〔元・つけ屋Sさんにコメント返信を書いていたら長くなってしまいました。最近気になっていることでもあるので本文にペーストしてみました〕
元・つけ屋Sさま、どうもです!
いつもコメントありがとうございます。
光人社の本では、あのほかに「激闘 硫黄島」というのも購入しました。アメリカ人の著者が書いていて、日米両方をわりと公平に描いているようです。
何かいいのがあったら教えてください。
硫黄島のことでは、栗林中将を描いたノンフィクション『散るぞ悲しき』という単行本があります。かなりベストセラーになっているようなので、ご存知かもしれませんが、じつに感動的な本です。
映画、さっそくご覧になったとのこと。ひじょうに興味深いものがあります。またぜひお聞かせください。
「父親たちの…」、わたしも借りようと思います。…でツタヤにいったのですがレンタル中で残念。
で、隣のほうの棚にあった中国映画「鬼子来了」(邦題「鬼が来た!」)というのを借りました。カンヌでグランプリ、中国当局から発禁といういわくつきの作品で、全編ユーモラスななかで、ラストのブラックきわまる転回がひじょうに重い。中国人の日本人・日本軍を見る眼を少し知ったような気がします。政治的なことはさておいても、これは発禁を受けるだろうなと。はい、ブラックなのが好きなんです。。
「硫黄島からの手紙」私も見ましたが、書かれていることに共感します。
大枠ではいい映画なのですが、細かい点が気になりますね。日本兵は決して「ライフル」とはいわなかったはずです。また栗林中将は太鼓腹のおじさんですから、ワタナベケンはどうしてもかっこよすぎです。いいのですが。
軟弱そうな西宮君はよかったと思います。
いちばん恐ろしい場面である手榴弾自決を強要される場面も、残念ながらリアリティをそぐ結果となっていたと思います。
また、舞台があたかも西部の荒野のどこかのようで、地熱が異様に高く水の欠乏に苦しんだ硫黄島の戦いの特徴が描ききれていないように思われました。
途中出てくる回想の日本の街のエピソードは、…いわぬが花でしょう。
ただ、実際のところ先頭を切って最後の突撃を敢行したという栗林中将の最期の様子は誰も知らないのが実情のようです。何せ皆死んでしまったのですで当然ではあるのですが…。
ところで、気になるのはそれほどの物質的窮乏下にもかかわらず、米軍をして最大の激戦といわしめた硫黄島守備隊の戦い、なかでも栗林中将の全滅前提の徹底的な戦いぶりです。米軍に最大の出血を強い、まさに彼の起草した電文のとおり「鬼神を哭かしむる」ものであったと感じられます。
上掲の『散るぞ悲しき』を読むと、ヒューマンな合理主義者で軍部主流にたいする批判精神を持ち、家族愛にあふれた人間・栗林と、同時期に遂行された特攻同様の、部下に全滅を強いる苛烈な戦いを指揮した軍人・栗林の、その間にある落差に、今の私たちは戸惑いを覚えざるを得ないものがあります。
思えば「特攻」もまた、若者の美しい姿が心を打つ反面、彼らが遂行したのは一人でも多くの敵の若者を殺すことを意図した戦闘行為に他なりません。
それを今の私たちの視点から理解不能とか愚かしい行為だとか無駄な犠牲だとかいうことは簡単で、ある意味安易といっていいくらいです。
さきの保阪氏の議論に感じたのはそういう安直さです。彼の展開する「特攻隊員」=犠牲者論は、当の特攻隊員たちが決して受け入れることのできないものでしょう。
硫黄島の戦いは昨今の「ブーム」により再評価されつつありますが、一方「特攻」に関しては反省か英霊かといったような内向きの議論に終始し、いまだにその「戦果」がまともに評価されていないように見受けられます。
戦果といことは、つまりどれだけの人的・物的被害を与えたかということにほかなりません。
平和主義のいま、そういう議論が危険視されることはよくわかっているつもりです。
しかし、彼ら特攻隊が出撃に際しなにより気にかけたのは、自分たちの遂行する作戦がどれだけ敵にダメージを与えうるか、という一事だったと思われるのです。
それはどう評価するにせよ、とにかく壮絶というほかにないものです。
私たちはこれまでそういうことをほとんど知らされてこなかったように思われるのです。
元・つけ屋Sさま、どうもです!
いつもコメントありがとうございます。
光人社の本では、あのほかに「激闘 硫黄島」というのも購入しました。アメリカ人の著者が書いていて、日米両方をわりと公平に描いているようです。
何かいいのがあったら教えてください。
硫黄島のことでは、栗林中将を描いたノンフィクション『散るぞ悲しき』という単行本があります。かなりベストセラーになっているようなので、ご存知かもしれませんが、じつに感動的な本です。
映画、さっそくご覧になったとのこと。ひじょうに興味深いものがあります。またぜひお聞かせください。
「父親たちの…」、わたしも借りようと思います。…でツタヤにいったのですがレンタル中で残念。
で、隣のほうの棚にあった中国映画「鬼子来了」(邦題「鬼が来た!」)というのを借りました。カンヌでグランプリ、中国当局から発禁といういわくつきの作品で、全編ユーモラスななかで、ラストのブラックきわまる転回がひじょうに重い。中国人の日本人・日本軍を見る眼を少し知ったような気がします。政治的なことはさておいても、これは発禁を受けるだろうなと。はい、ブラックなのが好きなんです。。
「硫黄島からの手紙」私も見ましたが、書かれていることに共感します。
大枠ではいい映画なのですが、細かい点が気になりますね。日本兵は決して「ライフル」とはいわなかったはずです。また栗林中将は太鼓腹のおじさんですから、ワタナベケンはどうしてもかっこよすぎです。いいのですが。
軟弱そうな西宮君はよかったと思います。
いちばん恐ろしい場面である手榴弾自決を強要される場面も、残念ながらリアリティをそぐ結果となっていたと思います。
また、舞台があたかも西部の荒野のどこかのようで、地熱が異様に高く水の欠乏に苦しんだ硫黄島の戦いの特徴が描ききれていないように思われました。
途中出てくる回想の日本の街のエピソードは、…いわぬが花でしょう。
ただ、実際のところ先頭を切って最後の突撃を敢行したという栗林中将の最期の様子は誰も知らないのが実情のようです。何せ皆死んでしまったのですで当然ではあるのですが…。
ところで、気になるのはそれほどの物質的窮乏下にもかかわらず、米軍をして最大の激戦といわしめた硫黄島守備隊の戦い、なかでも栗林中将の全滅前提の徹底的な戦いぶりです。米軍に最大の出血を強い、まさに彼の起草した電文のとおり「鬼神を哭かしむる」ものであったと感じられます。
上掲の『散るぞ悲しき』を読むと、ヒューマンな合理主義者で軍部主流にたいする批判精神を持ち、家族愛にあふれた人間・栗林と、同時期に遂行された特攻同様の、部下に全滅を強いる苛烈な戦いを指揮した軍人・栗林の、その間にある落差に、今の私たちは戸惑いを覚えざるを得ないものがあります。
思えば「特攻」もまた、若者の美しい姿が心を打つ反面、彼らが遂行したのは一人でも多くの敵の若者を殺すことを意図した戦闘行為に他なりません。
それを今の私たちの視点から理解不能とか愚かしい行為だとか無駄な犠牲だとかいうことは簡単で、ある意味安易といっていいくらいです。
さきの保阪氏の議論に感じたのはそういう安直さです。彼の展開する「特攻隊員」=犠牲者論は、当の特攻隊員たちが決して受け入れることのできないものでしょう。
硫黄島の戦いは昨今の「ブーム」により再評価されつつありますが、一方「特攻」に関しては反省か英霊かといったような内向きの議論に終始し、いまだにその「戦果」がまともに評価されていないように見受けられます。
戦果といことは、つまりどれだけの人的・物的被害を与えたかということにほかなりません。
平和主義のいま、そういう議論が危険視されることはよくわかっているつもりです。
しかし、彼ら特攻隊が出撃に際しなにより気にかけたのは、自分たちの遂行する作戦がどれだけ敵にダメージを与えうるか、という一事だったと思われるのです。
それはどう評価するにせよ、とにかく壮絶というほかにないものです。
私たちはこれまでそういうことをほとんど知らされてこなかったように思われるのです。
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