道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

「埒」

2020年05月03日 | 人文考察
新型コロナウイルスへの対応ぶりで、日本は台湾や韓国に比べ、公的部門の機能組織の劣化が著しいことを露呈した。その根本的な原因は、権力に過剰に適応しようとする日本社会の特質にあると見る。それは日本人の属性というより、身分の固定化による長期の支配システムが、被支配者の民衆を恐怖により馴致し続けた結果と考える。日本人はほぼ700年近くの長きにわたって、「埒」の内で生活するよう、武士の恫喝によって馴らされた民族ではなかったか?

「埒」とは辞書で調べると馬場を囲う柵のこと。物事のきまった範囲、限界のことである。したがって「不埒」は柵がないこと、規範を無視して逸脱することである。また、馬が柵から放れ出ることを「放埒」と言う。勝手気ままで締まりが無いことである。それらは支配者にとって怪しからぬこと、不届きなことだった。

「不埒」は支配者が庶民に不快感を示す上目線の言葉だ。日本の庶民の権力への無批判・盲従は、この言葉への怖れから始まっているのではないかと考えている。

日本は鎌倉時代から明治維新までの約700年間、武士が実質的に、庶民を支配し続けて来た国である。有形無形に武士の価値観が庶民に投影され、庶民を拘束して来た。鎌倉時代に、本領安堵を唯一の目的として、将軍に一所懸命奉公した武士たちは、領内の農民の生活の安全を保証することと引き換えに、使役と兵役を課し年貢を取り立てた。

他所へ移動できない水田耕作農民は、武士の庇護がなければ安定した生活が成り立たない。武士と農民との相互依存(共生)関係は、その時代に始まり、戦国期へと続いた。

戦国といっても日本のそれは、西欧や東欧または中近東などのような、破壊と殺戮の殲滅戦は体験していない。武士は米作りを農民に依存している。合戦は農兵の動員可能な農閑期である。敵も味方も、田畑・家屋の破壊と非戦闘員の殺戮はしない。米の生産を喪失しては、元も子もないからである。

敵地を領有しても、耕作者がいなくては占領の意味がない。城が落ち、領主が変わっても、兵役を免れた農民の身体と田畑は無事である。命を張って闘うのは、武士だけの役割である。
所詮日本の戦国の100年は、諸外国にも例のない、コップの中の嵐だった。日本の武士は、コップの中で武張っていたことになる。

戦国時代にも、商業や工業に携わる人々や身分を超えて宗教的に団結した人々が、領主や寺社の支配を脱し、自治権を認められる例も僅かに見られた。しかしいずれも永続は困難で、最終的には、権力の支配に呑み込まれた。

戦乱を終息させた徳川幕府は、農民を兵役から解放した。しかしその負担の軽減分は、更なる年貢や夫役にとって替った。徳川政権は、当初武断政治を敷き、その後政権基盤が固まるに従い、中央集権的な専制政治を行った。

徳川政権は、江戸時代中期にその絶頂期を迎える。大名や天領の代官とその配下の武士たちは、事細かに農民の生活を管理し、庶民が自分たちの意思に少しでもそぐわないと、それを「不埒」と片付けた。「不埒」は無礼につながり、それを理由に、武士が庶民を即決処刑することすら許されていた。「不埒・無礼・不届き」などの言葉は、封建時代の武士たちが庶民を糾弾する際の常套語で、庶民はそれに怯えて暮さねばならなかった。しかし、上級階層の武士たちも、主君に隷属する点では、庶民と変わらなかった。

武士階級の学問は中国由来の漢学で、身分と年功による封建秩序を殊の外重んじる。武士たちは、民も自分たちと同様権力に隷従すべき存在と考え、その考えを庶民に押し付けた。徒党を組んだり、一揆を主導した者は、子どもや親族に至るまで処断された。江戸幕府250年の治世の間、庶民はお上に「不埒」と思われないよう、汲々として暮らすことに馴れ、習いは性と成った。

私は現代日本人の、諸国民と較べて特異な権力への盲従は、奥三河の辺境から出た、世界的な視野を欠く徳川武士政権の、民衆に苛酷な武断統治の影響に因るところが大きかったと見ている。この武士と農民や一般庶民との関係は、徳川幕府を倒して成り替った明治新政府の、旧武士身分の官僚や軍人にそっくり引き継がれた。それは旧の各藩制が、幕府を模範としていたからにほかならない。

明治政権の実質は、徳川幕府と変わらない武士の政権だった。政体は替わっても価値観と民衆統治の仕方は旧幕時代と変わらなかった。表向きは四民平等を謳う立憲君主制の明治政府は、武士身分を消滅させたが、封建時代の思想と中央集権志向は、そのまま官と民との関係において温存された。

政権配下の行政官僚・軍人・警官は、旧幕時代の民卑の意識をもって国民に接し続けた。徳川政権の統治観念を引き継いだ新政府は、近代市民としての意識に目覚めない一般国民に対し、天皇の臣民として政権に盲従することを求めた。

武士の武断政治は国内だけに向けられたものだったが、清国・ロシアとの対外戦争に勝ったことで自信をつけた明治政府は、外交にも武断主義を適用する。文字どおり武士の体質は一貫して武断である。

欧米列強に伍して富国強兵の近代国家づくりを急ぐ明治政府が、産業資本主義の下で軍国主義の基盤を整えるのは、自然の成り行きだった。

束の間の大正期には第一次世界大戦が勃発、漁夫の利を得て日本は好景気を迎えた。空疎な大正デモクラシーという、およそデモクラシーと似て非なる退廃の時代の足下を、ヒタヒタと軍国主義の潮が洗い始める。

1936年(昭和11年)の「2.26事件」以後、軍部(軍人官僚)は開明の政治家たちまで「不埒」でもって恫喝するようになり、結果として泥沼の日中戦争の時代を開き、停戦の機会を見出せないまま、太平洋戦争に突入する。最終的には昭和の戦争で軍民合わせ300万人以上が死ぬ悲惨な敗北を体験することになった。

戦後は米国統治の下における占領政策により、形は不戦の民主国家に生まれ変わったものの、10年もすると、庶民を蔑ろにする伝統的な旧思想の信奉者たちが復権し、民主主義の形式を装った旧来の統治システムが復活した。もともと民主の概念を夢想したこともなかった日本国民には、民主主義の精神は根付かなかった。

「不埒」の観念は、現代の保守的政治家とそれを支える官僚群すなわち政権組織に連綿と受け継がれている。批判を生理的に嫌悪する不寛容と、権力に従順で在ることを良民の本旨と見る封建思想は、今も支配機構の意識の底に脈々と受け継がれている。

批判に耐える勁さと現実対応への柔軟性を欠く権力ほど、体制に批判的な人々の意見・行動を「不埒」と極め付ける。権力にとっては、政権批判をせず黙々と勤勉に働き納税をする市民が理想である。イノベーションが生まれない直近の30年は、この政治的風土がもたらしているものと言えよう。

武士階級とその末裔が、敗戦まで国家を支配し続けてきたこの国では、庶民の骨の髄まで、武士の保守的価値観と強圧的な民衆支配への服従が刷り込まれている。それは支配されてきた大衆に被害妄想を植え付け、「埒」内での生涯を最善と捉える考え方を固まらせた。長いものに巻かれて自己を主張しない事大主義や事なかれ主義が、国民の意識の深層に定着している。

本来、若者は常識的な大人から見れば常に「不埒」な存在である。人間は羊や馬ではないから、自由を求めて柵の外での行動すなわち「放埓」を求める。青春とは「放埓」を体験する人生で一度限りの時期である。大人になるためには自ら省みて「放埓」権力者から見て「不埒」の時を、一度は過ごさねばならない。「埒」の外に出て、自由の有り難さと、それにつきまとう危険や非情との遭遇、さらには被害を体験し、同時に他人の援助や温情に触れる体験を積むことが大切である。人間が自立するためには、準備の時を経ねばならない。

世の中の大半の若者は、「埒」の内で大人になる。この社会に特有の、同調圧力と呼ぶものが、「埒」の外または「埒」の無い場所での経験を逸した、同質性を尊ぶ人々の集団に潜在するのは、ごくあたりまえのことである。人は規制を受け続けると、不寛容になる。

あらゆるスポーツや遊び事の起源が欧米に始まっているのは、彼の地に、若者たちの柵の外での経験を尊重する社会が存在したからだろう。それらの殆どは、若者たちの「放埓」から生まれている。決して道徳家や教育者たちからは生まれない。イノベーションもベンチャーも、担い手は若者である。権力・武力に隷従するばかりでなかったという自負を共有する社会は、子弟を柵内にとどめては置かないものだろう。父系社会というものの本質とはそういうものかもしれない。「不埒」や「放埒」を、民主主義のコストと考え許容する社会でなければ、それを自らのものすることは、永遠にできないだろう。


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2 コメント

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Unknown (nokoyacanna)
2020-05-06 12:49:42
同感です。
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Unknown (tekedon638)
2020-05-06 13:25:51
@nokoyacanna コメント有難うございます。
ご同感いただき嬉しい😊です。
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