青空と緑の木々に囲まれて、朱色の塔が鮮やかです・・・落ち着く風景です。
目指す根本大塔の手前に、柵で囲まれた木々が・・・三鈷の松です。近づいて、探し物を始めます。
競技場のトラックのように綺麗に整地された地面・・・松葉を探しているのですが・・・朝のお勤めで掃き清められたのかあまり落ちていません。
案内板があります。伝説の神話、三鈷杵(サンコショ)が・・・この松の木は三鈷の松と呼ばれ、三つ葉が特徴と書かれています。
・・・落ち葉を見つけ・・・幸運のお守りにする人が現れブームになっています。残念ながらこの時は落ち葉が少なく、三つ葉も見当たりませんでした。
では、目の前の根本大塔へ、正面の階段を上がり下足を脱ぎ、右端の扉から脱帽して入場します・・・原生林を切り開き密教・曼荼羅の世界観を表現された内部とは・・・。
残念ながら、内部は写真撮影禁止です。
左前方に祭壇があります。焼香に進む前に、卓上右側に山吹色の練香のような物が置いてあり、右手で少量取り、両手の平で擦り合わせ参拝します。
これは、後で調べると、塗香(ズコウ)と呼ばれる香のようです。参拝前に香を塗って身体を清める作法のようです。
ここで頂いたパンフレット等には、大塔は816年高野山開創の頃より着手し、空海(大師)と真然の二代を費やして887年頃完成とあります。
パンフレットには高さ50m、約30m四方と書かれていますが、一方拝観時の入場半券には、高さ49m、約24m四方の一層塔とありますが、多分この違いは、基準点が異なるからでしょう。
内部の写真は、高野山町のHPで公開されていますので借用しましょう。
中央は、胎蔵界の大日如来:大きい仏像です、四方に金剛界四仏といわれる、東に阿閦 (アシュク)、南に宝生、西に無量寿(阿弥陀)、北に不空成就 を安置するとあります。これらの四仏も、大きな仏像です。
春日野氏の「仏像観賞のしかた」によると、阿閦 (アシュク)は、鏡のようにすべての事象を映すという意味で「大円鏡智」(ダイエンキョウチ)、
宝生は、宝を生み出し、すべては平等と知る知恵「平等性智」(ビョウドウショウチ)、
阿弥陀は、サンスクリット語で無限の寿命を持つ者という意味、中国に入って無量寿(ムリョウジュ)とか無量光と訳され、阿弥陀は無量寿とも呼ばれる。お経、観無量寿経によれば、十万億土に極楽があり、死に臨み、罪を懺悔し、ひたすら念仏を唱えて極楽行を乞い願えば、阿弥陀が枕辺に迎えに来てくれる。
不空成就 は、成さねばならないことを成功させてゆく知恵を意味し「成所作智」(ジョウショサチ)の智を表します。
以上の四仏(如来)と大日如来を含め五智如来(ゴチニョライ)というそうです。
・・・密教の教理を推し進めていくうちに生まれた仏様が現れます。阿弥陀や薬師などの如来を統一したのが「廬舎那仏」(ルシャナブツ)、東大寺の大仏様です。
平安時代には釈迦以外に、明王、天など仏教の守り役もでてきて収捨がつかなくなり・・・仏の統一が必要となります、摩訶廬舎那仏が誕生し、摩訶は大きいとの意味から大廬舎那仏になり、大日如来となったようです。大日如来は、廬舎那仏をも統一する仏として生まれましたとあります。・・・偶像を説明することになると、縦横の関係を説明しそれらの調整も必要になることでしょう。
さて五智如来の他には、天地2m位の大きな円筒形の仏画がガードマンのように立ち並んでいます。これは柱絵で十六大菩薩が16本の柱に描かれています。
如来も四仏も十六大菩薩も、一段(推定60~70㎝)高い内陣に配置され、周囲に囲いが無く、曼荼羅世界の広がりを感じ取ってほしいという空海さんの思いが伝わってくるような感じがします。
壁面には八祖大師が描かれています。
・・・さて改めてパンフレットを読み返すと、建立されてから5回の消失再建を繰り返し、現在の建物は昭和12年(1937年)に完成とあります。柱絵や壁面の絵は堂本印象画伯の筆でとあります。
中央の如来から四方に広がるこれらの壮大な空間が、今日立体曼荼羅と呼ばれています。この大塔は再度じっくり観賞したいものです。
・・・根本大塔を後にし、出口から視線を右に振ると、西側の伽藍が木立に囲まれています、ここは修行道場だったと思いだし、空海さんはすごいなぁー・・・、
目線を手前に引くと先程松葉を探した三鈷の松が見えました、今日ここは有名な観光地でもありました。
右手、目の前が金堂(本堂)です。こちら側からは入場できないので、正面(中門側)に向かいます。
前方に白い鐘楼があります。
大塔の鐘(ダイトウノカネ)、これも消失して三度ほど改鋳されたとあります。鐘も大火の際は重くて、運び出すのは後回しにされたのでしょう。
それでも現在の鐘は、1547年戦国時代の鋳造で、直径7尺(2m120㎝)重量1600貫(約6トン)もあります。
日に5回、計108の鐘の音が響くそうです。
・・・中門の正面に戻り、改めて見てみると落ち着いた建物、これが日本というような本堂(金堂)に・・・石段を5段ほど上がり、本堂の屋根の下で下足を脱ぎ、木製の階段を8段ほど上がると右手の扉が内拝入口となります。
金堂と呼ばれるのは、屋根の色からのようです。空海さんが創建された当時は講堂と呼ばれ、寛永時代に類焼に合い、・・・二層の銅瓦葺(ドウカワラブキ)に再建されました、・・・この輝きから金堂と呼ばれるようになったようです。
その後もしばしば火災にあい、現在の建物は7度目の再建となるとのこと。
昭和7年9月に再建され梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m、一部から反対もあったようですが、もう消失させてはならないと、鉄骨鉄筋コンクリートのようですが、木造建築と思うほど落ち着いてこの聖地に溶け込んでいます。
ここも撮影禁止、そして塗香で清め中央で本尊に焼香します。大塔もここ金堂も線香はご遠慮くださいと書かれています。
さて、ここの本尊の薬師如来、今年初めて開帳されました。高村光雲氏作、大きな仏像です。TVで放映されていました。
昭和の大火で本尊が焼失したとありますが、秘仏とされ誰も本尊を見ていない、記録も無い。そこで昭和の仏師が高野山金剛峯寺から製作依頼されて、ものすごく大きい仏像を完成された、・・・本尊は秘仏、今年本尊を1,200年の歴史で初めて一般公開されました。
思うに、秘仏である本尊も焼失してしまうと、・・・新しくなった本尊は、多くの関係者で開眼法要などは執り行われたでしょう、あるいは秘仏は関係者の目にさえ触れず収まったのでしょうか?・・・今後は秘仏から公開仏になったのですから、鑑賞できる芸術品の本尊として・・・定期的な公開を期待しましょう!
金堂内は、本尊の薬師如来(阿閦 (アシュク)ともいわれています)があり、一般には本尊の脇が日光菩薩と月光菩薩と言われています。
これら内陣は格子で囲まれその周囲を右回りで拝観します。周囲は思った以上に広く正面と東西は畳が横に6枚(5.4m)、裏側が3枚(2.7m)裏側に天井まで届くような黒くて大きい扉がありました。ここから本尊を搬入されたのでしょう。
金堂の内部は四方が高さのある障子戸で、高窓もあり採光もよく思った以上に明るい室内でした。さらに高窓の上からスポットライトも当たっています。内陣の東西の壁面に掛けられていました貴重な曼荼羅は、残念ながら格子越しで鮮明には見えませんでしたが。
内陣の東側後方に象に乗った仏像がありました。・・・象・・・平安時代初期、海の向こうに唐があり、はるかその西方にブッダの国インドがあり、・・・インドに聖なる動物 象がいた・・・どのように象の大きさを説明されていたのでしょうか。龍や麒麟と比較されたことでしょう。
後日仏像の資料を探してみると、これは・・・普賢菩薩のような・・・、しかし、分類はあまり意味が無い、・・・宗教を理解したいが、じっくり修行する余裕も無く、偶像を鑑賞し、その時代背景を考えることに興味を持つこの頃です 。
信じることから始まります、あなたは信じますかと言われ・・・無条件に何かを信じることはないでしょう。原理主義にならず、良いものは取入れて、消化して、独自に考え、判断をする・・・新しく価値観を再構築する、バラモン教、ヒンズー教も消化し中国で後期の仏教を吸収し、日本で熟成された独自の教えに・・・高野山で若干触れられたことに喜びを感じ、奥の院に向かいます。
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