中村彝や中原悌二郎の文献に掲載されているある写真を見ると、そこに雨宮雅郷なる人物が親しい友人として紹介されていることに気付く。しかし、この人物について、私のまわりの美術に詳しい人たちに訊いてみると、誰も知らなかった。
そこで、私は少し前にこのブログで「雨宮雅郷とは誰」という記事を書いた。しかし、それ以上のことは分からなかったし、他の人から何の情報の提供もなかった。だが、今回、以下のことが分かったので、報告しておこう。
雨宮雅郷は、前の記事で書いたように、彝というよりも、悌二郎の初期の日記にその名が見られる友人であり、一方、彝の友人の雨谷美文と混同されることがあった。
確かにこの二人は混同されやすいのかもしれない。
実際、悌二郎関連の文献に、雨宮雅郷とすべきところを雨谷美文などと写真の解説などに記されているものがあった。
雅郷というのは、なんだか日本画家の雅号のようにも見え、日本画も描いていたのかと想像させる名前のように思えるかもしれないが、どうもそうではなさそうである。
雨宮雅郷は、少なくとも明治44年までは油彩画を描いていたことが、やっと分かった。たとえば、そのころある展覧会に、「荒磯」「自画像」「夕日」といった作品を出品している。が、その画像までは分からない。
そして、この展覧会に雨谷美文も「冬光」等の作品を出品しているが、その「冬光」では彼が雨宮美文と誤植されていた。
そのほか今回分かったことは、同姓同名の別人でなければ、雨宮雅郷が、大正元年ころには、四谷区新宿で菓子商を営んでいたことである。その時その菓子商店は開業以来、31年ほど経っていたというから、開業したのは、彼の父母の代であろう。その雅郷氏は、少なくとも大正年間、菓子商であったらしい。
もし、その菓子商の雅郷氏が、悌二郎たちの友人であるなら、そこに彼自身や、悌二郎らとの交流の何らかの貴重な資料などが見つかるかもしれない。そうした意味で、こうした探究も意義のないことではなかろう。