毎春満開の桜を見る度に必ず脳裡にうかぶ一首がある。
「明日ありと思う心の徒桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
親鸞9歳のときの作とされている。初めてこの歌を知った20代の頃は、これを自分に都合好く解釈し、楽しいこと面白いことを他に優先して実行する口実にしていた。
若者には多かれ少なかれ客気というものがある。人生経験の乏しいその年頃は、展望のきかない未来や不確実な将来に期待と希望をつなぐより、今を楽しむ刹那主義や、実行しないで後に悔むより失敗しても成否の明らかな今に賭けたい勢いがあったのだろう。
と自己弁護はするものの、今思うと、洵に慚愧に堪えない身勝手な曲解だった。その挙げ句、30歳を前に明日をも知れぬ病に見舞われ、歌の真意を心底から実感することとなった。人生というものが、ほとんど神慮に与っていることを肝に銘じたときだった。
健康を回復しその有り難さを痛感したのも束の間、安寧の日々が続けばそこは凡夫の悲しさ、無常の世にあることをつい忘れてしまう。
桜花爛漫のこの時だけが、日頃念頭を去って顧みることがないこの「徒桜」の二文字を思い起こさせてくれる。
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