美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

11月28日(土)のつぶやき

2015-11-29 03:26:57 | 日々の呟き

午前中に庭仕事をした。庭仕事をしながらいつも考えることがある。「人の美的感性はどのようにし育まれるのだろう?」物の配列、バランス、例えば庭を箒いたあとの清浄感、そういったことが案外大事だ。学芸員にも仕事が忙しいためか机の上をめちゃくちゃにしている人がいるが、私には理解できない。


@tikarato いや、理解はできるが、自分の机上の世界が乱雑になっているとやはり落ち着かない。一方文学者の書斎の写真を見ると乱雑極まりないようなものがあった。だが、これは憧れの世界、一つの宇宙でもあった。そこに何かしら精神的なもの、芸術があると思えたからかもしれない。


@tikarato 純粋に美的なものと純粋に芸術的なものとは必ずしも同じではない。美しくとも芸術では無いものがあるし、芸術ではあっても美しくないものがある。芸術には何らかの精神性が含まれなければならないのだ。精神性はいかようにも主張できるから、昨今、美的でない芸術は多い。多すぎる

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文学は美術に比べたら美的なものと言うよりは精神的な芸術と言えるだろう。しかし精神的な芸術は、必ずしも立派な人格の人から生まれるものではない。立派な人格の人でも文学などとは一生無縁のまま死んでいく人もいる。私はむしろ最近ではそういう人に魅力を感じる。文学はおろか美術にも無縁のまま。

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この名画、何十億と聞くと多くの人は呆れたり、びっくりしたりする。いや何千万、何百万円単位でもいい。その感覚は重要だ。美術の学芸員が、呆れたり、驚かなかったりする感覚の方が間違っている。


ある外国美術展の時、盗難事件があった。警備員が責任を感じて自殺したが、責任はもちろん警備員1人が負うべきものではないし、人の命よりも大切な美術品などない。また人が死んで償われるような芸術作品の価値も存在しない。そもそも芸術品の精神的な価値と人の命とは別個の次元の話なのだ。

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トリミングした小生のプロフィール画像とほぼ同じ。ツイート内容とは関係ありませんが、、、 twitter.com/cversailles/st…


新聞の見出しは、記事内容を読んでみるまで行為の主体が誰なのか、形容語句がどこにかかるのか明確には分からないことがありますね。短かすぎる見出しを目にした誤解により、意図せずとも偏見を植え付け、先入観を助長する心配もありますね。 twitter.com/pentaxxx/statu…


@tikarato 小津の「東京物語」を初めて見たとき、何だか少し退屈だったが、半ばを過ぎたころから涙が止まらなくなって困った覚えがある。人生というものが自分でも少しわかってきたように思ったころだった。「晩春」「麦秋」も確かに素晴らしかった。佐藤忠男氏の『小津安二郎の芸術』は良書


コメント
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