自分の苦手なタイプや嫌いなタイプの人って誰でも多少あると思う。
もちろん私もある。
今日、ハッと気づいたこと。
自分が漠然としていたり、進む目的地が漠然としていると
特に苦手だったり嫌いなタイプに遭遇する機会がある。
よく自分が嫌いだと思う人は
自分と似ているからだと言う人もいる。
確かに親子の関係で時々みられるように、そう言える場合もある。
でも、私は一概にそうは言えないと思っているし
誰でも同じ性質は持ち合わせているわけで
何処の欲望が強いかでその性質が強くなるのではないかと思っている。
だから、もし自分がはっきり確信を持って人生を歩んでいたり
しっかりとした具体的にある形での目標へ進んでいたら
そう言った苦手だったり嫌いな人達に出会う機会が減っていく気がする。
出会っても、たいした関わりを持たない。
別の道にある人だからかも知れない。
けれども、いつまでも自分がフラフラしていれば
また彼らと同じ道にも出て行くことになる。
誰がどうこうではない。
逆に、自分自身がはっきり分からないからこそ
色々な嫌な人にも遭遇して
そこから自分はどうありたいか学ぶ機会を与えられているのだろう。
単に嫌だとか嫌な思いばかり思い出にせず
そこから逆を考えて
自分が好きなものを
また、なりたい姿を現実にしていくために
その思いを、思い出を利用していく。
はっきりした自分の道を登っていく中に
出会うべき人たちがいる。
表面的に綺麗ごとで飾るだけで
誤魔化そうとしているものが増えている気がする。
表面的に…
と言うものが多い。
その表面上のものに踊らされる。
疑うことをしなくてもいい時代が長く続いているから?
平和の中に置かれすぎているから?
その反面も強くなっているのだろう。
表面上なことで単純にはしゃぐもの。
その一方で何故はしゃぐように持っていっていく必要が
あるのかという裏にある本意を見ようとするもの。
物事は単純だけど
人間の考えや思いは単純ではない。
疑うことというより、
しっかり観察することで見えてくるものがある。
情報が多すぎる時代。
余りにも多い情報の中に埋もれていると
どれが自分のものか分からなくなるのではないかな。
人のものを自分のことのように錯覚してしまうような…
本当に自分の中から来たことと
外のものの区別はつけておかなくてはならない。
錯覚してしまうと、自分自身を勘違いしてしまうし
自分自身のことを理解できないままになってしまう。
それは混乱させる。
少し沢山の情報から距離を置くことも必要で
これは自分でコントロールするべき課題になっていく。
自分の中を静かにする時間も作ろう。
個人的に正しい悪いと批評するものごとは
個人の道徳が様々であるように
果たして正しいことであるのだろうか?
それとも、悪いことなのだろうか?
一見、正しいことが大観で見ると
違った見方になっていくかも知れない。
計り知れない見方があるのだろう…
未熟であるモノにはそんな捉え方もできない。
だから、小さなことでもジタバタしてしまう。
自分のことも他人のことも
何が正しい、何が悪いと批評すること自体が違うのかも…
ただ自分自身の意図が善に沿って行なっていくことが大事。
全て、物事の動機が何処にあるのか?
それに尽きる。
自分だけが知る動機。
言葉で何を語っても
そこに在る魂は言葉など何の意味もない。
自分が欲しいものと、人生自身に必要なものは違うようだ。
持っている必要なものに気づかない人もいる
その持っているものの活かし方がわからない人もいる
人間の欲望は尽きない。
いつだって、何か欲している…
物質界に寄れば寄るほどその欲望は深く強くなる。
その強い意識で物質を引き寄せるだろう…
でも、尽きない欲望は満足することはなく
いつだって心が動揺している。
かといって、無欲の振りをするなら
その欠如したバランスが歪みを大きくし
綺麗事を装って欲望に振り回されていく。
必要なものは用意されていく。
私たちはバランスを保たなくてはいけない。
中立を歩むことはそう簡単にできる事でもなく
些細なきっかけで中立にいられなくもなってしまう。
いつでも、中立にいるというのは
口で言っているほど簡単でもない。
悟っているように装って人のことを語るのは簡単だけれど…
自分自身の課題を抱えてこの世にいるのに
自分のことは棚に上げてしまう人がなんとも多い。
欲することは自然なことだし、それが向上心にも繋がる。
肉体としてこの世にいる満足
魂としてこの世にいる満足
バランスを確認しながら
自分自身が今持っているものを使って向上しよう。
思い方
なかなか自分が今持っているものだけで
十分人生を活かすことができるなんて思えなかったりする。
特に何か強く欲するものがあるのに手に入れられないときは…
その何かが手に入らないことで
十分活かすことができるのかも知れない。
欲するものが手に入るかどうかなんて
本来やるべき課題は
個人的な欲とは関係ないのかも知れない。
自分の人生の目的に必要なものは
きっと全て完全な状態で用意できている。
その中で活かすことができるのだろう。
望もうが望まなかろうが、その状態が完璧なのかも知れない。
後退したものの見方をするか
創造的な見方をするのか
自分で選択できる。
時には後退してウジウジすることがあっても
やっぱり、人生は創造的にイキイキさせないともったいない。
どんな考え方、どんな心持ちで過ごそうが
同じだけの時間を使っているのだから。
ちょっとだけ元気がないときや
ちょっとだけネガティヴになったとき
その思いは脇に置いて
また、自分を創造的にして1日を過ごそう!
好きなもの、自信があるもの自分の長所を見つけることが難しい人もいる。
私もこのタイプ。
でも、嫌いなことなら分かるのでは?
こんな考えの人は何だか好きじゃない。
何だかコレ好きじゃない。
そこから進みたい方向、選びたいやり方を
考えてみよう。
取り合えず、まず確実に一つ分かったのは
本人が自覚した動機を何処に持っているのか…
どんな動機かということが私にとって大事なこと。
自分を知って、
自分に足りないものを知る。
そこから何ができる?
引越しの前に、知り合いと会ったりしている。
私は一見社交的そうだけど、とても人見知りなので
実際に誰とでも上手に合わせたり付き合ったりができない。
付き合いが本当にピンポイントだ。
それでも、いい年齢になった結果
一見社交的まで成長してはいるのだけれど…
そんな事で、昨夜は知人に会っていたのですが
たまたま彼女の会社の人たちも一緒だった。
色々な人と会って思うのは
自分がいる社会の中の立ち位置、
または自分が作っている世界に合う人にしか
出会うことはできないってこと。
これから、もっともっと自分の立ち位置をあげたいし
もっともっと、今まで接点がなかったような人たちに
出会うことができるように自分を高めていきたいと思う。
自分が自分の世界を作り出している。
自分が過ごしている世界
自分が出会う人
全て自分に合ったものが此処にある…
今までは自分が心地よくいられる世界
心地よくいられる人たちだけでよかった。
でも…
2019年
これから、もっともっと自分の世界を広げて
もっともっと自分にとって人間的に面白い
もっともっと刺激的な人たちに出会えるように
私が変わろうと思う。
それが、これからの私の目標の一つになった。
人は自分が信じたいものしか信じない。
真実は何処にあるのか…
真実を真実として
そのままを見る、受け取ることもできるはずなのに。
自分が世の中に対してどんな見方をしているのか?
相手に対してどんな見方をしているのか?
そんな風に、そのままでないモノもそこに当てはめて
受け取ったり理解していく事が多い。
もちろん、きっと私もそうだろう…
本当は、もっともっと周りに対して興味を持てるはずなのに
自分が作り出した見方のせいで
自分の良いところも、可能性も狭めてしまうのかも知れない。
興味を持つからと言って批評家にな訳ではない。
いろんな物事、考え方も含めて
単にそのままを見ることだけでいい。
そのまま、物事の真実に興味を持つ。
ただそうあるだけで見え方自体が変わるのかもしれない。
何処で何をしようと全ては自分次第。
大人になって自分が自活できる年齢ならば
自分で物事を選択している。
特に、豊かな国に育っているいる人は
その時には十分な年齢になっているはずだ。
いつでも自分の責任を精一杯行う。
その中から自分が求める何か、
するべき何かが見えてくる…
何処か逃げ場所を探しても
いつだって問題はまた生まれてくる。
解決していない原因に向き合わないと
物事はより大きくなって「気づいてよ!」と言ってくる。
場所の問題ではない。
誰かの問題でもない。
問題は自分にある。
自分がどう対処するのか?
自分自身を甘やかしても
自分自身をその場しのぎで誤魔化しても
結局、人生の何処かで向き合わなくてはならない。
その時に誤魔化せるものも見つからず
虚しさの中で生きることも、また可能だ。
どれも自分の選択と対処の仕方…
生まれてから人と関わりながら生きる。
どんなに密接な関係であっても
それぞれが、それぞれに対処した方がいい課題を持っている。
それは人との関係のなかで気づかされ
人との関係の中で複雑になる…
人生を課題に向き合って生かされていくことは
より人生に豊かさを見出せる…
そんな気がする。