚げ以来、一族を挙げて頼朝を支え援け、頼朝ために命を懸けで働いたのはいったい何の為だったのか?時政の脳裡に泛かぶのは、【石橋山の合戦】で討死した凛々しい宗時の姿である。宗時は何ひとつ報われていない。その思いは、時政を捉えて離さなかったに違いない。

保元・平治の乱で祖父〈為義〉と父義朝が相次いで失った源氏の嫡流頼朝には、累代の家臣は居ないに等しかった。
庇護者〈比企尼〉の娘〈丹後内侍〉の夫の〈安達盛長〉と比企尼の甥で養子の〈比企能員〉のふたりが、流人のときから忠節を尽くしてくれていた家臣である。他に信頼すべき股肱の家人のいない頼朝にとって、姻戚の北条氏は唯一の後楯、支援組織であったはずである。

その後楯の頭領時政に対して、それまでの功労に頼朝はほとんど報いて来なかった。時政も北条一族も、腹に据えかねたことだろう。
御家人たちにとっては、恩賞と本領安堵は、頼朝からの御恩である。御恩と奉公とはギブアンドテイクの関係である。忠義という高い精神性で結ばれた君臣関係は、未だこの時代には成立していない。御家人たちに御恩を押し付ける頼朝は、自分に最も寄与してくれた時政への恩義を蔑ろにしていることに、気づかなかったのである。

平家の瓦解を見ている頼朝は、武家の主従の紐帯はさほど強固なものではないと考えていた。この頼朝のクールな合理性が、源氏将軍が三代で滅亡した主因であろう。
北条時政の精神構造は頼朝と違い、機を見るに敏であっても、合理性は持ち合わせていない。しかし先見性は優れていた。

頼朝の死後、嫡男〈頼家〉と次男〈実朝〉が将軍として立つも、それぞれ短期間で暗殺されてしまう。既に頼朝が生前に皇妃にと画策していた大姫は病死している。政子は自分が産んだ男児ふたりと娘を失い、源頼朝の血筋は絶えてしまった。

性急に築かれた権力は、瓦解も速い。栄華を誇った平氏の興亡のリフレクトのように、鎌倉に興った源氏三代の政権は滅び、権力は執権政治を採る北条氏へと移ってゆく・・・

素人の特権で妄想を逞しくして考察してみると、源頼朝は謀殺されたと思わざるを得ない。
①誰がそれを発案するか?②誰にその実行が可能だったか?③誰がそれで利益を得るか?の3点で検討すると、北条時政・義時父子に疑惑が集中するのは避けられない。

また、頼朝の死後3年経って、時政は長男宗時の菩提を弔いに、鎌倉から伊豆国北条(一族の故地)へ行っている。晩年(64歳)の時政の心裡に、若くして逝った宗時への不憫の念いが、募っていたのではないか?

平氏の知行地は全て御家人たちに分け与えられたが、【奥州合戦】後の藤原氏遺産は、実質的に頼朝ひとりのものとなった。北条一族への富の分与が無かったことが、頼朝の後継者たる頼家・実朝の災いの原因になったのではないか?またその後の、有力御家人(13人の合議制のメンバー)に対する排除の謀略は、具体的には、頼朝の遺産の分配をめぐって発生したものと見ることはできないだろうか?

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