人生に明確な目的や意味を見出して生きることができている人もいる。
その一方で、いつも意味を見出せずに人生に葛藤している人もいる。
何事も目的や意味がはっきりして進むべき道が明確なことは
迷ったとしても結局は帰る道はそこにある。
では、人生に意味を見つけられずにいる人は
どうしたら見つけることができるのか・・・?
意味なんてないんだ。
それじゃダメ?
意味を探そうとするから苦しいし
見つからないと無意味で空虚な気持ちになるのじゃない?
人間は何にでも理由付けをしようとする。
何にでも・・・
理由がないといけないのか?
どうして生まれてきたのか?
この人生の意味は?
そんなことまで理由を欲しがるもの。
昨日の内容につながるもので
理由がないと頑張ることができないから。
頑張る動機が生まれないから。
私も人生の意味をいつも探している。
けれど、もしかしたら何も意味なんてないかもしれないって
最近は思ったりもする。
ただ、生まれて来たら肉体が死を迎えるまで
人生を全うするだけの責任があるのではないかな?
人間には意思というものがあり
自分で色々なことを選択したり決断していくことができる。
もちろん、死を選択することさえできるけれど・・・
生きるために意味を必要としたいだけで、
幸せを感じることが生を継続させてくれる。
やりたいことや興味、意味や目的が必要なのは
どれも生きるための理由になるから。
本当は、理由が見つからなくたって必要なことを
淡々とやっていくだけでもいいのだけどね・・・
モチベーションを保つことは?
そもそも、モチベーションってこと自体
やる気をもって頑張っているといること。
頑張っているということは素晴らしい。
でも、頑張るには何かのきっかけや
何かしらの張りつめた気持ちがそこにある。
私も頑張ることがいいことって思う。
でも、頑張ること自体必要ないことのように思えてきた。
頑張るってことは無理した状態だから・・・
頑張っているときは本当に些細なことで
プチッと張りつめた糸が切れるようなこともある。
周りの人からしたら大したことではないことなのに
本人にしたらとても大きな出来事のように感じるくらい
きつい絶望するほどのような気持になったりする。
張りつめたものがそこにあるから
周りには分からないけれど
本当に繊細過ぎる気持ちがそこにはあるようだ。
それって0か100ってくらい極端・・・
危険でしょ?
それなら頑張らない程度ダラダラやる方が
続くのかなって思うのです。
性格によるのかもしれませんが・・・
頑張る傾向のある人は何でも頑張ろうとするところがある。
自分の期待に応えよう
誰かの期待に応えよう
そんな期待に応えられるほどできた人間じゃないって
最初からちょっといい加減くらいがちょうどいいのかも?
頑張りすぎないけれど、適度にやる。
ダメな自分を認めて、それを良しとする。
意外と自分はダメだよ~と言いながら
本当はダメな自分を認めようとしない人って多いもの。
だから、ダメな自分くらいでいいって
それくらいでいいんじゃない。
他人の話を聞くときに、
多くの人はそこに自分の相手に対しての思い込みや想像などを
織り交ぜて聞いていることが多いのだとやっと分かった・・・
相手の言葉をそのまま聞くということはあまりないのかも。
相手に対しての思い込みがある種の色眼鏡をつけている状態で
相手の話を聞いている感じですね。
聞くということなので色補聴器を?と言った方が正しいのかな?
これはとても有意義に使えば相手の気持ちを察することもできる。
でも、本当にいつも正しく使えているかも難しいので
自分で意識しておかないと問題も生じる。
聞いているときにちゃんと聴いているのか???
人は他人の言葉を聴くことがあまり上手でないように思う。
少なくとも、私や私の周りは・・・
色眼鏡で人を見ることを意識して変えるほうが
やや聞くことを色補聴器を通さないで聴くことより
簡単なのかもしれない。
自分の思いや考えを的確に相手が理解できるように
伝えられているのかは微妙。
自分も相手の伝えたいことを的確に掴んでいるのかも微妙。
それでも、言葉を使ったということは
何かしら伝えたわけです。
もっともっと、そのままを観る、聴くよう
意識したほうが良いことに気づいた。
色眼鏡や色補聴器を使っているのか使っていないのか
そこを意識する・・・区別できることが大事。
自分がどちらで見たり聞いたりしているのか
少なくとも解ってやっている必要がある。
もちろん、同時進行できたらいいのかもしれないけれど・・・
意識してみよう。
相性ってなんだろう・・・
同じことを聞くにも人によって
すんなり受け入れることもできれば頭にくることもある。
同じ言葉を使っても、
全く伝わらない人もあればすぐに伝わる人もある。
それ自体が相性なのかな?
相性が悪ければお互いに全く話なんて通じない。
でも、一つ分かることがある。
どんな人も、みんな認めてもらいたいし
みんな受け入れて欲しいだけなんだ。
相性っていうより、
相手を受け入れているかどうかなのかな?
ときどき、自分が本当にダメな人間に思えるときがある。
もしかしたら、私もとても複雑な人間なのかもしれない。
だからもっと自分自身も全体像も客観的に見なくてはいけないと
事あるごとに思うのですが・・・
口調も心も穏やかになることが今の課題。
私の周りには乱暴な口調ではないけれど、
すぐに余裕がなくなってきつい言い方をする人たちがいる。
人の怒鳴る声や本心でないのに感情からでる投げやりな言葉を
聞くのは小さなときから本当に嫌いだった。
みんな嫌いですよね。
でも、もしかしたら怒鳴っている人たちは
自分が怒鳴っている感覚はないのかもしれない。
感情がやや高ぶって自分の気づかないうちに
少し声が大きくなっているくらいの感覚なのかも?
怒鳴るというのは、自分の言葉で相手を抑圧しようとする手段。
自分の考えや、
やることだけに相手を従わせようとする行為からくるもの。
相手の話なんて全く聞く気はない。
そんなときは、120%自分が正しいと思っているから・・・
そんな風に抑圧されると、反発したり
自分はダメな人間だからもっともっと努力しなくてはいけないと
思ったりするようになるのかもしれない。
私は心理学者でもないので、そんな分析はどうでもいいのですが
ダメな人間って本当にいるのだろうか?
ダメな人間っていないと思う。
逆に褒められるだけの、出来上がった人間もいない。
どちらの場合も環境がそう思わせてしまっているだけのこと。
レッテルを張る、強制する、枠にはめるというのは違うのに
人はこの行為が好きですね。
私もそんな風なときがあるのだろうな・・・
きっとそうだろう。
もっと人の話を静かに聞く。
受けいれる。
穏やかに話す。
心がけよう・・・
私は集中力があるほうではない。
だから集中力がある人を羨ましく思う。
そんな優れた才能に恵まれているなんて凄いことだから・・・
その才能を有意義に使ったら私のような散漫な人とは
使う期間に大きな差がつくだろう。
仕方がないので気長にやるしかない。
今月は何だか疲れる月・・・
何だか、苛立つ人が多い気がするのです。
怒鳴る声は人のエネルギーを奪い取るものなので
自分が怒鳴っていないつもりでも
口調には気をつけなくてはいけませんね。
そんなときは、人といると疲れるので
一人の時間を極力多くして勉強などにつかおう。
集中力のなさはこんな時期に時間的にカバーしておくといいのかも。
楽しみが外に向いていないときのほうが
嫌でもおとなしくしていられますしね・・・
今から、来年の目標を少し具体的にして
不器用な分、コツコツやっていくようにしよう。
気づいたことなどを自分が実践せずに
きれいな言葉で人に言うことは簡単。
読んだ本などからの引用をまるで自分の気づきのように言ったり
書いたりするのも、また簡単。
「気づく」と言うのはまず第一に自分のために使うもの。
自分はさておき人のためにあるものではない。
だからこそ、難しい・・・
精神論ばかり語っているというのは
比較的現実社会で地に足がついていないか
または逆に物質にどっぷりか・・・
逆に全く物質だけしかないというのもバランスが悪く
自分自身が躓くか苦しいときがくるかもしれないけれど
私個人的には分かりやすいと思う。
なかなか、この物質主義的な社会において
きれいごとばかり実践できないのも無理はないし
心の中で自分自身は物質にも恵まれていたいと思うもの。
私自身だって物質なんだから・・・
天と地のバランスをとることが大事で
そこにある秩序も必要なことだと私は感じている。
自分が気づいてもまた忘れて、また気づかせてくれる・・・
そんな繰り返しで、自分が進む道を自分でつくる。
言葉にすると冷たく響くかもしれないけれど
生まれてきた時から死ぬ時まで
結局は自分自身のための人生なのだと思うのです。
生まれた環境や家族など一見色々なしがらみがあるように感じても
もしかしたら、そうではないのだと思う。
自分のためと言っても、自分勝手にしていいとか
周りのことは構わずほっておけと買いうことでは全くなく
関わりをしっかり持たなくてはいけない。
人と関わるからこそ、自分としての個を見つけられるから・・・
特に家族、生まれてきたたところと言うのは
親密さが必要なのかもしれない。
少なからずともそこには何かしらの自分にとっての影響があるのだから
目を背けたり逃げたりせずに、しっかり目を向けることが大事で
そこから自分自身の個としての道がある。
今日は本当にほとんどソファに座ったままで動かなかった。
たま~にそんな風になる。
今日はパソコン作業があったのですが
時々気が抜けたときや気力がなくなったときに
電池が切れたように動かなくなる。
次の日々やることリストの準備のための一つなのですが
やろうと思っていることも結局今日は後回しに・・・
やろうと思っていつも途中で挫折していること。
今回はしっかりやろうと思っていたけれど・・・
サボったけど頑張るよー
ほぼ動かない日もオッケー。
世の中には色々な事件が起こり、
人々は色々な価値判断でそれらをみる。
例えば、「どっちもどっちかな・・・」
例えば、「あっちがわるいよ」
例えば、「こっちがわるいよ」
例えば、「これは悪いけれど、自業自得な部分もある」
人によって色んな見方がある・・・
では、どうやって規律をたもつのか?
日本において
それぞれの国において
世界において・・・
今、日本の中だけで考えたって
常識や道徳が大きく変化してきている。
個人的に思うのは・・・、
今まで大きく違う文化や人種が比較的入り混じっていない国だったために
宗教観も入り混じらないからこそ似たような価値判断が
あったのかもしれない。
でも、だんだんと色々な考え方が入り始め
特に戦後は急速な変貌を遂げることになった。
それが悪いことなわけではない。
何であれ、多様性と言うのは良いことであり必要なことでもある。
どのように融合していくのかが鍵なのではないかと思います。
だからこそ常に柔軟性が必要で
偏った頑なすぎる思考やモノの見方は危険になるのではないか・・・
柔軟性ということは
より核となる部分をしっかり持つ
ということも求められると私は思うのですが・・・
核というものが難しいことで
常に揺らいでしまうことになる。
そんなことを思うと、
今だからこそ、もう一度それぞれの国に生まれた
自分のアイデンティティーを思い出し
そこにあった人々の心情や考え方を調べてみるのも
役立つかもしれませんね。
本来それは、その人にとって学ぶべきことなのかもしれません。
何となくそんな風に思った。
生まれたときから元気で
特に大きなケガや病気もないような人たちにとって
本人も周りにいる人にとっても
こういった状況がずっと続くと思っている。
そうすると日常のことばかりに気をとられて
単に忙しくて日々やり過ごすか
単に平凡な日常に何か物足りなさを感じてうんざりしてしまう。
小さなときからそんな風にして
どんどんこの世の中での物質的なことばかりに
重きを置くことだけに捕らわれていくようになる。
学歴・・・
容姿・・・
お金・・・
自分のプライド・・・
悲しいことに、自分という物質がまずは自分自身にも周りに対しても
大きな足かせをつけて見ていることに気づかずにいる。
それがどんなに大きな問題か解らずに人生を過ごすことになる。
それが人生を困難にしてしまうことに気づかない・・・
私自身もそう。
これが、人間というものだろう・・・
だから、いつも些細なことに心を痛めたり頭を悩ませたりする。
色々な思いや考え、感情をはぐぐむことが人間にとって
大きな変かへ導くことになるのは間違いないと思う。
これは何よりも大事なことではないか・・・
そんな風に成長するために大事な経験を飛ばすことはできないのだけれど
同じような経験を繰り返すのなら立ち止まって考えてみることが必要。
もっと違った大きな視点で物事をみてみる。
「自分が」というより
全体をみることを練習してみる・・・
悲しいこと、辛いことなど心が痛みを感じるときに
自分の心に必死すぎて忘れてしまっているのだけれど
少し落ち着いたとき、また思い出させてくれる。
気づかないうちに物質に捕らわれていき
そんな自分だと、事あるごとに気づかせてくれる。
忘れっぽい生きものです。
良い時もつまらない時も、苦しい時などの悪い時も
同じ状態や状況がづっと続くと思って
日々、またはその時その時に感謝する気持ちや学ぶ気持ちを
つい忘れてしまうのですね。
まるで自分一人の力で自分だけが正しいような気持ちにもなる。
もっともっと思慮深く、もっともっと感謝が必要で
同じままがずっと続くなんて思っちゃいけない。
周りに対しても、自分自身に対してもね。