気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

イタリア チヴィタ(CIVITA)別名「死にゆく町」

2019-07-07 | 旅行記

これは修道院?・・・標高は高くはないが、確かに・・・天空の要塞かと思える・・・消滅寸前の町の様相です。

さてここは、

フィレンツェとローマの中間、いやローマ寄りの・・・標高はそんなに高くない420mくらいの高台の町

フィレンツェから南に160kmくらい走ります

途中、車窓から天空に虹が架かり何か良いことの兆候でしょうか・・・、

しばらく南下・・・やがて、オルヴィエート(ORVIETO)で降り、西側の小高い街に向かう

丘を登り、バニョレジョ(Bagnoregio)の駐車場に到着

駐車場横の・・・お土産屋さんが、迎えてくれた

ミニバスに乗り代えて、この上に広がるバニョレジョの街外れまで・・・5分位走ると、

道路沿いに長い塀と並木道が続いています。

・・・やがて大きな看板が現れた・・・街外れでしょう・・・目的地近し

 

Civita (チヴィタ)の大きな写真です。

この画像は、ミニバス後部の窓からの光景です。(向こうから・・・こちらに走ってきました)

公園内の駐車場?に到着したかな・・・減速して、右に曲がり・・・到着の雰囲気。

到着です。下車して、

上空からの写真を正面から見てみましょう。20~30棟の大きな建物があるようです。

振り返り、左前方に進むと・・・この高台の端から

・・・はるか彼方に・・・地平線にそびえ立つ孤島が見えました。

周囲をカットし、ズームイン

何故か、危ない雰囲気・・・

崖の断層が露出しているのを見る限り、岩山では無いし、隆起でもなさそう、

脆い地質で周囲が崩落し、孤島になった雰囲気です。

丘状の高台にあった城壁に囲まれた街が・・・やがて尾根状になり更に土砂が流れ、・・・歯止めが利かないのでしょうか。

建物は中世の時代でしょう、相当古そうで、地盤強化の杭などは打ち込んでいないでしょう。

・・・ここで、後日調べた地形図を見てみましょう。

・・・中央よりやや下側の左端に最初に降りた、バニョレージョ駐車場です。

左側の画面外に大きい湖がありますが、高速道路は画面の右側(画面の外)を南北に走っていますので

右側から画面の中央を左に横切り左端のバニョレージョにやってきました。

こから背骨状に見える街並みを右側に2/5くらい進むと市街地の端、公園内の駐車場です。

展望台があり、それから広場の手前側の崖を下り、右に進むと、そこから先は入場料が必要になります。

その先・・・橋が良く見えませんが尾根を右に進むと・・・チヴィタの文字が読める所が目的地です。

・・・では先に進みます。

このような崖の上から、下の車道まで下ってきました。展望台から降りるには近道です。

舗装された坂道を下っていくと(振り返った画像です、奥から来ました)

お地蔵様のような祭壇が・・・どんな悲しいことがあったのでしょう・・・地震かな? 花束が供えられていました。 

ここは行き止まりの広場、周囲を見ると反対側に・・・入場料を売っている小屋があります。

入場料は,イタリアは赤字国でインフレでしょうか、・・・結構高くなってきたようです。

 

 多分、2013年頃から入場料を徴収し、1.5€・・・値上げで、現在は、5€/人、

・・・ここで改札、係員のチェックを受けます。

 目の前には、・・・長い橋があります。

橋を再確認しましょう。先程の高台、展望台からの画像です。

画像の右側の下が入場券売り場、その先から全長300mの・・・結構高い高架橋を進んで行くことになります。

少し登り傾斜の橋を進む、結構高いが、・・・下を覗いてみましょう。

・・・気になったのが横の手摺、年季が入っています。

遠目からは、最近造られたのかと思っていたが、錆を落として塗り替えないと、ボロボロにすぐなりそうで危険です。

 

調べてみると、・・・橋は1965年に建てられたと地元の記事にあったと思いましたが、

橋が無ければ生活できない状態が・・・50年以上も昔から続いているのが・・・不思議です。

橋の反対側の下を覗くと・・・この太く黒いゴムパイプは何でしょう

ガス、石油、電気・通信ケーブル、それとも水道でしょうか。

・・・イタリア各地に、崖の上のような高台に小さな町ができていて、ケーブルカーで行き来する所が沢山あります。

このチヴィタは地震に何度も襲われ、周囲の崖から徐々に崩落し、住民は減少し続け、現在は数世帯しか住んでいないようです。

・・・橋が使用できなくなったら、崩落や倒壊の危険があるので観光地としても安全優先、永久保存は難しいでしょう。

橋を渡り終え、右に急な坂道を登ると曲がり角に、豪華な門扉

避暑地でもないでしょうが、豪邸?

・・・日本の山道とは違いますね、石が豊富なイタリアは、ここでも石畳みの道です。

左にカーブし更に登ると 

 城壁?の門、これは、サンタ・マリア門

昔は5つの門があったようですが、この反対側や周囲も現在は利用されていないでしょう。

城壁の左側に売店があります。

その先に進むと、・・・オッ!、ライティングされて・・・モダンな壁面、観光地でした。

・・・「死にゆく町」と紹介されて・・・今のうちに見に行こう・・・、物珍しさとこの光景に・・・訪れる人々が増え、

しかし、この町に金が落ちるわけでもなく、・・・覗かれるだけでは、生活も大変です。

・・・入場料を取りたくなります。

これでまたニュースになり、旅行会社もツアーを企画し、観光客が押し寄せ・・・

宿泊施設を整備して、レストランと土産物を用意して、

人手が足りない・・・バニョレージョの町から通勤して頂こう、・・・取り合えず・・・よかったですね。

・・・年間来村客は数十万人に近くなってきたようです。

メイン通りの左手に美術館、食事や売店もあります。

広場になっていて、・・・手前側には、カラフルな線香が、アロマでしょう

台上には、アクア、基礎化粧品のようなボトルが並んでいました。

綺麗な湧き水、山野草、ハーブ、農園、修道女、・・・そんなイメージ?

に近いような・・・商品を販売していました。

さて、ここでも町一番の大きな建物が中心にドーンと建っています。

(日曜日に、皆でブラブラと街外れの教会に行くのもありでしょうが、・・・競って一等地に豪華な教会を建てたいのでしょうね)

サン・ドナート教会と鐘楼です。左は宿泊ができる建物です。

中に入ってみましょう。

建築当時住民は結構多かったのでしょう、思ったより広く、椅子も多く並んでいました。

正面の祭壇も立派ですが、右側に気になる彫刻が黒装束の・・・

下の案内文を撮影してなくて、詳細は不明ですが。

聖母マリア?、聖ドナート?、ドナテッロ風の作品?

そして、この奥にも・・・主祭壇の右側、礼拝堂でしょうか

リアルな磔刑、その下にライトアップされているのが、聖ドナート?

これらの彫刻は、ルネッサンス以降、バロック時代頃の作品でしょうか。

横たわっているのが、ライティングで・・・見えるようで良く見えない、・・・近くに行けないのが残念です。

さらに右側に、聖母子像があり、ここでは優しい光を投げかけていました。

その右横に、赤い文字からすると・・・ 何かを訴えています

教会、鐘楼、2016年10月30日のイタリア中部地震で深刻な被害を受けました、・・・義援金募集

そうでした、まだ記憶に残っていますイタリア中部地震・・・TVで地震の被災地映像が流れました。

 イタリアも日本と同じく活火山が多く地震大国です。

調べてみると、このチヴィタは、何度も地震の被害を受けているようです。

1695年の大地震は、ローマ教皇らの教会復興で再建されるも、1764年の地震では周囲の道が崩落したようです。

想像では、高台の街並みは周辺部が崩落し、町は相当狭くなるしバニョレージョに行き来するのも難しい、物流も滞り、・・・

この時期あたりから・・・住民が町を捨て始めたようです。

・・・元々この地の祖先は、エトルリア人と聞いてビックリ・・・

古代より優秀な技術屋のイメージがあるエトルリア人が興した町?

エトルリア人の起源について良く分かってないようですが、イタリア半島では先住民とのことです。

ギリシア文明が先にありました、南部のシチリア島やナポリにギリシア人が移ってきますが、当時現在のローマなどに都市は無く、

中部以北にエトルリア人が住んでいて・・・歴史の教科書はそうでした。

何故かエトルリア人は、鉄鉱石などから精錬法も考え出し、鉄器の製造技術が・・・あったといいます。いつ頃?

ローマ建国の神話(紀元前753年)の頃には、・・・信じられないが、完成していた、・・・銅や銀、錫も精錬できて加工する技術も身に付けていた。

山岳地帯に住むのは、鉱山に関心があり、地震が多発しても断層などから各種の鉱物を発見できたからでしょうか。

後のローマ帝国では、橋やトンネルなどの技術がエトルリア人から受け継がれ、優秀な土建集団がヨーロッパ全土に広めることになります。。

古代エトルリアは12の都市国家があり、紀元前6世紀頃まで繁栄したようです。

・・・ローマ建国の神話では、テヴェレ川の上流に、エトルリア人は都市を築いていたとあります。

ではこの地、チヴィタでは橋の先・・・丘の向こう東に10kmくらい、標高70~80mの低地にテヴェレ川が流れています。

テヴェレ川は、その先北東に水源があり、ペルージャのアペニン山脈から流れ出て、河口まで405㎞の大河です。

この付近から北にエトルリア人は住んでいたのでしょう。

このテヴェレ川を下流に下れば、・・・ローマです。

建国したローマは、ロムルスが初代ローマ王(父母は、・・・神話ですので略)、2代はサビーニ族、3代目はラテン系王、4代目サビーニ族、

5代目がギリシャ人とエトルリア人のハーフ、6代目:エトルリア人

この6代目の王の頃からローマは発展するが、エトルリアはイタリア北部で衰退し、やがて5代目の王の一人息子が6代目の王殺しで・・・

未承認の7代目王に・・・エトルリア人の王です。

・・・紀元前509年頃、ローマはエトルリア人の7代目王一族を追放し共和制になります。

244年間、ローマ建国からの王政時代は、エトルリア人は活躍していましたが・・・末路は残念、

・・・その後、共和制の弱小ローマ国にエトルリア国が攻め込んでいますが、攻略できず

・・・必死に守るローマ国、・・・何度となく戦い、やがてエトルリアは衰退、敗戦、

紀元前264年ローマ軍にほぼ征服されてしまったようです。 

これらの建物の石は、柔らかそうです。日本の大谷石と同じ種類なのでしょう。

紀元前のエトルリア人の痕跡は感じられないですが、

ローマ帝国末期からのカトリック教の影響は今日まで続いています。

地震が無ければ平和な町です。

この橋を戻ります、丘の向こうがテヴェレ川です。

地元の記事に、こんな画像がありました。

 そして、ミニバスで終点の駐車場へ

こんな雲海に浮かぶ画像が流れていました。

地震の災害に遭われないことを、お祈り申し上げます。


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