昨日はまた、新しい仕事が始まった。
まア、これは本職関連なのですが・・・
慣れない人たちと仕事するっていつも緊張します。
人前で話すのは苦手なので、流暢に要点を、
自分の思っていることを上手く話せる人は凄いなア~
といつも感心するのですが。
それなのに、人前で話すことが良くある・・・
でも、いつも下手。
苦手なのに何十人の前で話したり、何百人の前で話したり。
面白いものですね。
変容するために古いものが崩壊する・・・
古いものが崩壊して変容する・・・
同じように見えて同じでは無い。
ここの読みは難しい・・・
多分いまの私はここにいるのだと思う。
でも、そのようなときは
自分で何かするようなときではないことが多い。
客観的に傍観すること・・・
時には流され、
流れる自分を眺めることが必要なときもある。
流れる自分をコントロールしようとすれば
ただやみくもに必死になるだけで無意味なもの。
変な夢をみた。
未来都市のようなところ。
政府機関なのか何かの研究なのか
今は詳しく覚えていないけれど、
ある人たちは身近な人をその組織に密告する。
何が基準だったのか忘れたけれど
私は密告する側ではなく
出来事にピリピリしながら仲間たちといる。
その組織が力があるので、自分がいい階級にいるため
力を得るためには平気で身近な人を
嘘でもいいから密告して自分が組織側であることを
アピールしていくのです。
ある場所で、仲間が密告されて逃げていた。
私たちは大丈夫だよといいながら
パニックを起こしている人をなだめようとすると
その人は訳の分からないことをわめきながら
倒れて発作を起こしている。
すると、他の人がもう手遅れだよ。と言うので
何のことだかわからずいると
頭の後頭部に大きく穴が開いて
えぐられているようになっている。
どうやら、こうなるのは真実ではない世界の人間の証で
ゾンビのような闇の手先になってしまった者で
生きているけれど生きていない、もう死んでいるような
遅かれ早かれ死人なんだと・・・
その闇の人間は後頭部が溶けるように
えぐられて無くなっていく。
昔一緒に仕事をしていたことのある人も出てきた。
彼女は正義を言っているように
みんなの前で「みんなの見方だよ」というような話していた。
私は、誰も信じず仲間と殺気立って
何処かへ行こうとしているけれど、
ニコニコ笑いながら談笑して通り過ぎていく彼女をみると
後頭部がえぐられていた・・・
私が彼女にそれを告げると、
彼女も一瞬驚いたようにして
そのまま同じようにニコニコして去っていった。
起きてから何だろう?と思った。
人を陥れてものし上がろうとする人たち・・・
涼しくいい人ぶった顔をしながら内面はただの貪欲さしかない。
しばらくして気づいた。
人間でありながら人間として
機能しなくなっている人間のことなんだ!
この世には大きく分けると、2つのタイプの人間がいて
夢のように表面的には同じだけれど
人間としてもっと使えるはずの機能が既に無いのです。
同じに見えるから同じだと思ってしまうけれど
同じでは無い・・・
だから、同じものを求めて、期待しようとすること自体
違うということなのかもしれない。
何でこんな夢をみたのか分からないけれど・・・
前から英語には興味があったけれど
よくいつまでたっても上達しない英語学習者と同じように
本など買って少しやるとやったつもりで続けられず
ただ学習本ばかりが増えている状態。
ほとんどと言って、ボロボロになるまで使い込んでもいない。
最近はネットなどでもどのように上達したか
実践者のコメントなども多く出回っていて
そういったものを読んだり見たりしているだけで
やったつもりにもなる。
子供のころのように興味がないのに自動的に学校へ
行かなくてはならない時と違って
大人になると、何かに興味があって勉強したくなったりする。
できるときには興味もないしやりたくないし
できなくなるとやりたくなる・・・矛盾していますが。
ちゃんと、できるときにやる人もいますが
私は興味がなかったほうです・・・
私も人に教える機会もあったりしますが
大人になって興味を持って勉強する人でも
多くの人は勉強している時間が好きで
本当にそのことを身に着けようとする人は少ないように思う。
大人になると自分でお金を稼いで、または誰かに出してもらって
それを使うことができる。
切り詰めて使うか、余裕があって使うかは別にして
勉強する時間を楽しむようになる。
でも、本当に身に着けたいのだろうか・・・
~だったらいいなア・・・くらいのものも多いのかもしれない。
本当に身に着けられるのは、それなりに時間がかかるもの。
教室や学校だけでは十分な時間でなかったりしますが
習っている時間以外の時間を十分充てる人は少ない。
だから、本当に身に着けられる人も一部の人になるのでしょうね。
大人の学習で身につかない理由は自分でもよく分かるので
そろそろ興味があることに対して、時間を使うべきだと思い始めた。
今週はゆとりがあった。
少し、のんびり・・・
最近はあまり先のことは考えない。
こうしよう、ああしようと計画せずに軽い準備くらいにしている。
今の私とは真逆な考え方も多いし
どちらかというと前は私もそうだった。
でも、今の私には考えすぎないで進むことが必要なんだと思う。
あんなに計画していたのに・・・変わるものですね~
計画していても思うようにいかないこともあるのですけど。
多分、まだまだ先が長い人生の変化も楽しめるように
自分も変わっていっているのかもしれませんね。
自分が生きている中で、
自分自身も大きく変化しているかもしれない。
特に、ある程度年齢が上がった40代50代以上になって
見返すと自分の若い時代を見て反省する点も多々あると思う。
それなのに、他人や周りの変化にはついていけずに
愚痴ったりもして「今って~・・・」とか言ったり。
そんなことを、少し反省して
もっと面白いと見るべきだと思った。
自分のことも後悔したりといった
ネガティブな見方をする必要もない。
周りのことも自分も、どんな状態であっても
ずっと同じではないのだから
その時その時の感覚や考え方を面白いと・・・
いいと思っていたことも、10年後には逆のことを
言ったりやったりしているかもしれません。
その感覚は今しかないわけで・・・
そのときはいいと思っていたわけです。
衝動的な言動はべつですが
自分の中できちんと考えての言動なら
時とともに変化を見ることができる。
時代が変わった、今どきの若者は・・・
そんな変化も面白い体験です。
自分がいかに何も知らないか余り考えないかもしれない。
自分自身の身体、脳、細胞などいつも使っている
自分の身体のことさえよく知らない。
脳の大部分も使われていないし
身体も活かされていなければ、
正しく使われてもいないのだろう・・・
日々、こんなに密接にあるものさえ知らない。
身体の細胞、精神、心・・・
もっとも身近でいつも使っているのに
目では見えない・・・
科学が発展して機器を使って何とか見ることができるように
なったものもあるけれど、それでも目でみえないものばかり。
確認しきれていないし、まだまだ分からないことだらけ・・・
それにもかかわらず、知ったような気になっている。
その道の研究者がいったら信じる。
アドバイスが全て正しいと思う。
本当にそうなのだろうか?
目で見ることばかりに意識が行ったり
目で確認して理解できることだけに限られると
本来持っている感覚は
どんどん鈍くなっているのではないでしょうか?
一つの人生の中でも、
時代は大きく変わっているように感じるけれど
これさえ本当に小さな点の一部にしか過ぎないのだと思う。
色々な少し少しのアンバランスな偏りを起こしながら
変化しているのではないか・・・
周りに惑わされて自分自身も振り回される。
でも、本当は何も変化が生じていないのに・・・
いくらでも自分自身がベストでいられるのだろう。
そのためには、自分自身がもつ本来の感覚を
もっと戻していかなくてはいけない・・・
現代の便利さと古来からくる感覚とのバランスをとりながら
もっともっと自分の身体、細胞、精神や心を観ることが
必要なのではないかと思う。
目に見えるものが全てではなく
自分が自分の身体を、精神を
一番解る方法をもっと優先してみたらどうだろう。
大きな罪を犯さないにしても
日常の身近な中にもひどいこと、残酷なことをする人は沢山いる。
自分のためなら、嘘も裏切りも
酷いことをしているとも微塵とも思わない。
いつでも自分を正当化して人に話そうとする人がいる。
そういう人は権力を持っていそうな人にすり寄り
自分が弱く、いつも努力していて
誰かのために色々していることを見せつけて
自分がいかにいい人であるかのように思わせる。
こういった人を本当は世渡り上手というのかもしれない。
自分をよく見せるために、自分の文句も
誰かの発言のようにして上司に言いつけたり
誰かを陥れたり意地悪なことを気にもせずする。
でも、会社ではいい位置を確保する。
それでも本人は常に満足はしていないようだけれど・・・
私はどちらかというと臭いをかぎ分けるのが上手い。
だから、そういったタイプの人には嫌われる。
もちろん好かれたくもなければ関わらないけれど。
でも、権力を持っている人は
こういった上手くすり寄ってくる人が好きで
見分けることはできないし本音で話してくれていると信じる。
社会の成り立ちを眺めていると面白い。
自分が眺められているような立場になると辛いけれど・・・
物質が力となっている時代はまだまだ続きながら
表向きでは逆のことを求めたりと矛盾も大きくなってきている。
そんなきれいごとも、もてはやされたりしがち・・・
人の求める欲望は尽きない。
そんな欲望を積極的に求める社会の構図は
あまり平和的とはいえなくなる・・・
それとは逆に、幸せは平和的に求められるのに
欲望を幸せと勘違いしてしまうから
涼しい顔して自分の幸せのために
残酷なこともできるのかもしれない。
新しいもの、変化を好み求める人もいる。
変化を好まない人もいる。
基本の変化は好まないけれど
表面的な部分は変化させたい人もいる。
変化させたくないのに変化していく人もいる。
変化させたいのに変化のない人もいる。
人生と人生を彩る部分の関わり方は色々とある。
自分が張ったアンテナが察知したり引き寄せたり
しているのかもしれないけれど
やはり、変化するのもしないのも自分次第な部分も大きい。
たまたまの出会いでも、関わるか関わらないかは自分次第。
嫌な仕事を続けるのか続けないのか?
準備をしはじめることも変化へのスタートとなる行為。
色々なことが自分がきっかけをつくっていることにもなる。
私も、少しゆっくりする予定で変化へ踏み切ったのに
逆に今年に入ってから今までの間は
もっと忙しく動き回っている。
変化させたための準備することや
変化させたために未来への自分の準備だとか
変化させたために周りからも声がかかったり・・・
私は小さな変化は好むけれど
大きな変化は尻込みちてしまうのですが・・・
長くやったもの、真剣に努力したものには
変化させるタイミングがきてもしがみついてしまう場合や
手放すべきタイミングもわかることがあるのだと思う。
今のような時代が大きく変化している中では
人のタイプも両極端になってきている。
こらえ性がなく変化ばかり求めるのがいいのでもなく
頑固がゆえに変化できないのがいいのでもなく
どちらも、極端に偏ってしまうと何処かの時点で
自分でバランスをとるように
目の前に突き付けられてしまう時がくるようです。
自分の人生を形作るのは自分の責任として
全て在る・・・全て繋がっているということ。
今日は風が少し強いので
ちょうど窓から外をみると桜が舞っていて、とっても綺麗。
最近、私の中で少し面白い感覚があります。
ここにいる自分と一体化しる。
ここにいる自分からかけ離れてしまっている
ここにいる自分と繋がりながら眺める。
この3番目がニョキニョキと現れているときがあります。
当たり前のように人それぞれ自分自身を使っているはずですが
これは、意識して経験する必要があるのだと今は感じます。
意識していないと自分がどうあるのか分からなくなる。
けれども、その時はたいがい分からなくて
後でしか気づくことができない。
それが、トリックでもあるのかな・・・
うんちくだけではどうにもならないこと。
人生は全てどれだけ自分で経験し、
どれだけただ流して、今だけに根ざし過ごすか・・・
それだけなのかな。