天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

御親拝中断の誤った解釈を糺す

2017-11-21 11:00:44 | 歴史

今回はYahoo!知恵袋の以下のような質問のベストアンサーに選ばれている回答を見つけましたので糺したいと思います。


【質問】
昭和天皇が昭和50年11月以降、靖国神社にご親拝されないのはどうしてですか?

また、今上陛下が靖国神社にご親拝されないのはどうしてですか?



【ベストアンサー】

『昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感をもち、それ以来
参拝していないと記した富田メモが開示されました。

「私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ」

天皇の意志が明示されることは非常に重大なことであり、それがもし間違いであれば、天皇家(皇后、皇太子など)や宮内庁から確実に否定のコメントが出されます。

天皇家(皇后、皇太子など)や宮内庁から否定のコメントがないということは、天皇の意志の通りであるということです。

また、皇室の広報を担当した元侍従の卜部亮吾の日記でも富田メモの内容が確認されています。

昭和天皇は太平洋戦争に反対で、外交で解決することを望んでいましたが、A級戦犯らによる間違った情報、シナ侵略と南方進出を進めたい軍部によって戦争するしかないとの状況に追い込まれてしまったこと。

戦争中も軍部からの情報は、間違った情報ばかりである上、徹底抗戦を主張する軍部のために、降伏する時期が遅れ、多くの国民が死亡し、国が焼け野原になったことに深い考えを持たれたと考えます。

安倍晋三の祖父はA級戦犯容疑者の岸信介。A級戦犯の子孫、関係者の
政治権力と金の力は計り知れないものがあり、靖国参拝問題に対し
様々な圧力が見られます。

今後、彼らから国民と天皇を守れるか心配します。』

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まず前もってこの回答を糺す前段階として一点明確にしておかなければならないことがあります。
それは所謂A級戦犯の合祀の問題と御親拝中断の問題は全く別の問題であるということです。

つまり御親拝中断が何者かに利用されてしまっているのです。その何者を念頭に回答を見ていきたいと思います。

富田メモに関しては何回も当ブログにて取り上げてきました。陛下の御発言を徳川侍従長が語ったものを富田宮内庁長官がメモに残した可能性もありますが、内容はほぼその通りでしょう。したがって合祀に対して何らかの不快感があったのでしょう。

ここでは簡単に触れますが、合祀のタイミングや本来は合祀する側といった祀り方などへの不快感かもしれません。

回答者は合祀の不快感を所謂A級戦犯への不快感に変換しておられますが、開戦の詔を読めば戦争に反対されていたことと止むに止まれず開戦に至ったことがわかります。したがって回答者は富田メモから著しく誇張された戦争責任を戦犯達に着せていることがわかります。

つまり、天皇陛下、富田メモを利用して当時と現在の日本政府の名誉を毀損しているのです。

開戦の詔を見ていただきましょう。


【開戦の詔書】
『(前略)
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。

まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。 中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。(略)』


冒頭申し上げましたように、合祀は合祀、中断は中断であって別ものなのです。それでは何故御親拝が中断したかをご説明しましょう。

昭和天皇は昭和50年11月に御親拝してから以降中断されています。この当時の総理大臣は三木武夫総理です、三木総理は私人としての八・一五靖国参拝という戦後初となる8月15日に参拝しました。

その背景には「靖国神社国家護持法案」や「戦没者の慰霊表敬法案」さえも成立する見通しがなくなり、日本遺族会と自民党遺家族議員協議会は、靖国神社国家護持を最終目的とし、当面は表敬法案の推進と国家機関の公式靖国参拝、それもかなわぬときは従来の靖国法案の国会提出を要望と靖国神社への思いが政府に圧力となった時期でした。

田中内閣がで退陣し、ロッキード問題が火を噴きはじめ、三木首相に対して「三木おろし」がはじまり、参議院選挙に自民党が敗北して靖国法案を審議する内閣委員会で野党が多数をしめます。

つまり、公式参拝或いは8月15日に参拝を迫られた訳です。田中内閣の昭和49年3月にルバング島から小野田さんが帰国します。小野田さんは政府の見舞金と寄せられた義援金を纏めて靖国神社に寄付します。当時の国民の声は軍国主義に加担するのか、との批判の声がでたのです。

靖国神社を巡って世論が二分していた訳です。
靖国神社を国が管理と軍国主義の象徴とに分かれてです。この様な場所に天皇陛下が御親拝など出来るはずがありません。

それから10年が経ち10回の参拝のうち8月15日が
3回で最後の昭和60年8月15日に公式参拝します。当時の中国の胡耀邦と中曽根元首相は仲が良く、中国で批判され胡耀邦の立場が悪くなり、迷惑がかかると言ってこの後参拝を中止して分祀論を唱え始めます。

やがて中国が総理が公式にA級戦犯の合祀された靖国神社を参拝するということは戦争の正当化に他ならないとの主張で靖国神社を批判し始めます。

要するに富田メモは単に御親拝中断の原因が合祀にあるとミスリードするためにリークされた宮内庁ぐるみの靖国神社への謀略であり、皇室と靖国神社を引き離し、靖国神社側に問題があるとみせかける何者の集合体を形成するバイブルであると言えるでしょう。

したがって回答者は富田メモで現政権までも貶めようとするプロの何者の一人でしょう。