みんな人生の中から学ぶ必要のあることが
個々の内にあるのだと私は思う。
それは個々違うから自分でそれを見つけ
自分自身で取り組まなくてはならない。
日々の生活の中で、ついつい外にばかり
意識が向かってしまうけれど
そうありながらも、内に意識を向けておくことを
忘れないようにし続けたいもの。
そうあっても、自己満足や過大評価で
物事や自分自身をあまりにも客観的に判断していない
場合をよく目にする・・・
何に向かって内に取り組むのか?
何のためにそうするのか?
何かを得て
何か人から思われたいことがあるからなのか?
そんなことから向かっても
向かいきれないのかもしれないなぁと思ったりする。
謙虚に自分の人生に取り組み
自分のこの人生から気づかせてもらって
全て上手く流れているのだなと受け入れる・・・
最近ますます、
そんな大事なことに気づかされている。
個人個人が自分の人生の道をいつでも作り出している。
変えたいという人から「変えられない」「でも・・・」
という言葉をよく聞くけれど
本当に変えられないのだろうか?
「環境が」「親が」など周りのせいでこうなっていると
いうこともよく聞くことだけれど
本当にそうなのだろうか?
どんなにいいアドバイスを聞いても
それを聞くのかは自分次第。
不満がある中に留まり続けるのも自分次第。
すぐに投げ出すのではなく、
その中で色々やってみてから
次はどうするのか決めればいい。
上手くいっていないことに
留まり続ける人はとても多い。
反対に、周りのせいにしてすぐに投げ出す人も多い。
身近になればなるほど親身になるけれど
結局、本人の選択でしか物事は動かない。
家族だろうが、子供だろうが・・・
人は変えられない。
変えるのも、変えないのも本人にだけにしかできない。
無意識のうちに誰かを傷つけてしまったり
ヒドイと相手が思うことを言ってしまっていることもある。
人それぞれ気を遣う部分も違えば、
傷つくポイントも違ったりする。
だから、誰もが心地よく思うことを
言ってあげられないと思う。
受け取り手によって見方や感じ方が違うのだから
仕方がないことでもある。
それでも悪意を持ってわざとそうするのとは違う。
でも、この世の中には大きな事件を起こさなくても
悪意を持って行動する人も多いし
それに従ってしまう人も多い。
集団の中のいじめもそう・・・
悪意を持って行動し、
その時は自分の思い通りになったとしても
人生のどこかで必ず落ちるときがくるけど。
よく、「あんな人ばかりどうしていい思いをするのだろう?」
と思ったりすることがあると思う。
どんどん成功したり、
うまく人生が動いているようにみえたりするから。
「いつか痛い思いをする」と誰かが言っても
そんなの信じられないくらい
上手くいっているのしか見えなかったり・・・
因果応報・・・?
私はそういった人から離れてしまうし
興味もないので状況がどうかなんてどうでもいいから
その後どうなっているのかもわからないけれど
やはり、因果応報ってあるような気がする。
何年か後、もしかしたら何十年か後
人生が空回りしていく人を多く見るから・・・
弱いことで何もしないのも
悪意を持って何もしないのも
どちらのエネルギーも偏りすぎているし
悪に取り込まれたエネルギーで同じ悪になる。
誰か一人に向けているように見えても
それはもっと多くの人にも影響しているのだから
発した元へと戻ってくるものがあるのも
当然といえば当然のことだ。
いつもいいエネルギーを発することはできなくても
悪意のあるエネルギーを発すること
発し続けることはやめるべきだ。
自分の発するエネルギーにも波及効果があるのだと
いうことも忘れてはいけない。
どんなにチャンスがあっても、
そのチャンスを掴むかどうかは自分次第。
それは自分が望む完璧な形でないかもしれない。
どうして見逃してしまうのだろう?
目の前にチャンスがきたとき、どうして気づけないのだろう?
自分では気づいていないかもしれないけれど
そのとき、何かに執着している。
自分のやり方かもしれないし
物事かもしれないし
だから絶対に手放したくなかったり
人のアドバイスを聞かなかったりする。
そのチャンスは物質的な目に見えることだけでなく
大きな失敗を未然に防ぐためのチャンスもある。
人生を少しスムーズに活かしてくれようとしているのかな?
勢いがあるときにも起こる。
うまくいかないときにも起こる。
自分自身のバランスが大きく偏っているときに起こる。
そんな時こそ、自分で「わかってるよ」と思っても
いつでも初めて聞くかのように
しっかり、受け止めて自分の中で反復する・・・
アドバイスをくれる人はどんな人?
聞きたい事だけ
言ってもらいことだけを聞き入れるのではなく
心をオープンにして、しっかり聞くこと。
自分の選択が人生をつくってくのだから・・・
普段は忘れてしまいがちだけれど
聞くこと、そしてしっかり見ることが
チャンスを掴めるのではないかと今、思う。
いつも本音で語り
計算して人づきあいをするわけでもなく・・・
決して上手に生きていない。
意識していたわけでもないのに
小さなは話しで言えば、
写真などもあまりなく
何にしても本当に残るものを持たないようです。
なぜか、その時その時で完結していっているような・・・
人は生きて、死ぬ。
世の中には物質的に沢山のものを残したいと思う人は多い。
自分の名前を残したい
自分の業績を残したい
自分の子供に、家族にお金を残したい
そんな風に、自分が自分の人生を完結するだけでなく
もっともっと、もっともっとと自分の欲望を叶えたいと
したことから色々な問題も湧き上がるような気もする。
他者よりも成功している
他者よりも裕福だ
他者に褒められる、自慢できる
そして、他者と比較する思考ではないかと思う。
それを比較ではなく、
あなたも私も同じだという思考に
もう少し近づけていくことはできないだろうか?
それぞれが、
もっと自立できるようにしていく必要も課題になるけど。
それは物質的なことより、考え方から始まる気がする。
考え方があって、物質世界に落とし込んでいくわけですから・・・
家族であっても基本は自分の人生は自分で面倒をみる。
そんな風にもっと簡潔に物事を考えたら?
状況にもよるけれど、
必要以上に何かを残そう、もっともっと残そうと
考えなかったら誰も何かを当てにせず
自分の人生を自分の責任の中で考え完結できる。
誰もが同じように生きて死ぬ・・・
ただそれだけの事なのに
問題があるようにしてしまう。
シンプルに考えたら、もっと人に思いやりをもてるかも。
一生懸命仕事をしている人
自分自身の人生を頑張っている人
そんな風に、日常を自分で静かに頑張っている人たち・・・
誰かの誹謗中傷に一生懸命だったり
悪口や噂話に時間を費やす
誰かを攻撃することに先手先手と考えを巡らせ続ける人たち。
こういったときは、仲間を見つけたり
似たように自分以外のことなら面白おかしく
そういった出来事をより大きくかき混ぜたい人が加わり
悪意のパワーを増していく。
誰かをいじめたり、陥れたりすることは
立場が弱いと思われるほど簡単にもなることがある。
二人以上人そんな人が集まれば
どんどん悪意のあるエネルギーを増すことになる・・・
その悪意は簡単に外へ大きく発信していくようだ。
今、世の中はそんな風にすぐに誰かや何かを攻撃することが
有利になるような風潮があるような気がする。
一方、静かに頑張っている人は声を荒げるようなことがないし
巻き込まれたくもない。
だから進んでかばうようなこともしない。
学校、子供を持つ親、仕事場で、会社自体・・・
どこにでも、いつもそんな悪意のあるエネルギーは生まれる。
人ならば、そこにいられないように叩き潰すまで
寄ってたかって真実もあれば嘘もでっち上げて・・・
会社だって潰すこともできる。
本当の話は何だったのか?
もちろん、原因にもよるけれど
悪いことがあったのなら、
必要以上にいじめたり攻撃するのではなく
静かに改善することもできる。
それなのに変更、改善することより
追い出すこと叩き潰すことを援助する
傾向もあるのではないかな?
真実は?
正義は?
そんなことより、ガタガタいう人たちを鎮めることに
一生懸命になることが多い。
攻撃された人や会社は?
声を荒げられず、
泣き寝入りしたり我慢することだけしかできない。
知は絶対に必要なこと。
言ったもん勝ち。
真面目なものが馬鹿をみる
世の中のままではいけないと思う。
何とかハラスメントとかの言葉もどんどん生まれ
どんどん必要以上に守られる部分もある。
いつ、自分がその対象になるのかも分からないくらい
気を付けても気をつけたりないほど
そこに危険もでてくるわけです。
だから余計に見て見ぬことを選ぶ、
自分が関わらないことを選択するようになることが
益々増える・・・
他人事と見て見ぬふりをするのではなく
おかしなことはおかしいと言ってあげることも
勇気がいるけれど正しいことで必要なこと。
何もしないことは悪意のエネルギーを発信している人と
結局は何も変わらないことになってしまう・・・
悲しいことだ。
自信がないというのは弱いもの。
人間は目に見えないものも察知する能力があるので
弱いものは強いものによって僅かな力も奪われてしまうことがある。
根っから強いものはいない。
自分自身が力を失う恐怖があるから少しでも力を見れば
とっさに摘み取る、または奪っておく必要があるのだと思う。
自信がない・・・
それなら、どうやったら自信が持てるのか考える。
私もそうした。
何でもいい、仕事でも趣味でもとことん打ち込んで
その分野ならちょっと自信が持てるものをつくってみるのも一つ。
この場合、意識して集中できそうなものを作ることもできるし
興味があったもので気が付いたら詳しくなっていたでもいい。
間違ってはいけないことは、自分自身がもつのではなく
誰か持っている人を身近に置くようなことをして
自分の外側に持つことにして
まるで自分が持ったかのような錯覚でごまかすこと。
そして自分が自信をもっても、
上には上が常にいるのも忘れてはいけない。
自分のダメさを更に見せつけられることもあるし
ちょっとついた弱い自信もぽっきり奪われるかもしれない。
無から有へ・・・無から有へ・・・
そんな気持ちを繰り返して何かを見つけていくのかもしれない。
少し自信が持てても、また失って・・・
何か観えてきたと思っても、また見失って・・・
それでも心や思考のもろさは少しだけタフにはなっているようです。
人生とっくに折り返しておりますが、
今年は英語の上達を図るべく独学しています。
毎年、今年は勉強しようと思ってまず
数回は年に一回くらいはTOEICを特に勉強しないまま
力試しのために受けていました。
それからチャンと勉強するつもりが何もしないまま今に至るのです。
それで今回はやっと、やっとやっています・・・
恒例のTOEICを早速チャレンジしてきました。
まだ勉強して間もないし、対策は何もしていないので
まっさらの状態で・・・案の定いつもと同じような点。
今の新形式になってから50点くらい落ちて
510点くらいしかないのです。
私はとにかくリーディングがヒドイ。
ヒドすぎる・・・
基本の基本ができていない、理解できていないレベル・・・
だから、新形式になって足を引っ張っている感じ。
文法、慣用句や単語が乏しすぎるのは前から痛感しています。
こんな感じですが、今年はやってみる!
いくつからでも英語はできる!・・・かな?
そう言えるようがんばろう。
普段は世の中で起こっている出来事はあまり書きませんが
今、オリンピックが開催されている中
それぞれの人にドラマがあり
オリンピックまで行くような人であれば
本当に本当に長い間そのことだけを努力をしてきた。
それでも本番で力が出せない人やケガをする人
世界のトップまではいけない人
それぞれ最大の努力をしているわけです。
どんな立場の人であろうと自分のやるべきことに対して
努力をしている人は素敵だ。
それは自己満足なものや見せるためのものではなく
自分自身で自分を向上させるための自分の責任として
自分が努力するもの。
それぞれ喜びも悔しさもあるから頑張れるのだろう。
だから、その中にドラマがある。
大きな会社の創立者やトップアスリートなど目立つ人だけでなく
子供を育てる親にも、サラリーマンにもどの人にも
人生を真剣に取り組んできた人にはドラマがある。
真剣に人生に自分自身で取り組もうとするからこそ
苦悩も生まれ又取り組み努力して喜び
結果的に人生が彩る・・・
自分がいる場所で、
自分自身で責任をもって自分の人生に取り組んでいる
そんな人は素敵です。
人生はどこでどんなことが起こるかわからない。
いくつになっても・・・
うれしいこと、悲しいこと、悔しいこと、楽しいこと
辛いこと色々なことが起こる。
いいことならいいけれど・・・
火のないところに煙はたたないというけれど
煙はたったりもする。
直接的でないにしても
嫌われたり妬まれたりしたために煙がどこからかたつこともある。
人の感情はコントロールできないけれど
それを理解したうえで
上手く対処できない部分があったのは確かだろう。
どんなに上手くいっている時でも
どんなに空回りしているときでも
「過ぎている」感があるときは意識して気を付けておくこと。
ちょっとしたことで歪が起こるから。
何かバランスをとらされる時があるけれど
それに上手く対処できるよう心構えをしておくといい。
もちろん悔しいことや辛いことが起こったら
すぐには立ち直れなくても立ち上がって、そこから進めばいい。
止まったように見えたとしても、人生は動き続けているのだから。