広瀬君や中原君
はどうして居るかしら
どうか消息を知らせ
下さい
サヨナラ
彝
隆三郎様
茨城県近代美術館に、このように読める中村彝の手紙の小さな断簡がある。伊藤隆三郎宛の手紙の末尾の部分で毛筆で書かれている。
なぜ、このような断簡が公立美術館に残っているのだろう。
こんな疑問が今頃になって自分の頭にわいてきた。
私が同館に在職していた時、ただ手書き文字の特徴を知り、内容を読むのに懸命だった。が、この断簡については、書かれている用紙の外形などにもっと注意を払うべきだった。と言うのは、これから述べることは、それらの最終的な検証にかかっているからである。
だが、その検証は、美術館の現役学芸員に任せ、私は書簡のオリジナルがないところで、そのコピーを元に机上の仮説を述べる。
この断簡は、彝のある真筆手紙の末尾であることは確かであるが、それだけが存在するというのは、なんだか不自然である。しかし、これが本当は、現に同美術館が所蔵する手紙から何らかの理由で切り離されたものとするなら、その不自然さはある程度解消されるだろう。そういう考えが浮かんだ。
もし、同館の書簡から切り離されたとするなら、どの書簡からか。
それで私は断簡を含めて14通あるとされる伊藤宛書簡を改めて読み直し、可能な限りコピーからその外形も探った。
すると、その可能性があるのは、実は封筒と中身が違っていると以前から私が指摘し、新たに大正4年2月ごろと先に推定した大島から出した手紙(未公刊)が最もそれらしいことが分かった。
この毛筆手紙の末尾はこうなっている。
***
天気のいい日は中々そう
あるものではないから天気
のいい時にどんどんはか
どる必要があるのだが
この熱と血との為に
どんなに妨害されたか
知れやしない。
手紙をくれ。もっと
書き度いが今日はよし
ます
***
この手紙は、「今日は止します」とあるから、これだけでも末尾は完結しているように見えるが、実は彝の他の手紙には大抵認められる「さよなら」の挨拶や彝という署名、相手方の名前、時には書き漏らしの追伸がない。しかし、追伸はないが、それらがあるのが先の断簡なのである。しかも続けて読んでも全く違和感はない。
さらに彝のこの頃の毛筆巻紙の両端は、比較的無造作に切り離されているのが多いのに対して、左部分のみ鋭利に真っすぐに切られているのが件の書簡である。
これらの何気ない事実は、先の断簡とこの手紙の結合を明らかに促すものだろう。あとは手紙の巻紙の幅の一致の確認、紙質の自然な色合いや風合い、そうしたものを検証すれば、この仮説は通るのではないか。