先日、学会のついでに四国電力の吉良発電所(徳島県美馬郡つるぎ町)を見に行ってきた。あらかじめ調べたところ、公共交通で行くにはつるぎ町営のコミュニティバスに乗るしかないのだが、特に休日は本数が少なそうである。その日のうちに関東に戻ってくるためには最寄り駅であるJR貞光駅を7時35分に出るバスに乗り発電所を見て、9時13分のバスに乗って戻ってくるしかないということがわかった。これに間に合うためには徳島駅を6時9分に出発して7時31分に貞光駅に到着する電車に乗る必要がある。
つるぎ町コミュニティーバス実証運行のページ
当日、どうにか5時過ぎに起床し身支度を整え徳島駅に駆け込む。すいている気動車(徳島には「電車」がないそうだ)に乗り込む。
ずっとガラガラかなと思いながら乗っていたら、日曜でも部活があるようで高校生が続々と乗ってくる。後で知ったが貞光にはつるぎ高校という高校もあるようだ。貞光駅に到着し大急ぎで駅を駆け抜けたところ(何しろ4分しかない)、コミバスが停まっていて一安心。ドアを叩いて「吉良発電所ってのを見に行きたいんですけど…」と声をかけたところ気のいい運転手さんで「おお、近くまで行くよ」とのことでいそいそと乗り込む。道中、運転手一人、乗客一人なのでずっと話し込む。少し前までは四国交通の(さらにその前は徳島バスの)路線バスが走っていたらしいが、赤字で撤退し現在は町営のコミバスが山間部の人たちの足となっているとのこと。10数分走ったところで、目的の吉良発電所前の広瀬というバス停に着き、「帰りもここで待っていれば拾ってあげるからね~」下ろしてもらった。
吉良発電所は流れ込み式の水力発電所で現地の看板によれば出力は2,700kW。立軸フランシス水車はドイツ(スイスの誤り?)エッシャーウィス社製、立軸三相同期発電機は米ウェスチングハウス社製である。なお、四国電力のウェブサイトによると出力の増強が計画されているようである。
四国電力「水力発電所の出力増加に向けた取り組みについて(平成29年3月28日発表)」(PDF)
四国電力吉良発電所
吉良発電所水圧鉄管
水圧鉄管を上から見下ろす
さて、なぜ早起きしてまで貞光まで来たかと言えば、この吉良発電所、日本でも数少ない戦時統合を免れた電気事業者の発電所なのである。吉良発電所は1925(大正14)年、美馬水力電気によって建設された。この美馬水力電気は戦時中の配電統合などを潜り抜け1975(昭和50)年に四国電力に引き継がれるまで「終始一貫して独立した電気事業者として、全国的にも特異な存在の会社(現地看板)」であった。
室田武の名著『電力自由化の経済学』(宝島社、1993年)では「戦前に起源のある戦後の私営卸事業者」として愛媛県新居浜市の住友共同電力(前身の吉野川水力電気が1919(大正8)年創業)、新潟県糸魚川市の黒部川電力(1923(大正12)年創業)、とともにこの美馬水力電気の名前を挙げている(73-76頁)。また室田は国策統合による「日発・九配電体制の創出によっても日本の電気事業者のすべてが日発、あるいは九配電のいずれかに統合されたわけではないという事実」を指摘し、その傍証してこの3社と九州火力及び神奈川県の電気事業の5者が存在したことを指摘している(室田前掲書194-195頁)。
このように稀有な歴史を歩んだ美馬水力電気であるが、なぜ国策統合を免れたのかは判然としないところがある。白川富太郎『四国電気事業沿革史』(電友社、1957年)には「所謂る卸売業者に対しては強制統合の方法もなくあくまで話合の上自主統合に待つ方法の外なく」との記述があるが、話し合いがスムーズに進まなかったためなのかどうかはわからない。美馬水力電気の背後関係を詳らかに調べているわけではないが、同じ四国の住友共同電力のように巨大資本がバックにあったわけでもなさそうであるし、吉良発電所のさらに奥にある切越発電所を保有していた貞光電力は、第二次配電統合の際に四国配電に統合されており、山間部に存在したことが理由でもなさそうである。なお、上記の黒部川電力は「中央の送電幹線と直結していないことおよび地方の部分的需要家に電力を供給していたこと」を理由に国策統合を免れている(黒部川電力については三浦一浩「黒部川電力と地域分散型エネルギー事業の過去・未来」『社会運動』413号(2014年8月)44-48頁、森田弘美『水力発電に夢を賭けた男たち:黒部川電力の100年』(黒部川電力、2015年)などを参照)。
美馬水力電気は最終的に1975年に四国電力に合併されるが、この時までには四国電力の子会社になっていたようである(そうであるならば、なおのこと戦時統合で統合されなかった理由がわからないが)。
なお、美馬水力電気は基本的に卸専業の電気事業者であったが、吉良発電所の存在した端山村(1956年貞光町と合併、現つるぎ町)では同発電所の電気を利用して点灯することに着眼し、交渉を重ねた結果、1927(昭和2)年より点灯している。ただしこの点灯は徳島県内一円を供給区域としていた三重合同電気によるものとして行われている。需要戸数は400戸、灯数560灯であったという(貞光町史編纂委員会『貞光町史』貞光町役場、1965年)。
清流貞光川
発電所から下流方向
同じく上流方向
発電所を見終えてバスを待っていると定刻より数分遅れてコミバスが戻ってきた。奥の集落から乗ってきたお客さんが二人、運転手さんと「わざわざ東京から発電所を見に来た酔狂なやつがいる」と話をしていたようで「地元にいたら、わざわざ見ようとは思わんもんなあ」「ずいぶん古いよなあ」「大正14年?ならうちの祖父さんと同い年だ」などと発電所談議で盛り上がった。
貞光駅構内
貞光は「うだつ」のまちでもある。
つるぎ町コミュニティーバス実証運行のページ
当日、どうにか5時過ぎに起床し身支度を整え徳島駅に駆け込む。すいている気動車(徳島には「電車」がないそうだ)に乗り込む。
ずっとガラガラかなと思いながら乗っていたら、日曜でも部活があるようで高校生が続々と乗ってくる。後で知ったが貞光にはつるぎ高校という高校もあるようだ。貞光駅に到着し大急ぎで駅を駆け抜けたところ(何しろ4分しかない)、コミバスが停まっていて一安心。ドアを叩いて「吉良発電所ってのを見に行きたいんですけど…」と声をかけたところ気のいい運転手さんで「おお、近くまで行くよ」とのことでいそいそと乗り込む。道中、運転手一人、乗客一人なのでずっと話し込む。少し前までは四国交通の(さらにその前は徳島バスの)路線バスが走っていたらしいが、赤字で撤退し現在は町営のコミバスが山間部の人たちの足となっているとのこと。10数分走ったところで、目的の吉良発電所前の広瀬というバス停に着き、「帰りもここで待っていれば拾ってあげるからね~」下ろしてもらった。
吉良発電所は流れ込み式の水力発電所で現地の看板によれば出力は2,700kW。立軸フランシス水車はドイツ(スイスの誤り?)エッシャーウィス社製、立軸三相同期発電機は米ウェスチングハウス社製である。なお、四国電力のウェブサイトによると出力の増強が計画されているようである。
四国電力「水力発電所の出力増加に向けた取り組みについて(平成29年3月28日発表)」(PDF)
四国電力吉良発電所
吉良発電所水圧鉄管
水圧鉄管を上から見下ろす
さて、なぜ早起きしてまで貞光まで来たかと言えば、この吉良発電所、日本でも数少ない戦時統合を免れた電気事業者の発電所なのである。吉良発電所は1925(大正14)年、美馬水力電気によって建設された。この美馬水力電気は戦時中の配電統合などを潜り抜け1975(昭和50)年に四国電力に引き継がれるまで「終始一貫して独立した電気事業者として、全国的にも特異な存在の会社(現地看板)」であった。
室田武の名著『電力自由化の経済学』(宝島社、1993年)では「戦前に起源のある戦後の私営卸事業者」として愛媛県新居浜市の住友共同電力(前身の吉野川水力電気が1919(大正8)年創業)、新潟県糸魚川市の黒部川電力(1923(大正12)年創業)、とともにこの美馬水力電気の名前を挙げている(73-76頁)。また室田は国策統合による「日発・九配電体制の創出によっても日本の電気事業者のすべてが日発、あるいは九配電のいずれかに統合されたわけではないという事実」を指摘し、その傍証してこの3社と九州火力及び神奈川県の電気事業の5者が存在したことを指摘している(室田前掲書194-195頁)。
このように稀有な歴史を歩んだ美馬水力電気であるが、なぜ国策統合を免れたのかは判然としないところがある。白川富太郎『四国電気事業沿革史』(電友社、1957年)には「所謂る卸売業者に対しては強制統合の方法もなくあくまで話合の上自主統合に待つ方法の外なく」との記述があるが、話し合いがスムーズに進まなかったためなのかどうかはわからない。美馬水力電気の背後関係を詳らかに調べているわけではないが、同じ四国の住友共同電力のように巨大資本がバックにあったわけでもなさそうであるし、吉良発電所のさらに奥にある切越発電所を保有していた貞光電力は、第二次配電統合の際に四国配電に統合されており、山間部に存在したことが理由でもなさそうである。なお、上記の黒部川電力は「中央の送電幹線と直結していないことおよび地方の部分的需要家に電力を供給していたこと」を理由に国策統合を免れている(黒部川電力については三浦一浩「黒部川電力と地域分散型エネルギー事業の過去・未来」『社会運動』413号(2014年8月)44-48頁、森田弘美『水力発電に夢を賭けた男たち:黒部川電力の100年』(黒部川電力、2015年)などを参照)。
美馬水力電気は最終的に1975年に四国電力に合併されるが、この時までには四国電力の子会社になっていたようである(そうであるならば、なおのこと戦時統合で統合されなかった理由がわからないが)。
なお、美馬水力電気は基本的に卸専業の電気事業者であったが、吉良発電所の存在した端山村(1956年貞光町と合併、現つるぎ町)では同発電所の電気を利用して点灯することに着眼し、交渉を重ねた結果、1927(昭和2)年より点灯している。ただしこの点灯は徳島県内一円を供給区域としていた三重合同電気によるものとして行われている。需要戸数は400戸、灯数560灯であったという(貞光町史編纂委員会『貞光町史』貞光町役場、1965年)。
清流貞光川
発電所から下流方向
同じく上流方向
発電所を見終えてバスを待っていると定刻より数分遅れてコミバスが戻ってきた。奥の集落から乗ってきたお客さんが二人、運転手さんと「わざわざ東京から発電所を見に来た酔狂なやつがいる」と話をしていたようで「地元にいたら、わざわざ見ようとは思わんもんなあ」「ずいぶん古いよなあ」「大正14年?ならうちの祖父さんと同い年だ」などと発電所談議で盛り上がった。
貞光駅構内
貞光は「うだつ」のまちでもある。
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