美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

中村彝とセザンヌ ー 壁紙のある静物画(1)

2024-12-03 20:36:57 | 中村彝
 中村彝より1歳若い小説家・長与善郎はヴォラールの『ポール・セザンヌ』(1914)を丸善で買った(長与善郎『生活の花』大正7年刊)。
 そして、大正6年5月1日にこの本に関する「感想詩」なるものを書いている(「ヴォラールの『セザンヌ』を買って、上掲書所収」)

 これを読むと、いかに彼がこの垂涎の的たる画集を欲したか、いくらで買ったか、買うまでにどんなに思い悩んだか、買ったあとどんな心持ちになったか、そして自ら買ったことの意義などを実に細かく書き綴っている。

 一冊の輸入本を買うのにどれだけ彼の心が震え、慄いたか、それがあまりに具に書かれているので、今日の眼から見ると何だか微笑ましくも見え、驚きもする。

 だが、これがその当時の美術雑誌や、本の中における美術作品の複製に対する小説家や画家たち、芸術愛好家たちの真剣な眼差しなのだと理解される。
 (実際、戦前の古本などを買うと、カラー図版のページが切り取られていることがあった。壁に留めて鑑賞していたのだろうか。)

 長与善郎がヴォラールの『ポール・セザンヌ』を買ったのは、大正6年のことだが、この頃は、まだまだ丸善の輸入本の画集コーナーは、ある意味で、画学生や文化人に意外なほど大きな勉強の場所を提供していたと想像されるだろう。
 (昭和戦後の生まれの私ですら、高校時代、学校帰りの列車待ち時間を利用して、駅近くの本屋で、美術全集などを立ち読み、立ち見していた頃を思い出す。その頃のカラー版図版は、今見ると色褪せているが、当時は印刷の新しい匂いとともに色彩も新鮮に見えたものである。)

 大正10年に中村彝の知人である税所篤二が、『ポール セザンヌ』を書いたころも、美術図版を集めるのに苦心したというようなことが書いてあり、自分の本にあるセザンヌの挿図は、日本ではあまり知られていないものを主にしたと述べている。

 だが、そこに載っている挿図は、既に中村彝が丸善から洲崎義郎に送らせた1914年刊の2冊のセザンヌに関する本と画集に、すなわちヴォラールの『ポール・セザンヌ』と、ベルネーム=ジューヌ刊のミラボー、デュレ、ヴェルトの『セザンヌ』画集、そしてこれらよりもやや早期のJ.マイヤー=グレーフェの諸文献などに含まれており、丸善でそれらの輸入本に接していたと思われる長与善郎や、有島生馬はもちろん、『白樺』の仲間たち、そして岸田劉生なども既に見ていたはずのものである。
 (彝が丸善から洲崎に送らせたセザンヌ本については、今回、茨城県近代美術館発行『没後100年記念中村彝展』図録中の吉田衣里さんの論文が言及している。)

 だから税所が日本ではまだ知られていない挿図を集めたと言ったのは、丸善などでこうした輸入本に親しく接することができない人々にとっては、という意味だろう。

 その税所本の巻頭図版には、しかし、上述のヴォラール本やベルネーム=ジューヌ刊の画集には掲載されていない複製画も載っていた。すなわち、『フュウザン』と『現代の洋画』に掲載された静物画(V338)である。

 この複製画には、セザンヌのある時期の静物画に見られる壁紙と同じような文様が描かれている。

 その静物画は、「ミルク缶とリンゴ」(V338)https://www.moma.org/collection/works/83370
などと題されるものであり、現在は、ニューヨークの近代美術館に収蔵されている作品である。

 実はこの静物画と同じ壁紙のある優れたセザンヌ作品は、日本にもある。すなわち損保ジャパンの美術館にある作品(V346)がそれである。

 そして、同じ壁紙のあるもっと有名な作品もある。すなわち、それは、かつてゴーガンが持っていたセザンヌ作品である。この静物画は、モーリス・ドニの「ゼザンヌ礼讃」の画中画になっているので知っている人も多かろう。

 このようにゼザンヌのこの種の壁紙のある静物画はきわめて重要であり、かつ特徴的なので、中村彝が明治45年に描いた壁紙の文様のある静物画(福岡市美術館蔵)は、ゴッホの色彩(特に黄と青)とフォルムにおける影響とともに、赤いリンゴが加わって(これで3色が揃う)、セザンヌの影響が予測されるものである。(続く)

 



 
 

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