気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

書きかけのまま、木枯らし1号が

2020-11-02 | ブログ

書きかけのまま、中断が何度か続き・・・時間が過ぎ去った。

コロナの影響ではなかったが、微熱が続きデーサービスを休んでいた母が突然亡くなった。

長寿の祖母に追いつくかと思われたが、2週間くらい自宅で静養していた。

同居していなかったが、東京ではこの時期、微熱で日曜日に救急車を呼ぶのは気が引けたようです。

東京オリンピックの開催地域に住んでいた、デズニーランドの花火が楽しみだった。

・・・新型コロナウイルス、世界に拡散、その真っただ中で・・・我々は漂っているが、相手がウイルスだけに・・・

感染症の脅威だけが脳裏にまとわりつき、これは悪夢か、幻か、・・・現実が良く直視できないジレンマが続きます。

・・・そう、少し前・・・アメリカ23日:約8万4千人感染確認、東京24日:203人感染発表、・・・春までジッとしよう。

鬱になりそうな季節を、前向きに生きるには、・・・朝の青白い太陽を・・・ベランダで頭骸骨に浴びます、一日はここからです。

ローマを創った男、ベルニーニの作品にたどり着く前に、気になっていたのが、二つ残っていた

・・・キツツキの舌を描写せよ!

これが、なぜか気になっていた?・・・、キツツキの舌の違いを知っても・・・何の役にも立たないが、

レオナルド・ダ・ヴィンチの することリスト に書かれていた言葉だった。

想像してみたが、・・・熱心に口ばしで木の幹を叩いている・・・

1秒間に10数回から20回も打ち付けたら、頭、めまいがするだろう・・・大丈夫? 

小さな口ばしで、引っ掻く形状ならともかく、打ち付けるとは・・・首、脳、負担が大きいだろうに、

口ばし以外に、なぜ爪でも進化させなかったのでしょう、舌は良くわからないが?

作業中の音をたてながら、幹に穴をあけて舌を入れ、虫を捕る、巣穴を作り卵を産む、・・・頭脳労働のようですが

・・・飽くなき好奇心から、観察して、他と比較、何故 頭なんだ、疑問を持ったら解決しなければ・・・

レオナルドの素描に、この件の回答は見つからず、他を調べてみました。

何と・・・キツツキの舌はくちばしの3倍以上に伸びるようです。

頭蓋の内部で、・・・この伸びる舌が小さな脳を保護するという・・・驚きの構造でした。

下図はNHKの番組から拝借 黄色の部分が・・・長い舌

なる程、穴掘り中は、舌が脳を保護して、・・・穴の中を探るには、巻き込んだ舌を送り出すのか~、

キツツキの動作を見ていて、他の鳥と違う・・・舌が違うはず・・・捕まえて、調べてみようとは、普通思わないですよね。

・・・レオナルドは再度ミラノを訪れ、岩窟の聖母は完成させたが、報酬が目当てでは無いので、この地で自由を満喫

3ヶ月で帰る約束でしたがフィレンツエに戻らず、新たな友人たちと解剖学や自然科学の分野で心理の追求、発見は喜びです。

医学の分野で出版を目指したようですが・・・大学病院の共同研究者が亡くなり未完に終わっています。

レオナルドだから成し得た、真理の追求力、解剖技術、観察眼・描写力・・・精緻な描写の資料は今日でも宝の山です。

これらの資料、作品を前に、レオナルドが何を考えていたのか・・・夢中になって解き明かしたくなるのですが、・・・

ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学博物館内には展示室もあり、フィレンツェにも博物館があります。

こちらはフィレンツェ・博物館、他にレオナルドの考案した作品の模型を展示している所もあります。

素描の機構学は比較的解り易いが、医学、自然科学は奥行きがあり別の機会に調べてみたい。

レオナルドがミラノに、そしてミケランジェロはローマへと・・・

ルネサンスが花開いたフィレンツェには、未完の作品が二つ残りました。

しかし、この未完の作品であれ、一目見ようと、・・・そして各地から画家が訪れ模写を残しています。

ルーベンスが訪れた時には壁画の「アンギアーリの戦い」は既になかった。

しかしルーベンスは模写を探して、その模写を再模写した作品を残し、今に伝えています。

・・・ミケランジェロは、バチカン宮殿の礼拝堂に天井画を描けと、・・・教皇より強引に押しつけられた経過は・・・

2019年7月21日、(涼を求めて)、続イタリア:ローマ ① 霧雨のヴァチカンに、映画なども参考にメモしてあります。

・・・ヨーロッパ各地からローマに巡礼に来られた信者には、完成した天井画は観光名所になりました。

もう一つの関心事は、16-~7世紀、スペインの世界進出とイエズス会の世界侵略。

地中海沿岸を風任せで航海していたのに・・・コロンブスが帆船の船団を組み・大航海時代に時を動かした。

半島内で王家同士の争いだったのに、行動範囲が地球規模に広がると・・・富も大きく動き・・・やがて世界の銀が大移動、

カトリック両王が統一した不毛の地スペインは、孫の時代になると「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた。

・・・血を流して獲得した我が領土を・・・必死に一族で継承するには、周辺を強固な同盟国で固めたい。

イベリア半島では、レコンキスタ終了後も異教徒の反乱は続いていた。

・・・北のピレネー山脈の向こうには、大国フランスが領土拡大を狙っている。

スペインの対抗策は、周辺国との政略結婚でフランス包囲網を築く、・・・カトリック両王の子供が財産だった。

・・・何度か彼らの婚姻関係を調べてみたが、祖父や祖母の名前を子供に頻繁に使うので、混乱してしまう

イサベル女王は長女に、イサベルと命名しているのです。

そこで映像の力を借りよう・・・「波乱のスペイン女王 イサベル」スぺインTVの登場人物の画像を借用させて頂こう。

まずはヨーロッパの状況から・・・フランス王国(ライオン)の北西は、羊毛産業で発展途上のイングランド、

フランスから地続きの北に、毛織物工業や海運で商工業が発達した豊かな土地がブルゴーニュ公国

さらに東には、ハンガリーやイスラム諸国と紛争が続く神聖ローマ帝国

地元のイベリア半島は、南西の端にポルトガル王国、中央部のカスティーリャ国はイザベル女王の統治

半島東の地中海側にはアラゴン王国、夫のフェルナンド王が支配していた。

イタリア半島の南部はナポリ王国、この王国が継承者の正当性でナポリ・アラゴン・フランスが争っていた。

ヨーロッパの権力闘争には、キリスト教会のローマ教皇も介入し、混乱の大きな要因となっています。

スペインは獲得した領土が一族で継承できるように行動を開始、・・・エサベル女王は、夫の政略結婚策に渋々同意。

スペイン国は、対外的には夫婦で2国を統治しているので連合国だが、公位継承権は独自に定められていた。

まずは隣国、ポルトガル王国は海運国でアフリカ大陸を回り込むインド航路を確立しつつあった。

ポルトガルは航海王の国、世界侵略においてはライバルです、・・・港も重要で、ゆくゆくは併合したい。

ここには1490年、長女イサベルが20歳で皇太子に嫁いでいたが、・・・

1495年謎の事故?で夫が亡くなり、失意のままカスティーリャ国に戻っていた。

その後ポルトガル王も突然死(毒殺?)、王の弟が即位してマヌエル新国王となり・・・

失意の長女イサベルに求婚していた。

(ポルトガルの貴族達は独立志向だが、国王は隣国カスティーリャ国と強固な同盟をベースに独裁を狙っていた)

カスティーリャ国は、北のブルゴーニュ公国とは二重の(クロス)結婚を成立させていた。

まずフィリップ公(18歳)には、次女(フアナ)を嫁がせた。

1496年、フアナ(17歳弱)は、嫁ぐ際に敵国フランスを経由しない、海路のルートを選択したが、

悪天候に襲われ、・・・持参の豪華な品々を大半流失し、多くの従者と共にやっとの思いでたどり着いた。

プレーボーイの夫(フィリップ公)だったが、純粋なフアナは一目惚れしてしまう。

・・・夫の妹(マルガレーテ)は、母の愛を知らずフランスで育てられた女性です。(上の画面、左端)

ブルゴーニュ公国君主のマリーがこの兄弟の母で、長男フィリップが4歳弱、マルガレーテ2歳の1482年3月に悲劇が、

夫婦で狩りの最中落馬で大怪我、その影響で25歳の若さで亡くなりました。

父は、神聖ローマ皇帝の当時皇太子マクシミリアン、彼が君主の母を助け、この地をフランスから守っていました。

君主マリーの遺言で、マクシミリアンが息子フィリップ(君主)の後見人となったが・・・ブルゴーニュ公国は妻の国だった。

早速、隣国フランス王の扇動で、ブルゴーニュ公国では反乱が起こる。

1482年12月、幼いマルガレーテは、フランス王の王太子シャルル8世の婚約者として連れていかれた。

翌年の夏、フランス国王が亡くなり、幼いシャルル8世が新国王になるが、姉が摂政として実権を握る。

時が流れ、ブルターニュ女公のアンヌが、反フランスのマクシミリアン(マルガレーテの父)と代理結婚していた。

ブルターニュ公国はイギリス海峡に面し、海岸添いに北東にはブルゴーニュ公国があり、英仏両国で重要な地域であった。

・・・フランス王シャルル8世は考えた・・・マクシミリアンにはブルターニュ公国は渡せない

マクシミリアンは、自分の婚約相手の父であったが、神聖ローマ帝国の皇太子でもあった。

・・・この君主アンヌとマクシミリアンとの結婚を、フランス国との過去の約束を理由に無効にさせた

シャルル8世は、アンヌに自分との結婚を迫り承諾させるには、まだ障害が残っていた・・・

・・・1491年12月、マルガレーテとの婚約を破棄して、新たな結婚を教皇に認めさせようとした。

教皇の特別許可は簡単ではなかった、・・・やっと許可が認められたが、マルガレーテはフランスに止め置かれた。

1493年5月、マクシミリアンはブルゴーニュの内戦を治め、フランスと交渉し、マルガレーテは自国に戻れた。

話は戻って・・・ブルゴーニュ公のフィリップとカトリック両王の次女フアナが無事結婚した翌年

1497年、フランスから戻ってきていたマルガレーテが、カトリック両王の皇太子ファン(長男)に嫁ぎます。

ファン皇太子は、スペイン(カスティーリアとアラゴン両国)の後継者です。

・・・スペイン国の継承者として期待のファン皇太子です。

マルガレーテとの盛大な結婚式が行われた。

皇太子・長男ファン(19歳)、・・・心配なことは病弱だった。

病弱なファンは素適な妃に、有頂天の毎日が続きます

そしてマルガレーテ(ドイツ語ではマルガレーテですが、マルグリット(英)と使用されることが多い)は懐妊した。

・・・これでスペイン国は更に安泰です。

一方、ポルトガルの国王からの求婚を長女イサベルが固辞していたが、両親に説得され再婚に同意しました

両親(カトリック両王)と長女イサベルは、ポルトガル国での結婚式に旅立ちます。

1497年10月4日、旅の途中だったカトリック両王に・・・悲報が届く。

遅れて、姉の結婚式に旅立った皇太子ファンが・・・何と途中で病死したと・・・。

さらに、スペイン国には悲劇が続きます。

懐妊していた皇太子妃マルガレーテは、出産時に母体は大丈夫だったが、継承者を死産した。

・・・本流だった自国の継承者から一転、カスティーリャ王国継承権は、長女イサベルに、

・・・ポルトガル王国は大喜び。

継承式がカスティーリャ国で執り行われた。

1498年4月7日・・・フランス王、シャルル8世がアンボワーズ城で・・・

ウッカリ、破損した石の角に頭を打ち、間もなく亡くなった。

28歳まで生きて来たのに、あっけなく・・・

1494年末にはヴァチカン宮殿で教皇を脅し、・・・絶頂の時だった

教皇の息子(チェーザレ)たちを人質にし、翌2月にはナポリ王国を大軍で占領したが、

・・・周辺国によるフランス包囲網がしかれ、・・・惨敗して自国に逃げ帰っていたのだった。

フランス国の継承者は男性であり、王位継承者のルイ12世が即位した。

・・・このルイ12世も、国王になるとブルターニュ女公アンヌ(シャルル8世の王妃)は重要な人物だった。

新国王もカトリック、時の教皇アレクサンデル6世に・・・妃のジャンヌとの結婚を無効に・・・

(どこかの大統領と同様、簡単に離婚、再婚、・・・目先の利害関係、損得が判断基準です)

ローマ教皇は、上の画面中央の息子(チェザーレ・ボルジア)をフランス王が援助する裏取引で、結婚を無効にし、アンヌとの再婚を認めた。

・・・1498年8月、ポルトガルの王妃イサベル(長女)が、息子を産むと今度は、王妃が亡くなってしまった。

生まれた息子は、ポルトガル国とカスティーリャ国の継承者です。

息子の叔母となるイサベル女王が、カステーリャ王国に連れて帰り、大事に育てていたが、

1500年7月、グラナダの宮殿で亡くなってしまった。

この約半年前に、次女のフアナは長女に続いて、長男カルロスをブルゴーニュ公国で出産していた。

フアナは夫のフィリップ公と言い争いが絶えず、精神状態は不安定だった。

・・・カトリック両王のスペイン国・政略結婚は、・・・目まぐるしい悲運続きの4年間だった。

長男フアン、長女イサベルとその子らが亡くなり、次女フアナが女王の後継者となった。

・・・3女のマリア(18歳)が、ポルトガルのマヌエル王から王妃として求婚され、嫁いでいく。

この三女は、34歳で病死するまでに、妃として10人の子供を産んでいます。

一方、フェルナンド王(アラゴン国)は、イタリア半島南部のナポリ王国の継承について・・・、

11月、フランス王国が有利な条件で、アラゴン国と分割統治しようと・・・グラナダに呼んで条約を締結した。

・・・次女フアナは、カスティーリャ国の王位継承に向かう際、夫がフランス国王に挨拶したのが不満だった。

1501年11月、トレド大聖堂でカステーリァ国の王位継承式が執り行われた。

今日でもこの大聖堂は、圧巻です。

カトリック両王と、右側に継承者のフアナ、その隣が夫フィリップ公

フィリップ公は、スペインでは重用されず、臨月の妻フアナを残し、帰国したのでフアナは狂乱する。

同じ頃、11月14日、海を渡った4女のキャサリン(カタリーナ)は13歳、イギリスの王太子に嫁いだが・・・

翌1502年4月、王太子が病死した。英国に持参した持参金を返せ、返さないなら弟と婚約を・・・と迫った。

1503年6月末、イングランドのヘンリー王子(14歳)と4女キャサリン婚約。

カステーリァ国に戻って、臨月だった次女フアナは、無事出産した。

次男の誕生、父親と同じフェルナンドと命名され、病弱な母イサベル女王に変わり父フェルナンドが自国で育てた。

フアナは、夫の居るネーデルランドに戻ったが、精神が不安定で義理の姉マルガレーテが子供を養育した。

重要な子供について、まとめて以下に記す(注、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)による)

長女:レオノールは、ポルトガル王マヌエルの妃3女マリアナ亡くなった後に、嫁ぎ、後にフランス王フランソワ1世妃となる。

長男:カルロス、後の神聖ローマ皇帝カール5世、スペイン王カルロス1世

次女:イサベル、デンマーク王クリスチャン2世妃

次男:フェルナンド、後の神聖ローマ皇帝フェルナンド1世となる。

3女:マリア、ハンガリー王・ボヘミア王ラヨシュ2世妃

4女:カタリナ、ポルトガル王ジョアン3世妃

カスティーリャ国の女王でアラゴン国の王妃、イザベラが病床にある頃・・・

夫のアラゴン国王、策士フェルナンド王は、ナポリ分割協定を破りフランス軍と交戦、1503年4月、勝利しナポリを占領した。

1504年11月26日、イザベラ女王が病死すると、フアナが継承しますが、遺言で着任するまでフェルナンドが摂政します。

1505年、フェルナンド王 53歳は、新たな継承者を期待しようと・・・再婚しました,、祖母をナバラ女王に持つジェルメール17歳と。

新婦の叔父は、何と敵対したフランス王、ルイ12世です、・・・関係が多少修復できればと・・・。

1506年春、フィリップ公は、イサベル女王の遺言が納得できず、フアナとの共同統治を主張して着任し、

カスティーリャ王を名乗る。

・・・アラゴン国王フェルナンド2世とは対立

フィリップ公は、乗り込んできたスペインで人気は無かった。

( 旧首都、現在のトレド市街 )

1506年9月25日、ブルゴス(トレドの北方約300㎞)で運動の後、生水を飲んで・・・急死した、

・・・28歳の若きフィリップ公が・・・突然亡くなった。

フェルナンド王は、長期のナポリ滞在で不在だったが、・・・もちろん毒殺説はささやかれた。

夫を亡くしたフアナは精神状態が悪化、・・・いろいろな奇行があったようです。

1508年、・・・父フェルナンド王はフアナを城館に幽閉し、フアナ女王の承諾を得て、再度摂政として統治する。

1509年6月11日、イングランド王ヘンリー8世と4女のキャサリン結婚、6月戴冠式

さて、フェルナンド王は、1509年に待望の息子が誕生したが、すぐに亡くなり以後子供は誕生していない。

1513年、再婚相手の王位継承権に基づき、イベリア半島の北部ピレーネ山脈の西、ナバラ王国を攻撃、1515年占領した。

このナバラ王国側で孤軍奮闘、・・・戦死した者がいた、波乱の人生・・・チェザーレ・ボルジアだった。

1515年1月1日、フランス王ルイ12世死亡、53歳

1516年6月23日、この政略結婚の立案者フェルナンド王も64歳で亡くなります。

スペイン国と神聖ローマ帝国の後継者、孫のカルロスが・・・大国へのレールを走り始めました。


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