私が何故ウチナンチュとヤマトンチュとの沖縄言葉を使うのかといえば、唯一あの戦争を日本軍と共に戦った県民であるからだ。
日本軍は離島防衛時に島民を非難、疎開させ被害が住民に及ばないような戦いを行なっていたが、沖縄だけはそれを島民が拒否した。正確には逃げずに戦う決断を下したということだ。
ご存知の通り沖縄は20年間アメリカの統治下にあった。
鉄の暴風とまで言われた艦砲射撃が特攻機が飛来した時だけは止み県民は避難、移動が許されたという話は沖縄が捨て石にされたという被害感情とは対極にあるエピソードである。
このように自ら戦った沖縄県民と本土決戦を経験しなかったヤマトンチュでは確執が生まれない筈はない。
基地問題に代表されているが、この温度差は2013年4月28日第二次安倍政権が戦後60年で行った主権回復の記念式典に対して沖縄から抗議街宣が来ていたことからもわかる。
また、沖縄の慰霊の日の首相スピーチに於いても安倍総理に対する野次は記憶に新しい。
以上のように20年の確執は単に期間だけではなく、共に戦ったという県民の自負が複雑に絡まってオール沖縄になっている。
つまり本土の保守活動の熱い想いをそのまま沖縄に持っていくことには少なからず無理が生じるのだ。
我々本土の保守は尖閣死守打倒中国のカラーが強いが、沖縄左翼は琉球独立、沖縄殖民地という言論も普通にあるということだ。
このような沖縄二紙と共産党が占める沖縄で我那覇真子さんのような本土製保守の活動、沖縄二紙を糺す県民国民の会などを立ち上げても孤立するのは目に見えている。
確かに我那覇さんの全国的な人気は保守派の救世主としては余りあるものであったに違いないが、どうやら沖縄では逆転していたようだ。
今回の我那覇グループの分裂は全国的な盛り上がりの保守活動を無批判に沖縄で展開したことによるアナフィラキシーのようなものかも知れない。
その意味ではチャンネル桜にも責任の一端はあり、ウポポイ祭りが開催されている今
沖縄での足踏みは単に危機感を増幅させるだけである。
左翼の牙城沖縄で保守活動を展開する
我那覇さんにはどうか一から始めて貰いたいと想う。
その為にはまず手登根さんと和解することが先決であると考えるが、あの父親がいては無理な相談かも知れない。