独善的ナショナリズムは村山談話の一節の中で使われた語句である。
『敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、".独善的なナショナリズムを排し"、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。』
独善的とは他人のことは気にかけず、自分勝手なさま、であり自己中心的なことを意味する。
ナショナリズムとは民族主義、国家主義、国民主義、国粋主義と訳され多義的である。
文面に於いて『敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、』それを排す訳であるから、戦前こそが独善的ナショナリズムであったことが伺える。
もう一つこの談話の矛盾点は"敗戦の日"としている所である。通常"敗戦"の反省は勝つ為にするものであり、"終戦"の反省こそが戦いを始めないとの意味となる。
つまり、戦前の日本は完全に負け戦後は全く別物の日本であることを強調せんがための敗戦であり
、ポツダム宣言受諾の葛藤や「一番長い日」など無視し、あの終戦のご詔勅など無かったことにしたい、との魂胆が透けて見え極めて自虐的と言えよう。
要するに戦後50年に於いてもまだ続ける反省はそれを排しきれていない証なのであり、この自虐史観が与えた影響は甚大であることも腑に落ちる。
確かにそうやって靖国と右翼が世の中の右隅に追いやられたことは言われなくとも理解は容易だが、70年を過ぎて戦後レジームの脱却を掲げる安倍政権を右傾化と呼び、その者達はネット空間の右派的、保守的言論を『ネトウヨ』としてレッテルを貼り排そうとした。
つまり、冒頭の民族主義、国家主義、国民主義、国粋主義等が独善的かどうかよりも、談話で言われている所の"独善的ナショナリズム"が指すものそれは"戦前体制"であり、あの50年時点で排しきれていないのである。
もうお気づきであろうが、国民広く知る事となった天皇陛下のお言葉を「生前退位」とし、民進党野田氏を始めとする、小林よしのり氏、高森明勅氏などの恒久的退位の定年化、女性宮家創設こそが皇統を断絶する策略であり、「戦前体制」國體の破壊へと繋がる布石なのだ。
中韓の歴史認識問題と連動する村山談話、河野談話を事実上継承しながらも國體を護持しようとする安倍政権に対する風向きは国民の支持率とは裏腹に強くなり、野党が共闘してまで安倍政権へ向かっている。
歴史問題と並行して國體問題、靖国問題などの結論は未だに出ていないが、自民党保守である安倍首相は国民の声と皇室への想いを先導し粛々と大胆に健全なナショナリズムを取り戻している。
歴史観を歴史家に判断させる安倍政権の政府見解は未だに下記のような状態であるが、DHCやアパホテルの問題、様々な保守言論人の活躍で少しづつ国民の歴史認識は変わろうとしている。
政府見解の限界
盧溝橋事件、日本側は事件の「偶然性」を、中側は事件発生の「必然性と計画性」を重視。毒ガス兵器の使用や市民への無差別爆撃など、日本軍の中国での侵略の傷跡が今も残っているとの考えで一致。旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為等があったことは否定できない。