気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

(涼を求めて)、続イタリア;ローマ ① 霧雨のヴァチカン

2019-07-21 | 旅行記

日曜日 F1、ドイツグランプリ、メルセデスの本拠地でレッドブル・HONDAの M.フェルスタッペン今季2度目の優勝

トロロッソ・HONDAの D.クビアトは2位と思われたが惜しくも3位入賞・・・、このレースもドラマチックなレースでした。

https://youtu.be/h0l4HJr-QHI

さて土曜日は、東京にも台風の余波が予想されましたが、予報では8時頃から雨でした。

・・・急きょ出かけることになり

風が強い、帽子を飛ばされないように・・・、

かつては、浅草付近のグランドでは自由にシートに横になれたのだが、

・・・予約制になった?、有料?、席は無い・・・、年々規制がうるさくなって自由な移動もできなくなってきた。

PM7時過ぎ、火の粉が降り注ぐ危険は全くない所で、シートで横になり隅田川花火鑑賞となりました。

南風の影響で煙が上流に流れ、スカイツリーも煙に包まれ、

ツリー上部は煙の中で、良く見えなくなった。

花火は最新式のネオンカラーがグラデーション調で変色したり、楽しい花火もありました。

海外からのツーリストも多く、花火と共にスカイツリーも人気が有るようです。

・・・8時10分、帰りの人混みで車が出せなくなりそう、・・・早めに車庫へと急ぎ・・・脱出、雨にも降られず、無事隅田川花火終了。

先週は梅雨明けせず、スッキリしない海の日、久しぶりに立ち寄ったら・・・水量が多いので思った以上に癒されました。

湯滝です。

展望台があり、お土産屋やなどもあります。駐車場は有料

こちらは滝の落ち口、立派な遊歩道が造られていますのでお勧めです。

そしてこちらが、湯ノ湖です。

ルアーフィッシングで人気の湖です。

この湖畔の右が道路、数台くらいの無料駐車場があり、この湖の向かい側が奥日光、湯元温泉

・・・下流の竜頭ノ滝から沢沿いの遊歩道を登ってくると・・・この湯元温泉まで結構良いハイキングコースです。

近くには男体山、奥白根山、・・・かつて鍛錬会で登った懐かしい場所でした。

・・・一方、こちらの並木は少し変わっています。

 日光の杉並木街道が自然に優しい日本文化なら・・・、ローマ街道と傘松・・・、

軍事車両の馬車がすれ違うことができる道幅約4mの石畳、道路断面は、礎石・砂利・敷石の多層構造、車道の中央部が高く路肩に排水される。

一直線に道路が敷かれ、坂道も急こう配を避け傾斜角は9度以下・・・橋やトンネルを多用し最短距離で都市を結ぶ、

これらの高速道路網は耐久製を考慮した自然を支配する設計施工、・・・何とざっと2000年前、日本では鉄のクワも無かったころです。

さらに、車道の両サイドに3mの歩道を設けるというる壮大な規模で・・・ローマ帝国内に造り続けた。

・・・しかし、すごいですね、技術と資材と労働力・・・そして統率力。

川や海、森からの恵みを必要最低限を頂いて、一日平安に過ごし、八百万の神に感謝する日本の人々の精神構造と大きく異なっている国に・・・またやってきました。

武力闘争で領土拡大、・・・あのローマ帝国の歴史は、拡大生産が管理の限度に近づいたのでしょう、奴隷も財産も食料も思うように増えなくなり・・・そして衰退と反乱、

為政者が領土民の統治に利用したキリスト教、・・・宗教を軽く考えたのか・・・多神教の容認を捨て、一神教をローマ帝国の国教にしてしまい・・・これが全土に浸透した。

・・・ローマ帝国の文化と、キリスト教以外は邪教とする宗教の布教・・・異国の出来事があまりに影響力が大きくて・・・、

他国に侵略して一神教を布教しなければ、自分たちの領土で勝手にすればいいのですが。

・・・現代では、ロケット砲搭載の無人機が他国の領空数千メートル上空を密かに飛来する、監視対象の地上の画像を盗撮し、

自国の安全な遠隔地で、無人機のライブ画面を見ながら、他国に空から一方的に武力行使が起こせる時代です。

現実に起こっていますが、宣戦布告も無く、密かな抹殺ですから、人権も国際法も霞んでしまいます・・・大変な時代になってしまいました。

・・・技術と軍需産業が進みすぎて、個人の力量では全体像が見えなくなってしまいました。

しかし、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも軍用品を開発していたのですが、早く争いの無い統一を願っていたのでしょう。

そんな時代の遺産を見たくて、・・・またローマをフラフラ歩くことになりました。

・・・下図は、周囲の城壁をみるとローマ帝国全盛の3~4世紀頃の様子でしょうか。

この絵は、コロッセオ内の展示資料を借用しています。

テヴェレ川が、下から右上に向かって流れ、中洲がある付近の両岸が湿地帯、この左上方に七つの丘があり

ロムルスがローマ建国をしたと言われるパラティーノの丘もあります。

テヴェレ川の上流から見て左岸に都市が集中しています。右岸は、レンガ工場でしょう。

城壁内には、オベリスクが沢山立ち並び、コロッセオが中央上部にそびえ立っています。

エジプトの公共事業、ピラミッドに影響されたのか、これだけの大きな建造物が描かれているという事は、

毎日どこかで石組みをする工事が行われていたのでしょうね。

争いが絶えない時代です、定期的なイベントでローマ市民の結束力を保つ必要があります。

農耕民族では収穫祭や村祭りでしょうが、ローマ帝国では戦勝記念のパレードや凱旋門建造、・・・捕獲した奴隷の格闘戦も組まれた事でしょう。

猛獣との格闘や、奴隷同士の格闘、血が流れる悲惨な光景を、心拍数を上げ興奮状態で見るのが・・・この人種の娯楽のようです。

ラテン系の国で行われる闘牛は簡易版でしょうか、入門編だった日本の闘犬(土佐犬)は・・・娯楽は昨今他に多くあるので衰退しました。

昔のローマ市内・・・城壁内の中央のやや下に、128年に再建されたパンテオンの神殿も見つけることができます。

2000年前、これが本当に建てられたのか? と思いたくなりますが、

その前から、ギリシアには多くの神殿がそびえ建っていたのですから、・・・この時点で既に何百年の技術の蓄積があるのです。

・・・ローマの都市をざっと振り返ると、・・・紀元前、王政時代にガリア人から侵略されています。

その後800年、19kmの城壁に囲まれたこの都市は外敵の攻撃は無かった。

約100万人が暮らしていたローマは、410年に西ゴート族に陥落させられ、市内では略奪が起きたと各種の歴史書に書かれています。

4万人の西ゴート軍にローマは包囲され食糧難から飢餓に苦しみ、その後三日間に渡って略奪されたそうです。

4万人から・・・想像ができないですが・・・無法地帯です・・・被害が少なかったのは教会関係の施設だけだったそうです。

・・・100万の老若男女・・・どうなったのか、・・・被害の少なかったキリスト教関連施設から、・・・少しづつ復興したようです。

時代が進み、キリスト教の聖職者達はやがて、ローマ教皇をトップに階級を設けます。

大司教は土地を寄進され領主の地位にあった。

同様に司教も教区という広い範囲を管理し多くの権限があった。

その下に司祭・助祭、最小単位の教会で管区内の人々を管理し、10分の一税を徴収できたとあります。

修道院長・修道士がその下で信者が最下層・・・。

階級ができ聖職者の生活が安定すれば、聖職売買、聖職者の腐敗、堕落、俗化もおこります。

ローマ教皇は8世頃から寄進により教皇領を持つようになったようですが、武力もなくてなぜ権力を持ったのでしょう。

・・・800年ヨーロッパ最大の勢力となったフランク王国のカール1世は、ローマのキリスト教を容認し、各地に教会・修道院・学校を建設させているようです。

そして、最大権力者のカール1世がローマのサン・ピエトロ寺院(聖ペトロ大聖堂)のミサに参列し、ペトロの墓前で頭を垂れた。

今日とは違い、建物は普通の教会程度だったでしょう。

この時、ローマ教皇レオ3世は、黄金の冠をカール国王の頭上に置いたそうです。

・・・カール1世は突然の行為を拒否せず、冠を受け入れたが、これが後に皇帝の戴冠式と呼ばれるようになったようです。

教皇が勝手に冠を授けたが、・・・これが神によって戴冠される儀式の始まりのようで、・・・授けるのは、ローマ教皇・・・

この演出は、フランス国王がローマ皇帝になりました、承認者の権限がローマ教皇にありますと宣言したように見えたでことでしょう。

カール1世は、戴冠の儀式と分かっていれば来なかっと伝えられているようですが、近年は知っていてローマ皇帝の冠を受けたとする説が有力のようです。

しかしカール1世は、神の代理人を自称する者(ローマ教皇)は武力も無く、自分より権力者であるとは・・・もちろん思ってもいないでしょう。

・・・802年、司教会議で「国家の首長は、聖俗両界の首長であり、司教の叙任権は国家の首長がもつ」と決議された。

叙任権は権力者のカール1世と思われていたのですが、・・・やがて時代が移り・・・ご承知の様に教皇は、皇帝を・・・破門すると宗教で脅したのでした。

・・・11世紀から13世紀、この時代がキリスト教の最盛期でしょうか

1092年 ピサ が司教座から大司教座に昇格しています。

1419年 フェレンツェ がピサに遅れること300年、大司教座になります。

・・・中世の雰囲気とは・・・あのローマのパンティオンの絵が、パンティオンと真実の口近くのレストランに飾ってありました。

社会が豊かになり、芸術家が育ってきました。

ローマの歴史、・・・中世の主役は、やはりローマ教皇でしょう。

ヴァチカン・ガイドを参照しながら調べてみたいと思います。

・・・1504年ダビデ像を完成させたミケランジェロは、ローマ教皇 ユリウス2世からローマに呼び戻され、教皇の霊廟を造れと命じられた。

(ウフィツィ美術館蔵、ラファエッロ作)

このユリウス2世(本名、ローヴェレ)の肖像画は見る機会が多いですが、この前任者がアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)。

(肖像画:ウィキペディア アレクサンデル6世)

この二人の教皇争い(1492年)で、ボルジアは枢機卿を買収し圧勝、敗れたローヴェレはフランス王の下へ逃亡。

・・・ギリシャ神話の時代かと思うようなアレクサンダル6世の教皇時代、教皇だって元は人間だ・・・と自由です。

教皇に子供がいた・・・認めましょう・人間だから、その息子、チェ-ザレ・ボルジアも教皇の武闘派として有名です。

このチェザーレ・ボルジアが教皇領を支配した地に、レオナルド・ダ・ヴィンチが赴き、軍事顧問となっている・・・そんな時代でした。

そして、フィレンツエでサボォナローラが、1498年5月23日絞首刑を受け、火刑になったのもこの教皇との対立がありました。

・・・今回は、システィナ礼拝堂です。

ユリウス2世は、ミケランジェロが自分の霊廟建設で巨大な大理石を運び入れ・・モーゼを彫りだすと壮大な構想を聞いていた。

並行して進む大聖堂の建築家であるブラマンテが、作業中のミケランジェロに霊廟には何体彫るのだ?・・・40体 との答え、

続けて・・・ダビデを彫るのに何年かかった?・・・4年 とミケランジェロ、私は作業は早いです

霊廟に40体・・・、だったら完成に160年もかかるだろう・・・と言うような問答があったそうな・・・。

・・・さて、いつになったら完成するのか?・・・教皇は自分の霊廟に関心が薄くなり

歴代の教皇が手を付けなかった殺風景な礼拝堂に対して、あの馬小屋は20数年前に改築しているが(建て替えないで)・・・、

(出典は、昔の雑誌と思ったが?)システーナ礼拝堂の昔の天井

ミケランジェロに礼拝堂に12使徒の天井画を描かせる・・・、と言い渡した。(ブラマンテの陰謀説は、省略)

これが1508年のこと、

(ヴァチカン市国、スイスの衛兵、制服はミケランジェロのデザイン)

・・・礼拝堂:長さ40.23m、幅13.41m、高さ20.70m、後陣(アプス)は無い。

教皇宮殿を防御する役目と礼拝堂の二つの役目を持つため外壁ががっしりして、

内部は地下室、中二階(執務室もある)、礼拝堂、上部に広い屋根階、外側に警備用回廊もある。

・・・ケランジェロは、自分は彫刻家であり、絵描きではないと断り・・・ローマから失踪するが・・・、

捜索され、結局引き受けるためローマへと・・・フィレンツェからフレスコ画が描ける弟子達を連れて戻った。

・・・教皇に詫びを入れ、礼拝堂に足場を組み、希望通りの12使徒を描き始めたが、・・・二人目描画中に、

モチベーションが上がらず・・・作品を一部消去し・・・またも失踪、

しかしまたも捜索され、再度教皇に侘びを入れ、・・・天地創造を描かせてと、下絵のプランを提出・・・、工期は半年から1年と答えた。

一人で完成させるからと、教皇に12使徒の5倍の10000ダカットを要求するが、3倍の6000ダカットでと命じられ・・・作業にかかる。

(ヴァチカン美術館のスライド紹介画像より)こんな足場で、上を向いて描いていた

半年経ったが、Ⅰ/10も出来ていない、報酬は払われず、

・・・教皇-ミケランジェロに「いつ終わる?」、返事は「完成したら」と、度々やりあった・・・有名な話です。

教皇は戦争に出かけることも多く、何かと戦費も必要になる時代に、もう一人のスーパースター、ラファエロが1508年から宮殿で描き始めました。

時代はルネッサンス末期です。

・・・この絵も同じレストランにありましたが、サンタンジェロ城の 祝 修復記念なのでしょうか。

今日のテヴェレ川とサンタンジェロ城です。

ローマは彫刻だらけ・・・この橋の上にも素敵な天使像があるのですが、ローマを創った男は別途

サンタンジェロ城からヴァチカン市国への・・・この大通りは、ミケランジェロの時代はどうだったのでしょう。

このような大通りはありませんし、馬車道と建物が立ち並んでいたようで、現在の広場も無かった。

ヴァチカン美術館の入口へ向かいましょう。

このような城壁に沿って入口があります。

城壁のアーチは従来の出入口、これが現在は個人の出口専用になっていて、この城壁の左に沿って進むと張り出した部分に

新しく回転扉の入口が造られた。多分2000年頃完成

室内で荷物検査と、改札が設けられている。

エスカレータで上階に進み

館内でいろんな案内がありますが、このジオラマで先程の城壁が手前になります。

この城壁から手前に進むと最寄りの地下鉄の駅ですので、駅から徒歩でこれます。

さて館内は、省略、反対側のの宮殿から、礼拝堂に階段を降りて入ります。

システーナ礼拝堂です。室内は撮影禁止・・・昔の映像から

階段からドアの先に・・・祭壇近くの所に出ます。

高所に大きな窓が12ヵ所ありますので、明るいです。

多分私語禁止だったでしょうか(小さい声で)

窓から上部がミケランジェロ、彩色が結構鮮やか、右側が本来の出入口

そして、天井画は旧約聖書が題材

奥の祭壇画は、後年ミケランジェロが描かされたものです。最後の審判

天地創造、主役はこの部分でしょうか

ミケランジェロは、ローマを救った、・・・これから60代、70台になっても頼られることになります。

 

 

 

 

 

 

 


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