何年か前に旦那さんの実家に滞在していた時、
離婚をしているお姉さんと息子、娘も一緒に住んでいるので
みんなでご飯を食べていた時の会話を思い出した。
亡くなった義父は振り子の時計が好きでいくつか家の中にある。
誰かが「今何時?」と言ったとき
20歳を遠に越している姪っ子が「あ〜。。。」
と考え込みながら何だか指で数え始めていた。
みんなが何をやっているのだろうと思っていると
針の時計の時間が読めない事が発覚した。
デジタルの時計しか見ていないので
針が差す意味が分からないのだ。
年代、環境によっては「当たり前」に学んだ時計の見方も
時代が変われば不要なものとなっているし
親もそれを伝えない、教えずにいたわけだ。
また、知り合いの人の子供が
赤ちゃんの時からIpadなどのタッチパネルを触らしていたので
歩けるようになったらテレビもタッチパネルだと思い
画面をやたらと触って汚すと言っていたのを思い出した。
その人にとって、「当たり前」が何だったのか?
それはその人の中に刷り込まれている。
物質的なことも精神的なことも全て環境によって
いつの間にか「当たり前」となっている。
行うことも、考え方や思い方が
いつの間にか誰かにとっての「当たり前」としてしまうこと
または自分のもそうなっていることを考えると
思いたっと時、気づいた時しか
その「当たり前」としている行動や考え、思い方を
変えることはできない訳だ。
環境によってかなりの違いはあるにせよ
それでも親や環境などの誰かが与え出した世界を
受け継いでいたりする。
それを広げていけるのは自分だけしかいない。
与えられるものには限界があり
自分の世界を変えられるのは自分次第なのだろうな。