宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ

2011.6.1~。大津波、宮古市、鍬ヶ崎復興計画。陸中宮古への硬派のオマージュ。 藤田幸右(ふじたこうすけ) 管理人

リメンバー田老3.11 (その2)復興の予感

2012年02月18日 | どうなる田老

前ページよりつづく)

田老地区の復興の基本



田老地区復興まちづくりのプロセスは日本中が注目している。
今時点ではほとんどなにも見えていない、決まっていないといえるのではないかと思われる。


復興の予感(1) 

●「津波てんでんこ」は田老発の三陸大津波を象徴するキーワードになった。昔からの言葉であったのか?田老,宮古一帯でいわれていたのであろうか? 鍬ヶ崎の私は「逃げろ」とは小さい頃からいわれていたがここまで輪郭をはっきりいわれた事はなかったように思う。一昨年の広報みやこ3月号で知りました。私は旧ブログにこう書きました。「宮古市の広報誌2010.3.1号はその事を強調しています。この号は増刷して長く保存されるべきです。田老の田畑ヨシさんの<命はてんでんこなのす>という悲しい教訓。他人(ひと)も防潮堤も助けてくれない。自分で生きる(=逃げる)心がまえを強調していると思います。広報みやこの記事はぜんぶ本物だと思いました」と。紙芝居で一貫して教訓を残してくれた田畑ヨシさん。また、同じように昭和の大津波と今回の津波を元気に語り継ぐ赤沼ヨシさん。両ヨシさんに代表される田老の語り部たちは今現在の貴重な遺産であり田老復興の礎であります。今や「津波てんでんこ」は全国区になり日本人のひとつの心構えを作っています。

●昔も今も避難行動が一番である。田老の人たちはその事をよく知っている。私はこのブログで、今回の津波で生存者が多かった事を次のように書いている。

──生存者が多いことは防潮堤のせいではなく避難行動のせいであった。 
「防潮堤があってもなくても」と書いたのは、田老や鍬ヶ崎や、宮古湾沿岸の集落の人は津波のことを普段から、子どもの頃から熟知していて、防潮堤が津波に対して無効だということ、ひいき目に見ても効果は限定的であることをよく知っているからである。今回の被災地の生存者が多かったことも防潮堤のおかげだとは考えられていない。津波になったら「てんでんこに」急いで避難することが大事であり、そのための口伝をし、口伝を聞き、教育をして、避難の訓練をしてきている。親は子に強く「防潮堤はあてにするな」と教えている。とにかく大きな地震があったら、津波の兆候があったら、高いところに逃げることを教えているのである。津波地帯では防潮堤があってもなくても普段からこのようなコンセンサスがとられているのである。
しかし、防潮堤の有効性を口にせず、むしろ無効性を知っていながら、なぜこの人たちはそれを否定しないのかと言えば防潮堤を必要とする人が他にいると思っているからである。不思議なことである。だれも必要としていないのに「必要なもの」として祭り上げられている現象がこの地域一帯に存在している。大きななぞである…(2011.9.17 「防潮堤」は効果がなかったこと…)

上に引用したもののうち「不思議なこと」「大きななぞ」はまだ謎のままである。なぜなのであろうか? もう一つ田老の人の心構えについて引用すると…

──やまご やまごとは防潮堤を発想する人のことです。海の人は必要があって防波堤や岸壁は発想しましたが陸に防潮堤をつくることは考えたことがなかったのです。発想の原因だったかもしれませんが河川の堤防などとごっちゃになって、以降、防潮堤を高くすれば津波も防げると間違って考えるようになったのがやまごです。他方、海の人は防潮堤では津波は防げないと考えています。田老の人たちでさえ子どもには「おいしいおかずは先に喰え」と教えていたそうです。なぜなら「津波が来るから」という理由です。子ども「…防潮堤があるからだいじょう…」 父「ばかやろう。津波が来たら喰うのを止めてすぐ逃げろ」。(2011.11.24 鍬ヶ崎の高地移転…)


復興の予感(2)

 


冒頭の写真は飾りではない。岩手日報の記事である。

 ●(記事)消滅した砂浜、震災後に出現 宮古・田老新港

 津波で大きな被害を受けた宮古市田老の田老新港に震災後、砂浜が出現した。漁業や憩いの場として旧田老町時代に親しまれていた田老海岸と同じ場所に形成され、被災者の間で「昔に戻ったみたい」と話題になっている。
 田老新港は、1982年からの県の第7次漁港整備計画で整備が進められ、2003年ごろまでに岸壁が完成。住民が「須賀」と呼んでいた約2キロにわたる砂浜は消滅した。(中略) 岩泉町小本地区の漁港でも同様の現象が起きているという。
【写真=田老新港の岸壁が一部残る海岸に出現した砂浜。ウミネコが羽を休める(右奥)=宮古市田老】(2011.8.13)
 
●(参考記事)大船渡湾の水質改善 湾口防波堤の倒壊が一因か

 大船渡市の大船渡湾水環境保全計画推進協議会(水野雅之亮会長、委員30人)は21日、同市盛町のカメリアホールで開かれ、震災後、湾内の水質が改善されたとの報告があった。津波で湾口防波堤が倒壊したことが一因とみられる。
 報告によると、震災前の2010年8~9月は水深20メートル付近を境にして水温が大きく異なった。20メートルより深くなると酸素量は少なくなり、9月には底層で無酸素状態となっていた。これに対し、震災後は深さによる水温変化が小さくなった。湾口内外の水温差もなくなり、低酸素状態も改善された。
 化学的酸素要求量(COD)も10年度の最大値が1リットル当たり5ミリグラム(環境基準同2ミリグラム以下)だったが、11年度の最大値は同3・5ミリグラムに減った。調査会社は「湾口防波堤の倒壊が海水交流変化の一因と考えられる」と指摘した。(2011/12/22 岩手日報)


復興の予感(3) 

●津波遺産は「田老防潮堤」以外ないのでは? (2012-02-18 コーケやん)

宮古市は損壊が著しい被災構造物を「津波遺産」として保存し、後世に残すことになった。何が決まっても不幸がまとわりつくのだから、その選定は微妙な感情が残るのはしかたがない。宮古市がその覚悟で選定するものとすれば、田老の破壊された、また越流された防潮堤しかないであろう。今東日本大震災のすさまじさの象徴であると同時に、後世にその存在意義を問いかける遺構である。現実問題としては防潮堤は地域の多くの命を守れなかった。建て替えるのではなく、また壊してなくするのでもなく、ていねいな最低限の修理の後、現在の姿のままで、そのかぎりで、今後とも本来の施設目的に沿った防災建造物として、なお後世の戒めとしての建造物として有効性を発揮するべきである。
(夢の実現へ きむら社会福祉士事務所ブログ<東日本大震災:宮古市の被災構造物、「津波遺産」として保存へ 防災教育、観光に活用 /岩手(2012.2.18)>へのコメント)


●きたさんのブログ<田老復興の基本哲学「4度目はない!」を大切に!渡辺実>(2012.2.14)より

(一部抜粋)⑤ 2度目の昭和大津波の後の先人が下した復興まちづくりでは防ぎきれなかった3度目の平成大津波を経験し、さらに日本列島そのものが地震活動期を迎えた今、田老のみなさんが決断することは「4度目はない!」が「田老の決断」で、この復興計画の最も重要な基本哲学ではないでしょうか。
⑥ この基本哲学を田老住民も行政も今一度十分肝に銘じて、いま選択するのは国の復興補助事業でどこまで田老全体の安全・安心が実現できるか判断しなければなりません。これが今市やコンサルが進めようとしている「一部移転案」です。現行の国の復興制度・補助事業では実現できないのであれば、制度・事業を変える必要があります。現行の復興制度・補助事業は、これまでの大震災をふまえて作られた枠組みで、今回のような巨大津波災害をまったく想定していません。ですから、実現できないのが当たり前なのかもしれません。






コメント (3)
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