どんな生活の中にあろうが
自分の人生を自分自身で責任を持ってしっかり幸せになること。
幸せのフリをして心の中に
黒いモノを抱えている人も少なくない。
フリなんて必要がないのに
表面的に幸せのフリをするのは意味をなさない。
時には苦しいことがあるし
いつまでたっても抜けられずに過ごすこともある。
それでも、必ず光を見ることができる。
自分がそう望むなら…
自分が自分自身は何が幸せか考え
その上で自分の幸せを掴もうとするだろう。
自分の幸せは誰かに評価してもらうものではない。
周りがどう言おうと、
自分自身が満たされているのならそれでいい。
周りから見た自分の幸せに意味を持たせることはない。
そうしていると、
本当の自分が求める幸せが分からなくなってしまう。
親が、世の中が…
自分以外が求める幸せの形は果たして自分が望むものなのか?
自分の望みは何だったのだろう…?
忘れているのなら思い出そう。
改めて幸せを考えてみる。
悩んだり人生を考えたりできると言うのは恵まれていると言うことだ。
生活に余裕があるから考えることができる。
生きることに必死だったら、そんなこと考える余裕なんてない。
安全であり、余裕がある証拠だ。
それなのに人生を持て余してしまう…
誰もが一人一人ココに必要で意味がある。
それに気づくことが難しいだけ…
みんな自分に大きな意味を持ちたがるけれど
もしかしたら望むような意味では無いかもしれない。
でも、それくらい一人の存在は全体として
大きなしがらみを生み出すと言うことでもあるのだから
意味深いものになっている。
そんな人生の目的を見つけられたら
もっと進む道がはっきりするのに…
もしかしたら、知る必要はないのかもしれない…
どっちがどうなのか、今の私には分からないけれど
どちらであろうと進んでいる事には変わりがない。
わからないからこそ、もがき苦しむことも時にはあって
そして体験から知恵を着けて行く…
もしかしたら、
人間として在ると言うことは
「自分で体験する中で身につける知」
これが全てなのかも…
この一週間は酷い具合でしたが、
今回は本当に動けるようにもなり寝ていられなくなってきて
やっと体力も戻ってきたようです。
それがまた、面白い事に今朝おかしな夢を見ました。
二日前から、わさわさ沢山の人に囲まれている夢をよく見ていました。
今朝方見た夢はその中に聴診器を付けた人が私をチェックして
「まだ、雑音はするけど…まぁ無理しなければ大丈夫だ」
そう言われ、相変わらず沢山の人が我先に話している。
みんなが一斉に話すので話しも聞き取れないし
ちゃんと聞こうとする人より話そうとする人ばかり…
私は病気なので、寝床から上半身を起こして
みんなが私を囲むようにして乗り出して話してくるので
「ちょっと待って、聞こえない〜!」
と私は必死に話を聞こうとしている。
そんなこんなで、今朝から体力が戻ってきました。
この一週間一日50歩も歩いていなかったんじゃないかな…
頭がふらふらしたり頭痛したり、とにかく体力が無かったのだろう。
咳が酷く出ているわけでも無くただグッタリ横たわっている状態でした。
今日は横になりたくもならず
消化が悪そうなものでも食べる気になってきたので
体力が戻ってきたのでしょう。
まだ、無理は禁物ですが…
今回この風邪も、「風邪になったな」と移った日に気づいた。
最近ちょっと物事に敏感なようです。
生きると言うのはバランスが必要なのだと改めて感じる。
魂の成長
人間である事を有意義に活用して満喫すること。
それは時間という概念も持っておかなくてはならない。
魂
身体
思考
それぞれを意識できたとき
それぞれを活かすことができたとき、
初めて、その生を活かすことができるのかもしれない。
けれど、そのバランスを意識できないまま過ごすことが
大半でもあるのではないか。
何かがないがしろになる…
私もそうだ。
バランスの意味など考えず過ごしていた。
活かせていなかった…
今やっと、腑に落ちてきた。
人は何者かになろうとする必要などなく
単にその生を活かすためにあるだけに存在する。
人間として存在すると言うことは
時間の意味も考えないといけない。
限られた時間の中で有意義に生を活かす…
人は勝手に作り出したそれぞれの制限を基準に、
物事を判断しているのだろう?
単純に物事を見えているのだろうか?
もっと、そのままを見る日がいつか来るとは思うけれど
まだまだずっと先だろう。
でも、その基準は自分自身にも当てはめて苦しめることもある。
こうするべき…
ああするべき…
そんな風に自分の思考も何かの基準と比べて
できていなければダメな人間のように感じてしまったり。
他人に対してだって、
その基準から外れていたら普通じゃないと嫌悪する。
基準が狭いと自分自身も苦しい。
けれども、誰でも幸せを求めていることには変わりはない。
それなら自分が求めた幸せが基準からズレようが
求め続ければいい。
他人だって同じこと。
世の中が作った基準。
家族が作った基準。
自分が作った基準。
人が作り出した基準に人々はどれほど
制限されているのか
何か焦っているときやうまくいかないときに
思考を見直してみると気づくこともあるかもしれない。
先週の日曜日に会った人が風邪をひいていて、
どうやらうつってしまったらしく今週ダウンしています。
身体も頭がボーとしていてグラスを割ってしまいました…
人生であまり割ったことが無いのですが。
仕方ありません…
書こうと思ったこともすっかり忘れていますし。
動き回り過ぎているからスローダウンも必要なのかな。
近頃は営業する人の態度も随分と変わった。
勝手に電話をかけてきて断ると
逆ギレする人
ブチっと切る人
馴れ馴れしいにもほどがある人
こんなにいい話なのに断る理由を教えろと
しつこく質問責めにし切らせない人
…などなど。
本当にイラッとさせられる営業電話は多い。
営業の大変さもわかるので横柄にはしない。
かと言って断るのだから時間も取らせたくはないので
はっきり断って切りたい。
でも、ほんの数秒の間にも関わらず嫌な思いをさせられることも。
時代は変わって、
仕事自体は変化するけれど
それぞれの分野での仕事の仕方も移り変わっているのだな。
続きは明日…から随分たってしまいましたー!
日にちがたつと書きたいことが落ち着いてしまってダメですね。
人によっては、内容を小出しにして引っ張る人もいますが
私は一気に思ったことに任せて書き終えないとダメなようでした。
力がない立場を利用して、
立場が上にある嫌いな人を陥れたりいじめたりする人たちもいる
ということも忘れてはいけない。
立場が弱いから
守られて当然だという主張は違うのではないか。
当然なんてものはない。
自分のことは自分自身で守る術も
生きる力も、自分が身につける努力も必要だと
教えなくてはいけないのではないかと思う。
大人になって自分が選択したものなら
自分が責任をとる。
結婚、子育て仕事など自分が選択しているにも関わらず
親を当てにする、国の援助を当てにする、誰かを当てにする…
誰かを当てにした上での選択に慣れすぎてはいないか?
当てにすることを当然のことと声を荒げ
当てが外れると文句を言う…
お門違いだと思う人はいないの?
自分が選択したことは責任を持たせること。
それぞれが大人になったのなら自立すること。
もっと客観的に見て物事を判断し
弱い立場を使ったただの不平不満、いじめを容認しないこと。
もう、オブラードに包んだ甘い言葉を作ることもやめる!
年齢が若いー中年
部下ー上司
生徒ー先生
などなど、あげたらきりがないけれど
勝手に力関係をイメージして立場が上が悪いとせずしっかり現実をみよう。
不道徳なもの
若くても、弱い立場でもおかしなものはおかしいと
間違っているものはまちがっていると
はっきり言える人がいてもいいのではないかと思う。
今日は疲れて頭が回らないので昨日の続きは明日…
この二日、一日中掃除など手伝って動きすぎ。
流石に疲れてしまった。
引っ越す前に実家の不便な箇所も使いやすくしておいてあげたいし
キレイに整頓しておいてあげたくて…
自分のくつろぐ時間が足りない。
来週ゆっくりできるかな。
個人的に何とも疑問に感じること。
何でもかんでも差別だ
何とかハラスメントじゃないかとか言い過ぎている。
それも、世の中が勝手に力関係をイメージして
強いものが弱いものをいじめているとする構図。
50代以上が過ごしていた10、20代の頃の世の中
20代が過ごしている世の中
家庭を返りみづ仕事中心の男性社会、
力があるものが全てだった時代から
世の中が女や子供など家庭を中心へと変わっていき
そこに力を置き始め守られるようになり
その親や子供が成長していけば
当たり前のように世の中の在り方は変わる。
培った「当たり前の事」は大人になっても残る。
けれども、私はバランスが必要だと思っている。
もっと成熟した感覚が必要で
それがなければバランスは取れるはずもない。
政治も親やおじいさんおばあさん含めて、
人気とりが必要なもの全て、好かれたいという思いは
甘やかし過ぎるという悪循環も産みやすい。
守り過ぎる、甘やかし過ぎる…
第一に大人が幼過ぎるのではないか。
まずは、大人が自立することから始めないと変化は無いと思う。
子供に好かれたい
孫に好かれたい
好かれる上司になりたい
好かれる政治家になりたい
目先の好かれたいは
目先の権力をそこに与え
そこに好かれる為のことしか目がいかない。
好かれることより自分自身の自立を意識するようにしたらどうか。
長くなってきたので続きは明日…