天竜川を河口から約50km遡ると、支流の水窪川との合流点に西渡(にしど、地元ではにしんど)という名の地区があります。〈浜松市天竜区佐久間町大井西渡〉がその場所です。
其処は、信州伊那谷を南流してきた天竜川が、浜松市天竜区佐久間町川合地区で流路を大きく東に変え、約5キロ流れ再び南に向きを転ずる屈曲地点にあたり、1000mを越す峰々に挟まれた峡谷です。この特異な流路の屈折は、天竜川の地下を南西から北東方向に断ち切る〈中央構造線〉で生じた、約60kmにも及ぶ左横ズレ断層に因るものと見られています。
〈西渡〉は古くから山と海とを結ぶ天竜川水運の山側の拠点で、物資の集散地でした。対する海側の拠点は、遠州灘に面した河口の〈掛塚湊〉、現在の〈浜松市東区掛塚町〉にかつてあった湊です。掛塚湊は砂の堆積によって埋まり、現在その地に湊の面影はありません。
昭和の20年頃までは、掛塚湊から荷を運ぶ上り舟が大きな帆を張り、流れを遡上していました。天竜川は河口から西渡まではほぼ直線状で、川幅は広く流れは緩やか、南からの強い海風と谷風を利用して帆走できたのです。
西渡は浜松方面からの上り舟の終着地であると共に、上流伊奈・飯田方面からの下り舟や筏流しの中継地として、上・下流にダムができるまでの長い年月の間繁栄しました。西渡の人々はこの〈川湊〉を浜と呼んでいました。
西渡の浜で陸揚げされた荷は、ここから集落の馬力(荷駄)と人力(浜背負と呼ばれていました)で、距離約800m、高度差約250mの通称〈八丁坂〉と呼ばれる急坂を、荷継ぎ場の〈明光寺峠〉まで運送されました。浜背負はもっぱら婦人の仕事で、60kg以上の背負子を担ぎ、日に数往復することもある重労働でした。
男性は時代に応じて林業・木材加工・舟筏運送・鉱山勤務(隣接する久根に鉱山がありました)のいずれかに従事していました。
峠の荷継ぎ場で荷は馬に積み替えられ、下り道を水窪まで運ばれました。其処から先の運送も、荷駄で〈秋葉街道〉を辿り、難所の〈青崩峠1082m〉を越え信州遠山郷へ運ばれました。三河方面からは〈秋葉街道〉と並行して天竜川右岸(西岸)を飯田に向かう、荷駄専用の〈中馬街道〉も通じていました。
〈西渡〉の人々は、〈川湊〉が消滅した現代でも、かつての陸揚げ場を浜と呼んでいます。この事実に私は強い興味を覚えました。おそらく〈西渡〉に集落ができた大昔から、そう呼ばれていたのではないかと思いました。
山地であっても、舟が着く場所を浜と呼ぶのは、山で暮らす人々が、海の民の末裔であることを示すものかも知れません。
山地に生活の場を移しても、遠い昔(旧石器時代?)に列島の海辺の浜に上陸し、浦(後述)に居住して生活を営んだ海の民の末裔には、先祖伝来の言語感覚が生きているのでしょう。
遠く古い時代から、天竜川は河口の掛塚と山峡の西渡とを結ぶ主要交通路の役割を担ってきました。この大河は、近代になって鉄道や道路など内陸交通が整備されるまで、山地と海辺に別れ住む人々を繋ぐ、唯一の交通路でした。
戦後にダムが出来、物理的に舟が通行できなくなるまで、天竜川筋の川舟運送は続いていました。江戸時代初期には、西渡やその上流からの木材やその加工品榑木(屋根葺材)が、〈掛塚〉を経て江戸に大量に輸送されていたことが記録されています。〈掛塚湊〉から〈西渡〉へは、もっぱら生活物資や林業資材が運ばれていました。
ここ〈西渡〉を中心とする三遠信国境の山岳地帯には、海抜500mから1000mまでの尾根筋に、高所集落と呼ばれる集落が数多く散在しています。
高所集落は国内では珍しい存在で、近世まではあまり世に知られていませんでした。近代になって、沖積低地の稲作文化とは異質の生活文化が脚光を浴び、注目されるようになりました。柳田国男や宮本常一など、民俗学の専門家が多く現地を訪れ、研究しています。
この三遠南信地域の高所集落は、おそらく天竜川の水路運送と深い関わりがあったのではないかと思われます。この地域に散在する高所集落は、西渡の川湊の存在と天竜川があってはじめて存立できていたのではないかと私は推測しています。
木材の生産と輸送に関わる生業は、それに必要な業務資材と生活物資の安定した供給があってこそ成り立つものでしょう。生産活動さえ活発であれば、山中での生活に支障はありません。山林業務は職住一体、生産物と共に在るのが原則です。高所に集落を営むことに合理性があればこそ、長い時を累ね繁栄して来られたのでしょう。
集落といっても広大な平野部のそれとは違い、数戸から最大でも100戸まで、多くは数10戸単位の集落が、共通する氏神のもとに共同体を形成し、生活に芸能に祭祀に、永い年月をかけて独自の文化を育んで来たものと思います。
高所集落は、弥生時代以降にこの国に定着した低地の水田稲作文化とは異質の文化を永く保ってきました。其処は日本人の根源を考えるうえで、極めて重要な文化的遺産の集積地と言えます。そうであるからこそ、民俗学の研究者たちは挙ってこの地を訪れたに違いありません。
高所集落の由来を、〈落人〉とか〈木地師〉とか〈修験者〉に求めるのは、採るに足らない俗説です。そのような漂泊の人々は、山地で生活基盤を確立し経済価値のある生業をもって世代を累ねてきた高所集落の社会とは、接触はあっても無縁でした。生産をしない漂泊の人々は、集落に立ち寄ることはあっても、共同体の生活に溶け込むことはできません。
自分たちとは異なる生産形態と生活文化をもつ集団の住む処という認識が、高所に住む人々に対する誤った認識を生んだのは、米の生産を経済の基盤とする農本主義が確立されてからのことでしょう。水田稲作農業を本道と考えるこの思想は、稲の生産の拡大と流通が発展した江戸幕藩体制以後のものと考えています。
ここからは、文献史料は勿論、考古学的史料もほとんど無い先史時代の日本列島を眺め、高所集落の成り立ちを考えて見たいと思います。
高所集落がこの国に初めて出現したのは、今よりも気温が高かった時代と推定されます。それは相当古く、一万年以上前まで遡れそうです。
その当時の日本列島の沖積平野は、生活の場にも生産の場にも全く適していなかったと推測できます。後に水田地帯に成る列島低地の平野部には、ガマ・ヨシ・マコモなど水生植物が濃密に生い茂り、人が入り込めるような場所ではなかったようです。神話で原初の国土を謂う〈葦原中国〉(あしはらなかつくに)とは、そのような水生植物の生い茂る原始の国土景観を示す言葉でしょう。其処が水稲の栽培に好適として開墾改良されるのは、数千年も時代が降る縄文後期に、稲と鉄製農具を携えた人々が来着してからの事と思います。
縄文の時代以前に列島に来着した祖先たちの生活の場は、先ず海辺の浦々から始まったと考えられます。
いつの頃か、舟で初めて列島に到着した海辺の生活者たちは、先ず浜に上陸し、浦に生活の本拠を求めました。浦とは海が陸地の中に入り込んでいる地形のことで、浜と磯そして背後の岡とで成り立っています。浜を挟んで両側の磯と背後の岡で三方を囲われた地形が浦です。岡の麓には地下水が湧出しています。真水が得られ、舟を引き揚げる浜があり、風を避け眺望が効く岡のある、安全な生活立地が、浦という場所です。
この国に舟で渡来した人たちの原初の居住地が浦であったのは間違いないでしょう。浦々に定着した海の民は、もともとの原住地で代々海に潜り、舟で乗り出し、漁具や釣具を使って魚介を獲る技に長じていた人々だったと推定できます。
海上交通に熟れた人々にとって、河川は海の延長でした。川は海と同様魚という食糧が容易に調達できます。舟は彼らに最適の乗物であり漁撈具であり、唯一の交通輸送手段でした。急流であっても、時には舟を綱で曳き、時には担ぎ上げて、川や沢を遡る人々だったと思います。
浦々の集落の人口が増えてその地の食料生産力を上回ると、人々は海と繋がる河川を遡り、上流の河岸段丘や扇状地などの可住地に点々と生活の場を移していったと思われます。河川を舟で遡る移動は、食料の確保の容易さと運搬量の点で、陸路での移動とは大きな差がありました。既に海辺に進出する余地がなくなれば、川を遡るのは必然です。
かつて先祖たちが小さな舟で大海に乗り出したことから見れば、川を遡行するのは、遥かに危険と困難の少ない旅でした。そもそも列島に渡ってきた理由も冒険などでなく、原住地での人口増加か戦乱に因る難民化のどちらか、止むに止まれぬ事情があったことと思われます。
各地の海辺の浦々から、生活資材を載せた小舟が船団を組んで河川を遡り、より上流の内陸部に新たな生活拠点を求めたことでしょう。その当時に舟で遡上できた最奥地が、天竜川の場合は西渡だったと思われます。西渡の川湊は高所集落への物資の供給拠点となった可能性が高く、その供給力の大きさが、全国の他の山岳地域の集落よりも高い標高に集落を営むことを可能にしたのではないでしょうか?
遡上の限界地点に初めて達した人々は、更に尾根や沢を伝って高度を上げ、住み好い生活に適した場所を探したことでしょう。そして、かつての居住地の浦とよく似た地勢を、山の中に見つけ出した思われます。
背後の尾根が風を防ぎ、泉や小沢があり、しかも陽当たりが好く傾斜の緩い南垂れの地形。彼らは次々と、生物相の豊かな落葉樹林帯の山地の中に浦を見出だし、居住の場に定めたことでしょう。気温が今より2・ 3度ほど高かった当時は、現代よりも、快適な生活環境だったと思われます。
私たちの先祖は、海でも山でも極く似た地勢を選び、その場所に土着し
て集落を営んで来たのではないでしょうか?海辺を生活の場にした人々は漁を行い畑を耕し、山に生活の場を求めた人々は、木を育て加工し、狩猟と採集及び焼畑で生活を営みました。この時代までは、海辺で暮らすのも山地で暮らすのも、決してかけ離れた生活ではなかったと思います。海幸彦・山幸彦の神話は、事実に則って生まれた寓話かと思います。
幾世代にも亘り川を遡る旅は恒常的にくりかえされ、山地の尾根筋の可住地に集落が増えていきました。尾根通しの道が開かれ延びるに従い、高所集落同士の交流も発展したことでしょう。尾根伝いの道は、高所集落を繋ぎ、各地に張り巡らされていたことでしょう。
山地での生活の基盤は、近代では榑木など木材の加工品生産と狩猟(これは山の害獣駆除に欠かせません)、雑穀などの栽培でした。そこに至るまでに、どれだけ山での生活史が繰り返されたことか想像もつきません。集落間の往来は増え、尾根伝いの交通路は時代を累ねるごとに延びてゆきました。それに応じて、河川交通もより一層発達したことでしょう。
水田稲作農業が入ってくる時代より前の日本人の生活圏というものは、海と山とを連結するあらゆる河川によって、拡張発展していったものと思います。海辺には海湊、山峡には川湊があって、物産の交易流通は現代の私たちが想像するより遥かに広範かつ大量に行われていたとみてよいのでないでしょうか。平野部を進歩、山地部を旧陋と見る見方は、間違いなく水田稲作以降のもので、それまでは、海山は常に同期を保って発展していたと見て良いでしょう。
国土に自動車交通網が整備され、河川はダムで寸断され、産業が平野部に集中した今日、高所集落が限界集落化することは、防ぎようがありません。人々は現代社会にマッチした生活を求めて、伝来の集落での生活を棄て、都市に移住します。その流れの急速さは、過去になかったものでしょうし、誰もその流れを止めることはできないでしょう。
日本列島における数千年の人間の生活史を今日に伝える大切な文化遺産が、小規模で分散しているが故にひっそりと次々に朽ち果て消滅してゆくのを、手をこまねいて見ているのは、なんとも惜しい限りです。建造物でなく、奇祭や芸能でない、生活史そのものを後の世に伝え遺すには、何よりも現代の都市に暮らす人々の理解と関心が必要かと思います。
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