道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

近江の歴史探索行 【深坂古道】

2017年08月19日 | 旅・行楽

若い頃から、峠路を歩くことが好きだった。

汗をかきかき一歩一歩高みに向かって歩を進めると、前夜宿った村は徐々に谷の底に沈み、往く手の稜線が迫り来る。

胸突き八丁をなんとか登り切れば目前が急に開け、稜線の鞍部、峠に出る。人や荷駄、時には山の獣も、山越えの労が最も少ない峠で稜線を乗り越える。峠は自然と人間との接点でもある。

峠に至れば、誰もがその日の行程の半ばをこなした安堵感を覚えた。旅人は、眼下に霞む今宵の宿の在るあたりからその遥か先の、山と空の接するあたりまでの眺望を存分に愉しむ。

峠が旅情を唆るのは、其処が時間と空間の両方を分かつ場所であるからだろう。旅人はその場で来し方を懐かしみ、往く手に期待を膨らませる。

今回の「近江の歴史探索行」の目的地は「深坂古道」。奈良・平安の時代、近江と越前を結んでいた主要道塩津街道の難所深坂越え(塩津山)の道である。深坂峠は標高370m、この峠を挟む南北約4.5km(現状3.8km)の区間を、人は深坂越えと呼んだ。

長徳2年(996年)、紫式部の父藤原為時は、念願の越前の国司に任ぜられた。娘を伴って任地である現在の武生市の国府に赴いたときは、この峠を通らず別の道を選んだようだ。

その時紫式部は、都を慕う歌をいくつか遺している。都育ちの貴族の娘にとって、辺鄙な未知の遠国へ下向するのは、どんなに哀しいことだったか知れない。

二年後、紫式部は父を越前に残して都に帰る。その時初めて、この深坂越えの難所を通った。後出の歌は、その時に詠んだもの。まだ藤原宣孝と結婚する前の、娘時代をおえる頃のことだった。

車窓から余呉湖が見えると、間も無く電車は近江塩津の駅に着く。この駅で北陸線と湖西線は分岐する。乗り換え駅だから乗降客は少なく、駅員がひとりいるだけの寂しい駅だった。売店、案内所などは無論ない。

駅舎を出ると、往時は琵琶湖水運の拠点として殷賑を極めたという「近江塩津」の町に人影はなく、あたり一帯はセミ時雨に包まれ、謐りかえっていた。敦賀に通じる国道8号線の街道を、トラックが切れ目なく驀進していた。

運良く便数の少ないバスの発車時刻に間に合い、古道起点の近江鶴ヶ丘バス停で降りた。

往昔、街道の荷物の積み替えに携わった問屋場の跡を過ぎると、古道の趣きがいやましに深くなる。

木立の中のゆるやかな道を登って行くと、いつの間にか道脇に細い流れが並行し、涼しげな水音を立てていた。人馬行き交う峠路は、水の便が最も大切だった。しばらくは気持ちのよいプロムナード歩きを楽しんだ。

近江と越前を結ぶ運河開鑿に着手して挫折した平清盛・重盛父子ゆかり深坂地蔵(別名堀止地蔵)で小休止。ちょうどこの辺りが分水嶺(平坦なので分水面?)なのだろう。泉が湧き出ていて、それは来た道に並行していた細流の源であるらしい。

この先の峠までの道は屈曲しているものの平坦で、それと気付かず峠を越していた。山頂部が高原地形だったようだ。標識があったのだろうが見逃してしまった。

越前側へ下る道は、此処までの道と様相が一変する。両側の山脚がV字に接する山道は、露岩の上に落ち葉が厚く積もって頗る歩き難い。多分この辺りが、敦賀から近江に向かう旅人の、最悪な難所だったのだろう。

万葉の歌人、笠朝臣金村の歌碑が現れた。

「塩津山 打ち越えければ我が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも」

足もとに注意しながらさらに降ってゆくと、道は渓流と出合った。此処からは、渓流に沿ってゆるやかに標高を下げ、道幅も次第に広まっていた。

流れを背にして紫式部の歌碑があった。歌碑というより、ただの立て看板に過ぎないが・・・

「知りならむ 往き来にならす塩津山 世に経る道は からきものぞと」

輿を担ぐ従者たちに「何度歩いても歩きにくい道だなぁー」と言わせるほど険しい山路であったことがうかがえる。深坂峠は当時塩津山と呼ばれていた。

幾度も橋を渡り、青苔に覆われた道に勾配がなくなると、森が切れ田畑が現れた。小広い空き地に「深坂古道北口」の標示板があった。

アスファルト舗装の道路に出た途端に気温が上がり、暑さで眩暈がした。それまで森の中で涼しかったのだ。熱中症はこういう場面で発症する。

深坂の集落を通り抜け、古代「愛発(あらち)の関」があったあたりと伝えられる新疋田駅に着いた。関の発掘調査は続いているが、未だに関跡は見つかっていないらしい。

これだけ探していて見つからないところを見ると、鉄道工事で失われてしまった蓋然性があるかもしれない。文化財が出るのは、工事にとっては進捗の妨げ、工事関係者には歓迎されないものだろう。

歩いてみてわかったことは、深坂越えは、敦賀からの登り標高差250mが旅人に難儀を強いたものの、峠の南側は距離1.5kmで標高差120mを降る、人馬に優しいなだらかな坂道。塩津から大津へは船旅だから、旅人は峠さえ越えれば、ほっとして都が身近に感じられたことだろう。

因みに、新疋田駅は福井県敦賀市、近江塩津駅は滋賀県長浜市浅井町に所在する。


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