ずっと同じ仕事をしている中において
仕事に対しての向かい方が
変わっていく人は多いのではいでしょうか?
初めはただの仕事として選んだのにはまっていく人もいれば
やりたくて初めて、何十年もやるうちに情熱もなくなる・・・
最近の私は後者でした。
人からしたら大した仕事でなくてもいいのです。
自分にとっての仕事なんだから・・・
仕事は対があって成り立つもの。
それなのに自分の気持ちが
そこに入っていないなんて失礼なことだ。
やる気や情熱。
自分のために・・・という人も多く見る。
けれど、私は自分のためにというのは好きじゃない。
思い出せば若いときは追い求めるものが
自己満足の部分もあったと思う。
追い求めるものがもっと実践的に生かすために
使われなくてはいけなかった。
ここ最近、もっと何かが変わってきている。
「私に」仕事をして欲しいと言ってくれる人があるのなら
もっと、もっときちんとしたものを提供するべきだ。
常に新鮮に取り組むようにしなくてはと・・・
今年になって考えたのに、もう一度見直す必要がありそうだ・・・
自分が自分の立場で何ができるのだろう?
なんて普段考えることはあまり無いと思う。
でも、そこが大事なんですよね。
そこでしか、そこからしか出来ないわけだし・・・
大きなことばかりに目をやることもなく
それぞれのいる場所で何ができるのかを認識する。
それができたときに、やっと次のことに気づくのかもしれませんね。
段階をへていく・・・
稚拙な考え方をすると、
やりたいことがすぐできるような勘違いをちてしまうことがある。
例えば、楽器もプロなどが扱っていると簡単そうでかっこいいもの。
自分だって楽器さえ手に入れれば
直ぐに扱えるようになるような気がして買う・・・
ちょっと習いに行って全く自分では練習しないような・・・
一つのことをそこそこできるようになるのも自分自身で努力し
時間がかかるのに、何故か自分一人でもコツコツ努力が
必要だということを忘れてしまう。
生に対し丁寧に熱心であること・・・
なかなか実行するのは難しく忘れがちですが、
それが自分自身の人生を生かすことに繋がるのかもしれません。
誰かが何かを言ってすぐに信用するのは
言った人の背景に何があるのかで決まる。
でも、背景に惑わされているだけではないか?
例えば、心理学者という肩書を持っている人のコメントが
的を得ているかと言えば必ずしもそうではなく
ただのテキスト的な回答のようで
本当に的確なことを言っているとは限らないのと同じで
肩書や背景で信用していることが多い。
そんなことを思うと、全く意外だと思う人が
意外な真実を言っている可能性もある。
大事なことを見逃さないように
日々、人の何気ない言葉をしっかり聞くことが大事。
自分にとって意外と必要なことや大事なことが
含まれているかもしれませんよ。
「普通」
人生で物事の初めに体験していくことが
自分の「普通」となっていくようだ。
そう考えると、「普通」は自分が体験していった物事の
刷り込みと言える。
これって・・・ちょっと怖くもあります。
この「普通」
身近なものなら、自分が育った家庭。
食事からマナー、愛情表現、家族関係から人間関係などなど
全ての基本はここが大きく自分の人生に作用する。
そのうち初めて恋愛をしたとき
浮気をする人と付き合ったら
次の人も浮気をするのではないかと思ったり。
いい普通。
悪い普通。
悪い普通を覆すのはかなり大変なことで
最初はその普通が人生を難しくしていることさえ
気づかないのだから厄介です。
それを覆せて初めて自分の普通が足かせになっていたのだと分かる。
いい普通を増やしたいものです。
先週は自分の苦手で弱い部分が仕事をするうえで改めて反省点となった。
弱点はなかなか直らないものだ・・・
むしろ苦手が増しているような?
向き不向きというものがあるけれど
避けてきていても毎回そんな場に出くわすし
年齢と共に苦手とも言ってられない仕事もある。
少しずつ必要なものを身につけながら
折り合いをつけるしかない。
苦手を言い訳に、全く避ける道も選べる。
少しづつ自分を進化させていく道も選べる。
好きなほうを選べばいい。
何でも人生は自分で選んできている。
人はよく言い訳をしたがるもので
仕方がないとか誰かや何かを言い訳の種にする。
物心がついたころから少しづつ選び取っているのにも関わらず・・・
中学や高校を出る頃には自分で選んでいることが増えている。
どの人と友達づきあいをするのか、付き合うのか
学生時代に授業をしっかり受けるのか、しっかり勉強するのか?
何をどう対処して向き合うのか?
ただ時間が過ぎるのを待ちながら過ごすのか?
興味を持つものに取り組むのか取り組まないのか?
そんな一つ一つの積み重ねが人生をつくる。
年齢に限ったことだけでなく、
気づいたときから取り組めることなのだと思う。
もちろん、早く気づけたら多くの機会を生かすことができる。
逆にいえば幾つになっても
ただ日々をやり過ごしているだけの人もいるということだ。
どんな人生を過ごしても自分自身のもので
人生をつくっている責任は自分自身にある。
だから今の私は、何度も機会が訪れる弱点を避けるのではなく
得意にはなれないと思うけれど
少しだけ上手にこなせるようになりたいと思うのです。
人生が今より未来、充実していくよう
できることを少しづつしていこう。
現実をどれだけ体験するのか?
現実をどれだけ生きるのか?
それがどんなに大事なことで、
どれほど自分自身の感情が動き反応するのか
初めて気づくことになるかもしれないということ。
想像と現実は違うこともある。
自分自身思っていたような対応もできないかもしれない。
自分の知らない一面が出てくるかもしれない。
現実はそんな風にきれいごとだけでは片づけれれないもの。
人間臭さはきれいごとではなく
どんな人にもその部分はあり、まだ気づいていないか
あまり強く出ていないなどネガティブな部分が
上手くコントロール出ているだけかもしれない。
理想や想像は現実ではない。
それらに近づいていける努力はしていける。
現実になった時の自分自身の反応もまたどうだろう?
そんな風に、経験することが実際の現実。
人生の中で偶然に起こした繋がりはどれほどあるだろう?
偶然というのは天命がもたらすものなのではないか・・・
準備ができたタイミングで動き出す、
そんな絶妙なタイミング。
人、モノ、 知識、技術どの準備なのかはわからないけれど
それぞれの人が行動を起こすことで動き出す。
だから、自分の行動一つが大事だということ。
いい偶然もあればよくない偶然もある。
ジッと待っていても何も向こうからはこない。
ガツガツ動いたところで、それに伴ったものでもないけれど
全く動かないよりは動いたほうがいい。
たまに耳にしますが、
何年も何十年も変わらない生活や同じ友人などと
いつものような日常を送って何も新しいことを取り入れないで
映画やドラマのような偶然の出会いだけを
待っている人がいるけれど、これも受け身で変化は少ないと思う。
変化を起こしたいのであれば新しい動きが必要なのに
新しい動きがないまま新しいことを待つ人も多い。
動いたから大きな変化があるとも限らないのに
動いたらすぐに変化を期待しすぎる人も多い。
いい偶然、悪い偶然・・・
全ての偶然。
一つ一つの行動の先に何が動き出しているのか分からない。
偶然と呼べるもの、必然となるもの。
必然となるものは見越して注意していかなくてはいけない。
普通の人もいい偶然は人生の中に起きる。
大業を成し遂げたり大きなことをする人は
そのいい偶然の数がもっとあるのかもしれないなぁ・・・
夢の中で衝撃的な出会いがあった!
夫婦で友達の結婚式に招かれて行ったときに
知人に紹介された人が
山岳研究科(そんなのあるのか知らないけど)の教授で
「000です。29歳です。よろしく」
と言ってジッと私の目をみて握手してきた。
私も一目で生命力溢れるイキイキした自信がありそうな
顔つきに魅了されてしまった。
そのままお互い目も離さず話しに夢中になって
大学の校舎を移動し
(披露宴を大学にある講堂のようなところでやっていたので)
彼の研究所へ案内されて行くと
女子大生たちが興味津々で先生をからかったりして
私たちを見ていた。
私はもっと話していたかったけれど
夫が彼と私の間に何かを察して何処かへ行ってしまったので
気になっていたのもあって、仕事場だけみて帰ることに。
すると、彼は慌てて書くものを探していたけれど
見当たらなかったので学生にペンを借りて
私の持っていた本に電話番号を書き「電話して」と言って
私は部屋を出ていき夫を探して
駐車場のほうへ行ってみると
車に乗っている夫がいた。
そんな夢。
でも、いい夢だったので続きがみたくて
起きたくなかったなぁ~
素敵な一目ぼれの夢でした。
車のほうに歩きながら
「これが一目ぼれっていうのかぁ・・・」
なんてぼんやり考えながら歩いていた。
そんな夢!
会ったこともない人だけどタイプだったなぁ~
そんないい夢の時はもっと会っていたいので
起きたくなかった。残念!
夢の中で人生初のビビッとする出会いでした。
人に嫌われるより好かれたいのは当たり前。
でも、最近好かれたい好かれたいと言う気持ちが強過ぎて
大事なことを言えない人が多すぎるのでないかとも感じる。
好かれることと愛情はまた違うものなのに、
同じようなレベルに成り下がっていること自体
問題なのかもしれないけれど。
好き、好意はとてもわかりやすいけれど
愛情と言うのは分かりずらいときがある。
愛情があるからこそ、キツイことも言うかもしれないし
厳しくもするかもしれない。
嫌がられることだって言うかもしれない。
最近は、子供に嫌われたくないから友達のような親子で
何でも言えて隠し事をされたくない大人も多いらしく
キツイことも厳しいことも言えないで
何でも認めてあげることが良いことのように
なってきているようなことを聞く。
学校だって、経営上のこともあるので人気取りが必要。
先生も好かれないといけない。
友だちもホンネはほとんど言えないけど友だちらしい。
好意を持ってもらいたいことに必死過ぎて
本当に何かを思う気持ちは何処にあるのだろう?
愛情があるからこそ自由にさせないことや厳しいことも
もちろん、その時はなぜかわからずに悔しかったり
泣いたりするかもしれないけれど
何年も経ってからその意味も分かるもの。
中には単に感情的なだけで
厳しくされることもあるかもしれないけれど
誰もが成長中なのだから仕方がないと反面教師にすればいい。
人生、何でも自由で好きなことだけ出来るの?
よっぽど、守られた環境で全て誰かに与えられているか
世の中に何も物質が存在していなければ可能です。
けれど、小さな時から何も不自由さがないとしたら
自由の意味をどうして分かるのだろう?
いつでも思い通りにできた人は、
思い通りにできない時の怒りが激しくなる気がする。
思い通りにできないことはフラストレーションが溜まるもの。
それでも、自分で対処することを覚えていけていたら良いけれど
何もそんな経験が無くて
いきなり思うようにいかなければ突飛な発想しか浮かばないだろう。
愛のように目で見たり計れないものは
人によっての解釈も違うのかもしれないし・・・
目に見えず、計れないものについて話すのは難しい。
古いモノだけにしがみつこうとも思わないけれど
新しいモノだけがいいとも思わない。
モノも人も古き良きものは残し取り入れ
新しいものとの融合で、
より新しいものへと進化することは面白いことだと思う。
ただ古いものや考え方を知っているのは古い人になるわけで
新しいことしか知らない人には比較のしようもない。
いつの時代も100%の賛同があるわけではないので
自分が正しい正義だと思ったやり方を通すしかないけれど・・・
誰かの考え方や、
やり方を柔軟に受け止めることも必要になる。
これ自体、その時には正しいやり方か
違ったやり方が良かったのかさえ分からないわけで
後になってでしか結果は出ない。
何か、誰かを参考にすることはできるけど・・・
きれいごとも甘ったれたこともいらない。
そんなので社会の中で責任はとれないし通用しない。
古いものだけにしがみつけば終わりがくる。
だけれども、新しいものだけがいいとするのも
上手くいかなくなる。
どちらにしても、自分、家族、会社など
その単位での責任問題になるのだから
流行りだから、皆そうだから、好かれたいから・・・
何ていうくだらないことで自分の言動を決めないほうがいい。