道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

似て非なる叙情性

2019年07月09日 | 随想
日本人は情緒的だとよく言われる。もしそうなら叙情性は豊かであろうか?そうは思はない。情緒性と叙情性は一致しない。感情的であることと、叙情的であることは違う。感情を抑制できる意思の勁さがあってこそ、叙情は生まれる。感受はすれども感情に流されない勁さを秘めた思いが叙情である。
 
世界の民族を眺めて、ロシア人と日本人の民族音楽との間に多少の共通性があるとすれば、それはメロディの叙情性という点であるように思えるが、二つの国の住人の音楽性そのものは甚だしく違う。
 
ロシアの民族音楽が、広く日本人の
心を捉えていることはよく知られているが、日本の歌謡曲は決してロシア人に広まってはいない。しかし日本人作曲家の作ったポップスが、ロシアでヒットしたことが唯一ある。彼らは今も日本人の作曲と知らずにその曲に親しんでいる。1963年宮川泰が作曲しザピーナッツが歌った「恋のバカンス」がそれだ。
 
日本の演歌は感情に流される男女の心を歌う。情緒的である。ロシアの民謡は、情緒に流されない強靭さがある。敗戦し、敵に国土を蹂躙されたときに、民衆がパルチザンになって徹底的に抵抗するかしないかの違いが、両国民の叙情性の違いの源と言えよう。民族の本質は、戦勝でなく敗戦の時に顕れる。
 
これを異質な叙情性と言うほかはない。乱暴に分類すれば、彼は雄渾な叙情性・乾いた叙情性、我は嘆傷の叙情性・湿った叙情性、とでも言おうか。違いのポイントはリズム感にある。恋のバカンスがロシア人に広く受け入れられたのは、その曲が日本の歌曲に珍しく、リズム感に富んで、乾いた叙情性を有していたからだと思う。
 
短調を多用する叙情曲であっても、雄渾な叙情と嘆傷の叙情とでは、大きな違いがある。例えば「スラブ娘の別れ」は前者の代表曲、「荒城の月」は後者の代表曲であろう。日本の廃城は敗北の悲哀の象徴で、感傷が貼り付いている。ヨーロッパの廃城は、闘争・抵抗の象徴であり、不屈の闘志を呼び起こすモニュメントだ。
 
日本・韓国・中国に共通して民族音楽の根底を流れているものは、湿った叙情性である。それが、これら三民族の音楽の幅を狭めている要因のひとつではないかと思う。近代音楽に対する後進国三国に共通する湿った叙情性が、作曲には好ましくないバイアスになっているのではないか?
 
中国・韓国が世界的なヒット曲を生んだ話を聞かない。優れた演奏家は輩出しているが、作曲分野との跛行現象は三国に共通している。辛うじて日本のみが、僅かながら世界に伍する曲を生んできたが、西欧諸国との較差は甚だしく大きい。
 
音楽は作曲による創造の芸術であり、演奏と作曲は車の両輪である。演奏や指揮すなわちパフォーマンスの分野が脚光を浴び関心を集めても、作曲が振るわない限り、国際比較における音楽の後進性は改善しない。
 
作曲の能力は演奏の才能とは異質の天分が必要であり、早くからその天分を見抜き、才能を磨き育てるのでなければ優れた作曲家は育たない。どこかアスリートの育成に似るものがある。国を挙げ本腰を入れて作曲家を育てるのでなければ、音楽の後進性は今後も続くだろう。

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