美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

中村彝の手紙の断簡(続き)、断簡を繋いでみる

2024-06-02 11:28:53 | 中村彝

 広瀬君や中原君
 はどうして居るかしら
 どうか消息を知らせ
         下さい
        サヨナラ 
          彝 
 隆三郎様

 茨城県近代美術館に、このように読める中村彝の手紙の小さな断簡がある。伊藤隆三郎宛の手紙の末尾の部分で毛筆で書かれている。

 なぜ、このような断簡が公立美術館に残っているのだろう。
 こんな疑問が今頃になって自分の頭にわいてきた。

 私が同館に在職していた時、ただ手書き文字の特徴を知り、内容を読むのに懸命だった。が、この断簡については、書かれている用紙の外形などにもっと注意を払うべきだった。と言うのは、これから述べることは、それらの最終的な検証にかかっているからである。

 だが、その検証は、美術館の現役学芸員に任せ、私は書簡のオリジナルがないところで、そのコピーを元に机上の仮説を述べる。

 この断簡は、彝のある真筆手紙の末尾であることは確かであるが、それだけが存在するというのは、なんだか不自然である。しかし、これが本当は、現に同美術館が所蔵する手紙から何らかの理由で切り離されたものとするなら、その不自然さはある程度解消されるだろう。そういう考えが浮かんだ。


 もし、同館の書簡から切り離されたとするなら、どの書簡からか。


 それで私は断簡を含めて14通あるとされる伊藤宛書簡を改めて読み直し、可能な限りコピーからその外形も探った。
 すると、その可能性があるのは、実は封筒と中身が違っていると以前から私が指摘し、新たに大正4年2月ごろと先に推定した大島から出した手紙(未公刊)が最もそれらしいことが分かった。

 この毛筆手紙の末尾はこうなっている。

   ***

 天気のいい日は中々そう
 あるものではないから天気
 のいい時にどんどんはか
 どる必要があるのだが
 この熱と血との為に
 どんなに妨害されたか
 知れやしない。
 手紙をくれ。もっと
 書き度いが今日はよし
 ます

   ***

 この手紙は、「今日は止します」とあるから、これだけでも末尾は完結しているように見えるが、実は彝の他の手紙には大抵認められる「さよなら」の挨拶や彝という署名、相手方の名前、時には書き漏らしの追伸がない。しかし、追伸はないが、それらがあるのが先の断簡なのである。しかも続けて読んでも全く違和感はない。

 さらに彝のこの頃の毛筆巻紙の両端は、比較的無造作に切り離されているのが多いのに対して、左部分のみ鋭利に真っすぐに切られているのが件の書簡である。

 これらの何気ない事実は、先の断簡とこの手紙の結合を明らかに促すものだろう。あとは手紙の巻紙の幅の一致の確認、紙質の自然な色合いや風合い、そうしたものを検証すれば、この仮説は通るのではないか。

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中村彝の手紙の断簡、年代の推定

2024-06-02 10:22:02 | 中村彝

 茨城県近代美術館に中村彝の手紙の断片、すなわち断簡がある。伊藤隆三郎宛の手紙の最後の部分だ。毛筆で書かれている。


 「広瀬君や中原君 はどうして居るかしら どうか消息を知らせ下さい サヨナラ 彝 隆三郎様」


 たったこれだけである。が、彝の手書き毛筆文字や言葉遣いに慣れていないと、読み取りが難しいかもしれない。しかし、首尾よく読み取れたとして、ここから何が言えるだろうか。


 例えば、この断簡の年代は分かるだろうか。

 私はかつて同美術館にいたとき、これを調べてみようと思ったことがあった。が、結局、何処にも何にも記さなかったので、これについて書いて置こう。

 先ず、広瀬君というのは、広瀬嘉吉のことである。それは、伊藤宛の他の彝の手紙からも明らかだろう。
 では、中原君というのはどうか。直ぐ思い浮かぶのは中原悌二郎だが、彼のことでいいのか。もちろん、それでいい。彼以外には考えられないし、伊藤も既に彼を知っていたろう。


 伊藤は、白川市歴史民俗資料館の加藤純子さんの研究によれば、広瀬を介して彝に初めて会ったが、それは大正2年の秋頃である。そして広瀬は大正3年には郷里に帰っているので、伊藤は彝とその周辺の美術家の状況を広瀬から詳しく聞くことができたであろう。

 ところで、中原信が、悌二郎に初めて会った時のことを書いている文章がある。そこには「広瀬、中原」が登場している。


 中原信は、大正3年の春ころ初めて悌二郎に会った。そのころ信は、木下尚江の斡旋で中村屋の世話になっていた。
 ある日、中村屋で彝の脇に二人の男が座っているのに気付いた。そして信はこう書いている。


    ***

 「広瀬、中原」これがその後しばしば(相馬)一家の間に呼ばれる姓であったのですが、そのどちらが広瀬さんで、どちらが中原さんやら私にはわかりもしなければ、またわかろうとも致しません。ただ二つの顔を同時に浮かべて「広瀬、中原」にして置きました。中原信『中原悌二郎の想出』(昭和56年)
    ***


 この信のちょっと面白い記述から、広瀬と中原は五人組の中でも、まだ大正3年当時も、かなり親しくしていたようで、二人は時に行動をともにしていた様子が窺える。

 広瀬の郷里は福島県の須賀川であり、この年大正3年に帰郷した。そして彼が再び上京するのは大正9年である。悌二郎も大正3年の初夏には旭川に帰郷し、翌4年の5月には再上京する。

 悌二郎と信は大正5年の春に再会し、10月には婚約する。彝は二人が結婚に至るまで面倒を見ていた。また彝は、広瀬の画業と、悌二郎とは対照的な広瀬の性格をかなり心配していた。

 以上のような状況を勘案すると、この断簡は、二人の消息を彝が知らず、むしろ白河の伊藤のほうが把握しているかもしれないと彝が思っている期間に書かれたものと想像される。

 つまり、広瀬もすでに帰郷し、悌二郎も在京していない期間のものであると推定することができるだろう。
 要約すると、この断簡は、大正3年初夏以降、遅くとも中原が東京に戻る大正4年5月前までのものではなかろうか。

 もちろん、彝も大正3年の12月から大正4年の3月までのおよそ100日間、伊豆大島に滞在している。だから彼らが在京していようがいまいが、その間の二人の様子は直接には分からない。

 次回、この断簡が大島から出された手紙の末尾である可能性も含めて、検討してみよう。

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