このように断言することで時折反対や異議のリプを頂く。この断言に特に深い意味はない。
つまり、どう思うかは其々の自由である。学問としてのカテゴライズに私自身が重きを置いていない。
だから異論のリプの方と議論を戦わせることも本題からズレるのでしたくない。寧ろ歓迎の気持が大きい。
次のようなリプを頂いたのでブログとして掲載させて頂く。
『確かに日本文化の根底には多少なりとも存在しゆるのかもしれないけど、古代から中世にかけて仏教と神道で宗教対立、宗教論争はあったわけだし「神は仏の本当の姿だ」(本地垂迹説)なんて言いがかりをつけて布教をしたくらいです。ちなみに上記の真逆で反本地垂迹説なんかもありましたどの時代も宗教論争は絶えませんねぇ』
との彼の主張は宗教対立、宗教論争として表現される歴史学の印象からくる操作によって宗教として対立しているから宗教である。
とのいささか乱暴な論拠であるが、どうやら神道や宗教に対峙するその者の姿勢で如何様にも解釈出来ると言うことも可能となる。
久米邦武は近代歴史学の先駆者で、
「神道ハ祭天ノ古俗」
神道とは自然崇拝(アニミズム)に属する古くからの習俗であって、教条的な宗教ではない、との主張があった。
これは当時の神道を挑発したものだが、久米邦武筆禍事件として、教授職を辞するまでになった。
つまり久米邦武は左派的視点から神道は宗教でないと断言しているが、宗教学の主流と真逆であることはとても興味深い。
神道は宗教であるとする学界と左派は政治的なある一点でその主張を曲げないだけに過ぎない
ここで少し神道の歴史を振り返ると
自然崇拝に属する古来の習俗が宗教であるならば伝来してきた時点で対立するなりし、どちらかが衰退していったことは想像に難くない。
しかし、奈良時代以降、神仏習合が進み、神仏をともに融合するための理論として本地垂迹説が唱えられる。
神道を宗教のように見せたいという願望によって生まれた訳で、様々な解釈が存在した。
江戸時代にはいると、儒家神道というのが唱えられるが、神道と儒教をいっしょにしようとするものだ。
このように仏教や儒教といっしょにしないと、神道は宗教とはよべないものであり、寧ろ宗教である方向を望んでいた。
江戸時代後期になって、平田篤胤という国学者が登場して、復古神道を唱える。
復古神道とは、神道を仏教伝来以前の姿にもどせという主張だが、仏教伝来以前の神道はアニミズムであり、平田一派があれこれと創作をした珍奇な宗教との批判がある。
平田篤胤が唱えた排他的な国学と神道が、幕末の尊皇攘夷運動の思想的背景となった関係から、明治はじめに神祇官となったものは、平田篤胤の信奉者だったといういきさつがあり、弾圧された仏教側からは疎ましいであろう。
明治の王政復古によって、奈良~平安時代の律令制の官制が復活すれば、当然、混乱が生じる。
このときに、神祇官という官職が復活し、高い地位を得ることになるが、神祇官に就任した国学者たちは神道の国教化をすすめ、神仏分離令を出して廃仏毀釈を主導した。
制度としての神祇官はすぐに廃止されたが、神祇省、教部省と名前をかえて、神道の国教化を継続 し、国教化する以上神道は「宗教」でなくては困るということが神道に対峙する他宗教の考えである。
神仏習合により奈良期以降、伊勢神宮にさえ神宮寺が存在したが、「神宮祭主職舎本館」といい、廃仏毀釈の時に廃寺となった「慶光院」という尼寺の境内地と建物を伊勢神宮が買い取り、明治5年に神宮司庁の庁舎となった。
歴代天皇が伊勢神宮に御親拝することは1000年以上なかったが明治天皇より再開されている。
「国家神道」は広義には神道的な実践を国民統合の支柱とするものであり、
明治政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示した。
つまり右派は明治政府の解釈と神道を支持しているのであって、この時の神道に対峙する、出雲大社、仏教、一神教
戦後明治政府、神道、皇室を否定し貶める上記の残党、左派、学界にとっては政教分離の立場から「神道は宗教である」との久米邦武とは真逆の主張になるのである。
故に、神道は宗教であろうが無かろうが唯一言えるのは皇紀2675年皇室と神道は日本人と共にあり、国教たり得たただ一つの教えだろう。
「神道ハ祭天ノ古俗」
『神道は宗教にあらずなのだ』
つまり、どう思うかは其々の自由である。学問としてのカテゴライズに私自身が重きを置いていない。
だから異論のリプの方と議論を戦わせることも本題からズレるのでしたくない。寧ろ歓迎の気持が大きい。
次のようなリプを頂いたのでブログとして掲載させて頂く。
『確かに日本文化の根底には多少なりとも存在しゆるのかもしれないけど、古代から中世にかけて仏教と神道で宗教対立、宗教論争はあったわけだし「神は仏の本当の姿だ」(本地垂迹説)なんて言いがかりをつけて布教をしたくらいです。ちなみに上記の真逆で反本地垂迹説なんかもありましたどの時代も宗教論争は絶えませんねぇ』
との彼の主張は宗教対立、宗教論争として表現される歴史学の印象からくる操作によって宗教として対立しているから宗教である。
とのいささか乱暴な論拠であるが、どうやら神道や宗教に対峙するその者の姿勢で如何様にも解釈出来ると言うことも可能となる。
久米邦武は近代歴史学の先駆者で、
「神道ハ祭天ノ古俗」
神道とは自然崇拝(アニミズム)に属する古くからの習俗であって、教条的な宗教ではない、との主張があった。
これは当時の神道を挑発したものだが、久米邦武筆禍事件として、教授職を辞するまでになった。
つまり久米邦武は左派的視点から神道は宗教でないと断言しているが、宗教学の主流と真逆であることはとても興味深い。
神道は宗教であるとする学界と左派は政治的なある一点でその主張を曲げないだけに過ぎない
ここで少し神道の歴史を振り返ると
自然崇拝に属する古来の習俗が宗教であるならば伝来してきた時点で対立するなりし、どちらかが衰退していったことは想像に難くない。
しかし、奈良時代以降、神仏習合が進み、神仏をともに融合するための理論として本地垂迹説が唱えられる。
神道を宗教のように見せたいという願望によって生まれた訳で、様々な解釈が存在した。
江戸時代にはいると、儒家神道というのが唱えられるが、神道と儒教をいっしょにしようとするものだ。
このように仏教や儒教といっしょにしないと、神道は宗教とはよべないものであり、寧ろ宗教である方向を望んでいた。
江戸時代後期になって、平田篤胤という国学者が登場して、復古神道を唱える。
復古神道とは、神道を仏教伝来以前の姿にもどせという主張だが、仏教伝来以前の神道はアニミズムであり、平田一派があれこれと創作をした珍奇な宗教との批判がある。
平田篤胤が唱えた排他的な国学と神道が、幕末の尊皇攘夷運動の思想的背景となった関係から、明治はじめに神祇官となったものは、平田篤胤の信奉者だったといういきさつがあり、弾圧された仏教側からは疎ましいであろう。
明治の王政復古によって、奈良~平安時代の律令制の官制が復活すれば、当然、混乱が生じる。
このときに、神祇官という官職が復活し、高い地位を得ることになるが、神祇官に就任した国学者たちは神道の国教化をすすめ、神仏分離令を出して廃仏毀釈を主導した。
制度としての神祇官はすぐに廃止されたが、神祇省、教部省と名前をかえて、神道の国教化を継続 し、国教化する以上神道は「宗教」でなくては困るということが神道に対峙する他宗教の考えである。
神仏習合により奈良期以降、伊勢神宮にさえ神宮寺が存在したが、「神宮祭主職舎本館」といい、廃仏毀釈の時に廃寺となった「慶光院」という尼寺の境内地と建物を伊勢神宮が買い取り、明治5年に神宮司庁の庁舎となった。
歴代天皇が伊勢神宮に御親拝することは1000年以上なかったが明治天皇より再開されている。
「国家神道」は広義には神道的な実践を国民統合の支柱とするものであり、
明治政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示した。
つまり右派は明治政府の解釈と神道を支持しているのであって、この時の神道に対峙する、出雲大社、仏教、一神教
戦後明治政府、神道、皇室を否定し貶める上記の残党、左派、学界にとっては政教分離の立場から「神道は宗教である」との久米邦武とは真逆の主張になるのである。
故に、神道は宗教であろうが無かろうが唯一言えるのは皇紀2675年皇室と神道は日本人と共にあり、国教たり得たただ一つの教えだろう。
「神道ハ祭天ノ古俗」
『神道は宗教にあらずなのだ』