私が人文考察という語を好んで使うのは、それを自然観察の対極と捉えているからである。私の日常は自然観察と人文考察の両輪で成り立っている。
したがって、当ブログの記事も、基本的には自然観察と人文考察で成り立っている。
自然の観察では、対象を見た直後に調べることが多いが、人文の考察では、資料を集め読んだり、現場を視察した後で調べたり考えることになる。考察は観察よりは時間が掛かる。
人文考察は、朧げにわかってくるまでに手間がかかる。どうしても、あらゆる角度から考えてみるのでなければ、理解できない。深掘りでない、浅い素人の考察であっても、人文考察は渉猟の形を取る。
人は旅を好むようになると、自然の風物に負けない膨大なボリュームの、過去から現在に至る人間社会の弛まざる営為が生んだ文化的所産の偉大さを知る。そして、人文考察の重要さを痛感する。
山旅で立ち寄った山里の歴史や民俗、芸能や技能技術などの伝統文化に触れた時の新鮮な驚きは、自然の中で何かを発見した時と何ら変わらない。そして視点をそのまま山里から常に身を置く都会に移せば、また其処に都市の歴史をはじめ、多彩な人間文化の積層を認め、其処から何かを探り出す楽しみが湧き出る。
欧米の人々は、学問の基礎がギリシャに始まる Liberal Arts、特にその中の哲学にあることを知悉している。
明治になって近代科学を急ぎ摂り入れることを迫られた日本では、欧米の学問が、人文学から自然学へと段階的に発展拡充した歴史的機序を無視し、基礎科学たるLiberal Artsを軽視した。時代的要請度の高い専門性の高い自然科学や社会科学などの実用科学に偏って大学の教育と研究を推し進めた。それが戦前戦後を通じて、日本の教育の根底に横たわる学問の構造的欠陥をもたらしている。欧米と比較したとき、人文科学研究の遅れは甚だ大きいと言わざるを得ない。
欧米各国に比べ、政界・官界・産業界の指導層に人文学の基礎的教養が乏しいのは、その構造的欠陥がもたらしたものである。日中戦争が始まる前に、それを由々しき問題と気づくべきだったのである。
現在の日本の政治家たちに、肝胆相照らす外国人の政治家が乏しいのも、日本の政治家の多くが社会科学に偏り、人文科学の素養に乏しいことが要因として挙げられている。明治以後100年のブランクは大きい。
いや100年どころか、啓蒙主義・啓蒙思想の洗礼を受けず来た200年の方がより大きいハンディである。
自然観察と人文考察は、個人にとってどちらも大きな意味がある。人間にとっては車の両輪とも言えるものである。
人文考察において、人間というものを知れば知るほど、その多様性に驚嘆させられる。人間という文化的存在の大きさは計り知れない。
私たちは今、改めて学問の進化の原点に立ち帰り、その機序の意味を検証し、近代日本社会が無視したり除外した分野の空白を埋める必要に迫られていると痛感する。
人は情理兼ね備えるのが理想である。そうありたいが、実現はなかなか難しい。両輪兼ね備え整合した人に会うことは極く稀だ。
日本の高等教育は、近視眼的専門家養成のため、文理分割教育に偏向したが、人材育成という観点からは、西欧の伝統に則る文理統合教育のほうが、社会的に得るところが大きいのではないか。文理分割教育は短期的には成果を上げることができるが、長い目で見ると、社会的に損失が大きい。物事は情の裏に理が貼り付き、理の裏に情が貼り付いているもので、これを知悉していなければ正しい判断は下せない。
その弊害の最も大きく現れるのが、政治家の能力差で、文または理の一方だけの分割教育で蓄えた知識は甚だ偏頗で、政治的判断力の拙劣を招いている。苟も選良として国政をあづかる人々は、文理統合教育を受けている必要がある。フランスの教育制度と文化が養成した政治家というものは、好個の模範と言えるだろう。ドイツをはじめ西欧諸国も、総じてフランスに近いようだ。
今日の日本の停滞の主因は、文理分割教育の弊害に帰すると確信しているが、世の中には大学での人文科学不要論を叫ぶ近視眼的な勢力の声も大きく、憂慮に堪えない。
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