何故、欧米の大半でカトリック教がベースにあるのか? ・・・ローマ帝国の歴史を学ぶと多少理解できたつもりが、今日、何故それらの関係者が一神教を捨てないのか、なかなか理解できないでいます。
・・・ユダヤ教からキリスト教が枝分かれし、さらにイスラム教が遅れて地中から芽を出し、同じ神のみを唯一信じる集団がお互いを憎しみ合っている構図があります。
しかし現実に地球上には、彼らが敬う神以外に無数の神を信じる人々が存在する多神教の世界であり、神から選ばれたと主張するユダヤ人は自己中だが、彼らが金のみが力と・・・世界を動かしていることも現実であるようです。
多神教だったギリシャ・ローマ帝国初期、・・・キリスト教が治世のために国教となり・・・結果、停滞した中世(ビザンティン・ロマネスク・ゴシック)・・・そして再び人間は元々自由だ・・・とギリシャ・ローマ文明を見直す時がきた・・・ルネッサンス・・・
この時代から少しづつ自由を勝ち取っていく軌跡が見えてきます。この時代の生き証人の作品に触れられるのが一番の楽しみです。
・・・かつて、15分間と時間制限のある静寂の空間で・・・この作品に息をのみ
教会・食堂に描かれた レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に感動し、
また、より高く、より高く、天に近づくようにと・・・このような所まで描かれた力作を手が届く位置で鑑賞し
各地のドゥオーモ(大聖堂)に登り、当時の建築技術に驚き(上記はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂内部)、
偶像崇拝が禁止された宗教ではあるが、教会壁面にPR絵画を描くことで作品が人々に感動を与えることができた。
旧約聖書や新約聖書を題材にしながらも、過去の様式にこだわらず依頼主と渡り合い、自由な発想で構成し芸術の域に仕上げた人々の作品に出合える
バチカン宮殿 システーナ礼拝堂のミケランジェロの大作も旧約聖書が題材です。
隣接するサン・ピエトロ大聖堂(カトリック教の大本山)は堕落したと指摘され、プロテスタントに流れる信者を引き留めるには
市民を圧倒させる作品により非日常的な空間が必要だった。
後にルネッサンスと呼ばれる16世紀に、これらの人々は教会に出入りする絵描き職人から、職業画家や彫刻家として名声を得られる時代となりました。
そして日本で家康が権力を握るころ、イタリアでは「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と称賛されたジャン・ロレンツオ・ベルニーニが活躍します。
ローマには多くの作品がありますが、ボルゲーゼ美術館(要予約)にも、素晴らしい作品がありました。
その中の1点、「プロセルピナの略奪」1622年、ベルニーニ23歳ころの大理石の彫刻作品です。
芸術の都はイタリアでしたが、このような時代に、ここスペインでも著名な画家が登場しました。
・・・ スペイン・マドリード
緑の並木道と広大な公園の一角にプラド美術館があります。
道路から階段を降りて、振り向くとGOYAの銅像がありました。ここがゴヤ門。
美術館正面から左に回り込んで
左の高台に教会が見えます。その階段の下が一般の人の入り口です。
冬の季節は、美術館めぐりには好都合です。混雑していることが少ないからですが、時々課外授業で生徒が大勢で来館している場合もありますが・・・どうでしょうか。
館内は写真・ビデオ撮影禁止です。プラド美術館ガイドブックなどから雰囲気と作品を転用します。
・・・こちらは、スペインのお宝の一つです。
実物に接すると、その作品が依頼された状況や掲げられた空間を考えると、多少なりとも作品の理解に役立つ気がします。
美術館の展示品は、一般的に収蔵されている作品のごく一部が展示されているにすぎません。
お宝の作品は常設でいつでも鑑賞できますが、人気の作品は貸し出し中の場合もあります。
このプラド美術館は世界3大美術館のひとつ、3万点の所蔵品を有し、自慢は略奪品が無いことだそうです。
この中から約3000点が展示され、絵画だけでも約1000点を超え、中世から18世紀のスペイン絵画が半数を占めるとのこと。
スペイン三大画家と呼ばれる人々の中で最も早い時期に活躍した方が、エル・グレコ(El Greco)。
本名は別にあるのです:ドメニコス・テオトコプーロス、1541年ギリシャ アテネの南の大きな島クレタ島生まれ、クレタ島時代の作品(20代中頃の作品)は中世の宗教絵画風、
ヴェネツィアへと旅立ち、テッツィアーノに師事し色彩を学んだのでしょう、しかしこの地は競争が激しい。
ローマに移り工房を開き、頑張っていると顧客ができ、多少自信がついて、・・・憧れのミケランジェロ(亡くなって6年後にローマに来た)の「最後の審判」を時代に合わせ描き直しましょうと言ったといわれる。
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ミケランジェロ作 システィーナ礼拝堂の祭壇画 「最後の審判」(1535着手-1541完成)
ミケランジェロを超える自信があるとまで・・・この作品はローマ市民のお宝であり、サンピエトロ大聖堂も彼の功績が大です、イタリアの英雄です。
・・・当然でしょう、若者はローマ市民の反発を受け、仕事は減り・・・ローマを離れる・・・、どうするか。
この事件の少し前に、イタリア南東のレバント沖で海戦(1571年)があり、無敵艦隊のスペインが、長く地中海の制海権を握っていたオスマン・トルコ海軍を破って制海権を取り戻しています。
この話題は各地に届いていたでしょう。(先のセルバンテスさん:ドンキホーテの作者、この海戦で左手を負傷)
・・・34歳で、決心したのはクレタ島へ・・・戻らず、世界最強の国スペインに渡ることでした。
・・・新しい都マドリード(1561年にフェリペ2世が王宮を移す)にも行ったでしょうが、歴史のある旧首都トレドで、1577年36歳で工房を開きます。
人気のイタリアからやってきたギリシャ人、・・・彼は地元の人に、あだ名で El Greco エル・グレコ(ギリシャ人)と呼ばれるようになります。
早速新築の教会から祭壇画を依頼され、8枚の作品を描きあげます。
今日その中で有名な「聖三位一体」が、ここプラド美術館に展示されていました。(画像 略)
エル・グレコは、ティントレットからも影響を受けたと言われ、構図や、動き、色彩など個性のある作品です。
この作品は、エル・グレコ晩年の作で、自分が永眠する教会の祭壇装飾の一部で、
誕生したイエスの覆いを聖母マリアが取り去ると光が聖ヨセフ、羊飼い、そして天界まで照らしているとされます。
エル・グレコの作品は、トレドに数多く残っています。(別途)
ベラスケス (ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス:1599-1660)
ガイドブックによると、このプラド美術館には、ボス、ティツィアーノ、ルーベンス、ゴヤなど巨匠と呼ばれる作品が数多く所蔵されているが、
看板として挙げるならベラスケスをおいて他にはない。彼の作品約120点のうち、50点を所蔵しているとされます。
その作品は1899年以来、施設内の最も地位の高い場所に展示さてれきました。
ベラスケスとはどんな人物で、どのような経歴なのでしょう。
作品の背景が気になって調べてみました。年代は、1599年セビリア生まれ、1660年没、同年代にイタリア、ナポリ生まれのベルニーニがいます。(1598年~1680年 20年長生きしていますが)
最高傑作とされる晩年の作品です。
この展示場所は2階(現地は1F表示)中央。彼のコーナーの中で最高傑作とされるのが「女官たち」「ラス・メニーナス」1656年、318×276㎝
・・・登場人物は、中央に王女:マルガリータ、その左右に白い洋服の女官(マリア・・・・)、(イサベル・・・・)、右下の犬を踏んでいる女の子が道化(ニコラシート・・・)、
その左で結構目立つ顔の人物は、軟骨無形成症(小人)(マリバールボラ)、その後ろ、ぼやけている人物の名前は不明、隣が(マルセラ・・・)、
左端の絵筆の人物が、当人のベラスケス、奥の階段からこちらを見ているのが配室長・王妃の侍従(ホセ・ニエト)、
登場人物は総勢9人と犬1匹、4人の視線の先にベラスケスのモデルが立っている。
モデルは国王夫妻、その姿が王女の右後ろ、鏡の中に描かれています。鏡の中の夫妻は実像が移っているのか、ベラスケスの描いているキャンバスの作品が映っているのか、鏡の角度からして実像でしょうか。
モデルの立ち位置から見た構図です。
ベラスケスはある日の一場面を忠実に描写する・・・王女以外の登場人物も丁寧に描写しています。
遠近法などの技法を巧みに使い立体感のある作品です。
作品も大きいですが、作品に描かれているキャンバスも大きく、また王室内部も天井が高く、数多くの作品が掛けられています。
この作品は、どこの場所に置かれたのでしょうか?国王の書斎という説がありますが。
マドリードのフェリペ4世の王城で火災に会い損傷し左右のサイズが小さくなり、王女の顔も修復されたそうです。
その場所に現在の王宮が建てられているようです。・・・10m以上離れても存在感のある作品でした。
・・・ベラスケスも若くして画力があります。1619年20歳「東方三博士の礼拝」(画像 略)などすぐれた作品が展示されています。
フェリペ4世即位後1623年にマドリードに移り、間もなく宮廷画家として召し抱えられる。
フェリペ4世の時代、まだ絵画は工芸で芸術とは見なされなかった。
ベラスケスは肖像画中心に描いていたが歴史画も描け1628年から宮廷内の役職を任命され、徐々に高い地位に上って行きます。
1629年8月から国王の許可を得てイタリアに2年間留学。(後にもう一度イタリアに行って皇帝の肖像画も描いています)
宗教画の依頼よりも肖像画の依頼が多く、その中で1632年(33歳)修道院の依頼で「十字架上のキリスト」248×169㎝ を完成。
4本釘の様式で、従来の慣習と異なり背景が無く、傑作と言われスペインで最も多く模写された作品という。
・・・肖像画は時の国王より権力者だったこの人物「オリバーレス公伯爵 ガスパール・デ・グスマーン騎馬像」 1636年頃 313×239㎝
伯爵の肖像画は、威厳のある作品に仕上がっています。
実力があり国王よりも伯爵を尊敬していたとか。
こちらは、新しい宮殿にと描かれた将軍の装束の国王の肖像画です。
前年1635年頃の作品 「フィリペ4世騎馬像」303×317㎝
振り返ってこちらを見下ろす伯爵のポーズに対して、国王は・・・。
・・・1640年代から宮廷画家とフェリペ4世のコレクション収集の兼任担当となり、収集品の責任者です。
1651年2月、侍従長に任命されました。このポストを得てから、地位と収入が得られるようになります。
この頃から鑑定家としての活動も始め、プラド美術館の大半のコレクションはベラスケスの指示で収集しています。
そして彼は宮殿内の描いていた部屋を、宮殿美術館・アトリエとして使用することを許さるようになります。
この部屋に度々国王一家が訪れ、「ラス・メニーナス」もここで描かれたようです。
その後ベラスケスは、サンティアゴ騎士修道会の称号を得るために労力を費やし、国王の口添えや教皇の支援を受け1658年に何とか獲得し、貴族集団に名を連ねます。
・・・フェリペ4世の娘、マリア・テレサ王女と従妹にあたるルイ14世との婚礼が、フランスとの国境近くのフェザン島で執り行われ、ベラスケスは宮廷配室長として列席しています。
調べてみると上昇志向が強く、公務が多忙なようですね。まもなく病で、61歳の生涯を閉じます。
・・・城中(書斎?)に掲げられていた「ラス・メニーナス」のベラスケスの胸に、念願だった騎士団の赤い十字架を、書き加えるように・・・・・誰が? フェリペ4世が自分で書き加えたという伝説が残っています。
・・・三大画家の最後は、少し遅れて登場し波乱の時代を生き抜いた「ゴヤ」です。
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