以前、墨東公安委員会さんのブログで「散宿所」という言葉について触れられていました。
「散宿所」についての覚書~電気事業史の忘れられた言葉について : 筆不精者の雑彙
詳しくは、上記の記事を見てもらえればと思いますが、要は戦前の電力会社の営業拠点を散宿所と呼んでいたということのようです。「散宿所」とは本来、1896年の電気事業取締規則において定められたもので、当初は「送配電線網(「線路」)を常時監視するため」に「電気事業者が作業要員を常駐させる保守拠点」を「散宿所」と呼んでいたものが、やがて故障修理を兼ね、サービス拠点へ変化していったものとのことでした。
この「散宿所」という言葉はいつまで使われていたのでしょうか。墨東公安委員会さんによると、「新聞紙面に『散宿所』の言葉がよく見られたのは大正時代」とのこと。「性格が変わって『営業所』『派出所』と名前も変わり、昭和になるとあまり紙面に出なくなった」とのことでした。ただ私(つらね)も上記の墨東公安委員会さんのブログ記事にコメントを付けたのですが、加島篤「日本における定額電灯制と電球貸付の変遷」(『北九州工業高等専門学校研究報告』第46号(2013年1月)9-26頁)の記述から昭和30年ころまで「散宿所」という言葉が一部の電力会社で使われていたということが読み取れました。
加島篤「日本における定額電灯制と電球貸付の変遷」(『北九州工業高等専門学校研究報告』第46号(2013年1月)9-26頁):リンク先はPDFファイルです。
ところで、先日、国会図書館へ行った際、ついでにこの「散宿所」について検索をかけたところ、1960(昭和35)年8月の『東京電力株式会社社報』に掲載された「裏日本の山谷をふみわけて」という記事がヒットしました(「裏日本の山谷をふみわけて(笹川・上路・親不知各散宿所を訪ねて)」『東京電力株式会社社報』110号(1960年8月)19-22頁)。この記事は記者が同年の7月中旬、富山県から新潟県の西部にかけての3つの散宿所―西から笹川・上路・親不知(それぞれ駅でいうと泊駅、市振駅、親不知駅に対応)―を訪れた際の見聞記を3つの散宿所の駐在員の座談会風に仕上げた記事です。なぜ富山県から新潟県西部に東京電力の散宿所があるかというと、これらの散宿所は黒部幹線(通称:クロカン)という黒部川沿いにある関西電力の新愛本変電所から東京方面をつなぐ送電線とそれに並行する通信線を守ることがその仕事だったからです。つまり、この3つの散宿所は散宿所本来の定義である送電線路の保守拠点としてのそれであったということです。
散宿所の仕事は当然、送電線と通信線の保守・巡視がメインだったようですが、そのためには日常的に巡視路の整備を行ったり、土地柄雪が多いので送電線下の除雪なども大変だったようです。また山奥ですから巡視の際にはマムシと熊に悩まされていたようですが(会社からスズが支給されていたとのこと)、マムシは捕まえて焼酎付けにしたり、獲物の熊の毛皮を持っている剛の者もいたようです。生活面でいうと3つの散宿所とも集落内にはあったようですが、都市部から離れたところにあることや時代的な問題もあるのか、「牛肉が買えない」とか、「タバコを買いそびれる」ことがあるなど苦労もあったようです(「会社の厚生課でやってくれる巡回映画が待ち遠しい」という記述もありました)。
上述の通り、この記事は記者の見聞記を座談会風に仕上げたものなのですが、記事の最後についている協力者一覧を見ると、笹川散宿所から2人、上路散宿所から1人、親不知散宿所から4人の名前が挙げられていて、最低でもこれだけの人数が常駐していたことがわかります。また、いずれも家族と住み込んでいたことが記事からはうかがえます(食卓を囲む写真が掲載されていたり、子どもについて触れた記述があるなど)。さらに興味深いのは駐在員の「郷里」として「信州」や「九州」という記述があって、必ずしも地元の人が雇われているというわけではないということです。またこの郷里が九州の方は上述の熊の毛皮を持っている方なのですが「定年になって帰郷する際に持っていく」との記述があるので、もしかすると当時の契約では、定年まで散宿所で勤めあげるような契約だったのかもしれません。
これらの散宿所について別の資料からアプローチできないかと探したのですが、どうにもよくわかりません。ただ、東京電力編纂『関東の電気事業と東京電力』(2002年)の750頁には東京電力の発足当時「送電線路に沿って10~20km感覚で点在する散宿所には1~2名の保守員が常駐し」ていたこと、「日常の巡視や事故復旧などの作業で現場に赴く際には徒歩によるか、または自転車が使われていた」が1950年代後半には「送電設備の増強にともなって送電線保守の業務量が急増したため」「四輪車か三輪車、ないしはオートバイが配備される方針がとられ」たことなどが記載されています。また、同時に「送電線保守体制の再編成にも着手し、散宿所を逐次廃止して、そこに常駐していた保線員が保線区に集中して勤務する体制に改めた」とのことで「散宿所の数は、55年度末の509ヵ所から60年度末の68ヵ所へと激減した」と言います。つまり3つの散宿所は激減する中で残った散宿所ということが言えます。
電力系統図│託送・サービス│東京電力パワーグリッド
また、「クロカン」についていうと、東京電力パワーグリッドの「電力系統図」によると(上記リンク先の154kV系統図を参照)、現在の黒部幹線は埼玉県の奥秩父変電所から長野県の新町開閉所までのことを指しているようです。3つの散宿所があったあたりの送電線はのちに黒部北幹線という名称になり、現在は廃止されているようです(それでも「黒部幹線」という名前が残っているのは興味深いですが)。
結局、「散宿所」という言葉はいつごろまで使われていたのかという問いに明確に応えられるものではありませんが、1960年まで(語の本来の意味での)「散宿所」が存在したということは言えるのかなと思います。
「散宿所」についての覚書~電気事業史の忘れられた言葉について : 筆不精者の雑彙
詳しくは、上記の記事を見てもらえればと思いますが、要は戦前の電力会社の営業拠点を散宿所と呼んでいたということのようです。「散宿所」とは本来、1896年の電気事業取締規則において定められたもので、当初は「送配電線網(「線路」)を常時監視するため」に「電気事業者が作業要員を常駐させる保守拠点」を「散宿所」と呼んでいたものが、やがて故障修理を兼ね、サービス拠点へ変化していったものとのことでした。
この「散宿所」という言葉はいつまで使われていたのでしょうか。墨東公安委員会さんによると、「新聞紙面に『散宿所』の言葉がよく見られたのは大正時代」とのこと。「性格が変わって『営業所』『派出所』と名前も変わり、昭和になるとあまり紙面に出なくなった」とのことでした。ただ私(つらね)も上記の墨東公安委員会さんのブログ記事にコメントを付けたのですが、加島篤「日本における定額電灯制と電球貸付の変遷」(『北九州工業高等専門学校研究報告』第46号(2013年1月)9-26頁)の記述から昭和30年ころまで「散宿所」という言葉が一部の電力会社で使われていたということが読み取れました。
加島篤「日本における定額電灯制と電球貸付の変遷」(『北九州工業高等専門学校研究報告』第46号(2013年1月)9-26頁):リンク先はPDFファイルです。
ところで、先日、国会図書館へ行った際、ついでにこの「散宿所」について検索をかけたところ、1960(昭和35)年8月の『東京電力株式会社社報』に掲載された「裏日本の山谷をふみわけて」という記事がヒットしました(「裏日本の山谷をふみわけて(笹川・上路・親不知各散宿所を訪ねて)」『東京電力株式会社社報』110号(1960年8月)19-22頁)。この記事は記者が同年の7月中旬、富山県から新潟県の西部にかけての3つの散宿所―西から笹川・上路・親不知(それぞれ駅でいうと泊駅、市振駅、親不知駅に対応)―を訪れた際の見聞記を3つの散宿所の駐在員の座談会風に仕上げた記事です。なぜ富山県から新潟県西部に東京電力の散宿所があるかというと、これらの散宿所は黒部幹線(通称:クロカン)という黒部川沿いにある関西電力の新愛本変電所から東京方面をつなぐ送電線とそれに並行する通信線を守ることがその仕事だったからです。つまり、この3つの散宿所は散宿所本来の定義である送電線路の保守拠点としてのそれであったということです。
散宿所の仕事は当然、送電線と通信線の保守・巡視がメインだったようですが、そのためには日常的に巡視路の整備を行ったり、土地柄雪が多いので送電線下の除雪なども大変だったようです。また山奥ですから巡視の際にはマムシと熊に悩まされていたようですが(会社からスズが支給されていたとのこと)、マムシは捕まえて焼酎付けにしたり、獲物の熊の毛皮を持っている剛の者もいたようです。生活面でいうと3つの散宿所とも集落内にはあったようですが、都市部から離れたところにあることや時代的な問題もあるのか、「牛肉が買えない」とか、「タバコを買いそびれる」ことがあるなど苦労もあったようです(「会社の厚生課でやってくれる巡回映画が待ち遠しい」という記述もありました)。
上述の通り、この記事は記者の見聞記を座談会風に仕上げたものなのですが、記事の最後についている協力者一覧を見ると、笹川散宿所から2人、上路散宿所から1人、親不知散宿所から4人の名前が挙げられていて、最低でもこれだけの人数が常駐していたことがわかります。また、いずれも家族と住み込んでいたことが記事からはうかがえます(食卓を囲む写真が掲載されていたり、子どもについて触れた記述があるなど)。さらに興味深いのは駐在員の「郷里」として「信州」や「九州」という記述があって、必ずしも地元の人が雇われているというわけではないということです。またこの郷里が九州の方は上述の熊の毛皮を持っている方なのですが「定年になって帰郷する際に持っていく」との記述があるので、もしかすると当時の契約では、定年まで散宿所で勤めあげるような契約だったのかもしれません。
これらの散宿所について別の資料からアプローチできないかと探したのですが、どうにもよくわかりません。ただ、東京電力編纂『関東の電気事業と東京電力』(2002年)の750頁には東京電力の発足当時「送電線路に沿って10~20km感覚で点在する散宿所には1~2名の保守員が常駐し」ていたこと、「日常の巡視や事故復旧などの作業で現場に赴く際には徒歩によるか、または自転車が使われていた」が1950年代後半には「送電設備の増強にともなって送電線保守の業務量が急増したため」「四輪車か三輪車、ないしはオートバイが配備される方針がとられ」たことなどが記載されています。また、同時に「送電線保守体制の再編成にも着手し、散宿所を逐次廃止して、そこに常駐していた保線員が保線区に集中して勤務する体制に改めた」とのことで「散宿所の数は、55年度末の509ヵ所から60年度末の68ヵ所へと激減した」と言います。つまり3つの散宿所は激減する中で残った散宿所ということが言えます。
電力系統図│託送・サービス│東京電力パワーグリッド
また、「クロカン」についていうと、東京電力パワーグリッドの「電力系統図」によると(上記リンク先の154kV系統図を参照)、現在の黒部幹線は埼玉県の奥秩父変電所から長野県の新町開閉所までのことを指しているようです。3つの散宿所があったあたりの送電線はのちに黒部北幹線という名称になり、現在は廃止されているようです(それでも「黒部幹線」という名前が残っているのは興味深いですが)。
結局、「散宿所」という言葉はいつごろまで使われていたのかという問いに明確に応えられるものではありませんが、1960年まで(語の本来の意味での)「散宿所」が存在したということは言えるのかなと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます