上田城は知謀の将といわれた真田昌幸によって、天正11年に千曲川の右岸段丘の断崖上に築かれた。
1次、2次にわたる上田合戦において、この城に籠もった真田勢は寡兵をもって徳川の大軍と善く戦い、いずれにも勝利(1次は大勝)している。昌幸と信之・信繁(幸村)の父子はこの戦いによって戦国の世に勇名を轟かせ、大名への道を拓いた。
昌幸の築いた城は、関ヶ原の合戦の後に徳川氏によって破却され、現存する城は寛永年間に上田藩主となった仙石氏によって再築造されたものという。再築造とはいうものの、昌幸の縄張りの基本構造は仙石氏によって活かされたことだろう。武将として、かつて自分が攻めあぐんだ堅城の長所を改める合理的は理由はない。
特に感服したのは、城の南の断崖に面した長方形の本丸を、西・北・東からコの字型に囲う水堀だ。城の北側の山地から流れ出て段丘を潤すいくつかの小川からの水を堀に引き入れることで、平坦な段丘面に続く本丸後背の防御上の弱点を補強している。堀の水面は、本丸直下の千曲川より約10mは高い。
真田昌幸という武将の卓抜した能力は、世に知られた領国経営、外交、戦略、戦術ばかりでなく、城の縄張りにもいかんなく発揮され、後世に伝わる籠城戦での活躍にも発揮されたのだろう。
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